13.往還者②
鳶色のエプロンドレス姿はこちらの世界では悪目立ちが過ぎる。
きちんと説得した甲斐もあり、カタリナは用意した着替えに袖を通してくれた。シャツもジーンズも男物だったが、本人のスタイルが良いのでそこそこに見える。
澄ましていれば、ただの外国人観光客に見えなくもないだろう。
「あの荷車、馬で引いてもいないのに動いていますわね。あれも電気……で動いているんですの?」
「いや、あの車種なら燃料で動いてるんじゃないかな」
「燃料? 薪や油で?」
「どちらかと言えば油だな。油を燃やした時に出る熱を利用してるんだよ」
「へえー」
あくまで澄ましていればの話であり、当の本人はずっとこの調子で全く落ち着きがない。買出しに出かけてからというもの、街中で見かける不思議な光景について矢継ぎ早に話題を持ちかけてくる。
ちなみに、荷車と評されたのは車道を走っている自動車だ。
「なるほど……つまり、あの荷車は常に油を燃やして走っているということですわね。なんて危険な」
「まったくだ」
実際、自動車にはカタリナが想像しているような危険は滅多にないだろうが、俺も自動車の内部機構について明るいわけではないので適当に頷く。大雑把に、内燃機関であることに間違いはないのだし。
思慮顔で往来を眺めるカタリナの横顔は、先程までの混乱の極みからすれば随分と冷静な、理知的なものに変わっている。
元々、カタリナの地頭の良さは、恐らく俺よりもずっと上だ。
剣を振るしか能がない粗忽者よりは、目の前の状況に対しての適応力も高い。
「この世界に魔法はないのかも知れませんが、魔法と遜色ない技術を有しているように見えます。お風呂にしても、あの荷車の列にしても。この世界の方がずっと進んですらいるのでないかと思えますわね。だからこそ疑問です」
「何が?」
「こんな豊かな世界の生まれであるあなたが、どうしてセントレアで門番をしているんです?」
俺はカタリナの問いを、向かいの牛丼チェーン店の看板を眺めながら聞いた。
最後に牛丼食ったのいつだっけ。
「はぐらかすのが下手ですわね」
「駄目か」
俺は少し考えてから、適当な看板を指差した。
本屋の看板だ。日本語の店名の隣に英字表記が添えられている。
「あれ、半分は読めるだろ」
「……本屋さんですわね。その隣の文字はちょっと読めそうにありませんが……何か関係が?」
「おかしいとは思わないのか」
「え?」
「全く成り立ちの異なる世界で育った人間が、なぜこの世界で使われてる文字が読めるんだ」
はた、と立ち止まるカタリナに、俺は至る所にある英語の看板を指し示してやる。
ウッドランドの公用語は、英語だ。
「それだけじゃない。お前がやってるパン屋にもクロワッサンを置いてたようだが、この世界にもクロワッサンがある。いや、この世界のクロワッサンと全く同じものがあっちの世界にもある、と言った方が正しいか」
「……どういうことです?」
「どちらもこの世界から持ち込まれたものなんだよ。言語や食べ物だけじゃない。ウッドランドの文化の殆どはこちらの世界から持ち出されたものだ」
遥か昔、ウッドランド皇国の建国よりも前の時代。
かの異世界は、北の連峰に住まう竜種が支配していた。
今でこそ最大の種族となっている人類種は、当時は大陸の四方に追いやられたような僅かな生活圏しか持たず、
それ以外の地域では、空から襲い来る竜種に捕食されるだけの存在だった。
限られた土地と限られた資源の中、竜種の脅威に身を寄せ合って滅びを待つだけの非力な生き物。
やがて彼らの中にも信仰が芽生えた。
過酷過ぎる現実を前にして、何かに心のよりどころを求めるのは当たり前のことだ。
たとえそれが、居もしない神様であったとしても。
だが、祈りは届いた。
どういった類の力が働いたのかは定かではない。しかし、彼らの祈りは確かに何らかの存在に届き、
その何者かは、祈りに応えて尋常ならざる存在をかの世界に送り込んだ。
願いを叶える力、摂理と万象を捻じ曲げる権能を与えられた、九人の異世界人を。
彼らは竜種に追い詰められた人類種の窮状を知るやいなや、竜種と戦い、これを滅ぼした。
追いやられていた人類種は解放され、かの異世界の人々には平和が訪れた。
少なくとも、以後の十数年はそうだ。
竜種が滅びてから幾ばくかの時が経ち、
それまでは竜種によって抑制されていた文明の発達が始まると、
驚異的な速度で技術を発展させたとある国が、周辺の国々に対して武力による侵略を開始した。
後のウッドランド皇国の前身となるこの帝国は、竜を滅ぼした異世界人の一人が興した国だった。
異世界の技術を持つこの帝国に対抗し得る勢力は、かの世界には存在しなかった。
戦争で多くの人間が死に、数十の国がひしめいていた大陸は、瞬く間に帝国に塗り潰されていった。
この段になって、異世界人達はようやく気付いた。
自分達は竜種を打倒した時点で去るべきだったのかもしれないと。
或いは、竜種を滅ぼすことの本当の意味を、もっと真剣に考えるべきだったのだと。
帝国を興した異世界人は、彼をかの世界の安定を乱す存在と見なした異世界人達の一派と相討ちになり、死んだ。
彼が残した帝国は幾度か国名を変えながらも版図の拡大を続け、
それから千年近く経った今も、ウッドランド皇国として、国是である大陸の統一戦争を続けている。
異世界人の末路は様々だった。
与えられた権能を返還し、ただ静かに元の世界に帰っていった者。
現地で出来た家族との暮らしを選んだ者。
更なる戦いを求めていずこかへ去っていった者。
かの世界の発展に尽力するため、知恵を与えていく道を選んだ者。
そして、世界を繋ぐ門を守る為に残り続けた者。
公園のベンチで語り終えた俺は、手にした缶コーヒーのプルタブを起こす。
つまらない昔話を黙って聞いていたカタリナは、しばらく黙考してから、おずおずと口を開いた。
「にわかには……信じがたいですわね」
「別に信じなくてもいいさ。俺だってはっきり覚えてるわけじゃないし、過去なんてさして重要じゃない」
ずずず、と缶コーヒーをすする。
「それじゃあ、あなた一体、セントレアで何年過ごしてるんですか」
「もう忘れちまった」
あまりにも長い間同じ事を繰り返していると、昔の記憶はどんどん曖昧になる。
曖昧になるどころか、トコロテンのように押し出されて失われた記憶もある。
「往還門を通った人間は歳をとらなくてね。老いじゃ死なないんだ。健やかでのんびりとした余生を過ごすにはぴったりだな」
「余生が少々長過ぎますわね」
違いない。
俺は笑い、電線とビルの向こうに広がる青空を見上げる。
「魔法使いがこちらの世界に来るのも困るし、科学技術があちらの世界に流入するのも不味い。無用な混乱を生む」
「だからセントレアにある門を守り続けている、と?」
「半分はそうだな。しかし、往還門が俺の部屋とセントレアを繋ぐ一箇所だけ、っていうのは希望的憶測が過ぎる。あそこだけ守っててもあまり意味はないのかもしれない」
「半分? もう半分は?」
問われ、脳裏に蘇る光景があった。
一面の麦畑と、微笑む少女の口元。彼女の顔は、長い年月の中で記憶から欠けてしまった。
声も言葉も、もう思い出すことは出来ない。
ただ、何を約束したのかだけが、鍋にこびりついた焦げ跡のように残っている。
「昔、仲間と約束したんだよ。彼女は往還門を閉じる方法を探しにいった。いつか方法を見付けたら戻ってくる。その時は、門を閉じて一緒に元の世界に帰ろうって。だから俺は、その時まであの門を守り続けなきゃいけない。守らなきゃいけなかった」
「……それは」
カタリナが言葉に詰まる。
言いたいことは分かっている。
「俺も最初の頃は、まあそんな簡単に見つかるわけがないしなあとか、のんびり構えてたんだ。十年経って、探しに行こうかと考えた。五十年経って、疑心暗鬼になった」
二百年が経つ頃には悟った。約束が果たされることは、恐らく未来永劫ないのだと。
歳をとらず、朽ちることも褪せることも許されなかった俺は、せいぜい叫んで転げ回ってのたうつくらいしかできなかった。
「さすがに今はもう、あいつが戻ってくるとは思ってないよ」
「だったら、さっさと帰ればよかったじゃないですか」
語気を強めたカタリナが、咎めるような口調で言った。
こいつは何を怒っているんだろうか。俺にはよく分からない。
「現に帰ってるだろ」
「そういう意味じゃありません。門番をやめればいいと言っているんです」
「いや、さっきも言った通り、両世界の技術バランスを守らなきゃいけないのもあるし、何より」
今止めたら全部が嘘になるような気がした。
約束がたとえ果たされなくても、何度後悔をしても、何もなかった事にはしたくない。できない。
たとえ、終わりがなくても構わない。知ったことじゃない。
「それではまるで……地獄ですわ」
「はは、何を馬鹿なことを。死人が物を食べるか?」
カタリナの膨れっ面を指でつつく。
俺は空になったコーヒーの缶を放り投げ、くずかごに入れた。
「……わたくしも、もう老いでは死ねないのですね」
「ああ」
セントレアからこちらの世界に渡った時点で、カタリナも俺と似たような状態になっているのは間違いない。
世界を行き来する者。流れる時間から外れた者。
往還者だ。
赤毛の少女は深く息を吐いた。
「恨んでくれてもいい」
「まさか。いずれにせよあのままでは死んでいましたし、わたくしの場合は寿命よりずっと先にお迎えが来ます。精霊憑きである限り、あちらの世界では長くはもちませんわ」
カタリナの表情は複雑だった。
喜んでいるようにも見えるし、悲しんでいるようにも見える。その機微は、長い時間を一人で過ごしてきた俺には、よく分からないものだ。
「このまま、あっちの世界に帰らないって手もある」
「有り得ませんわね。わたくしは殿下をお守りしなければ、死んでいるのと同じです。誰が何と言おうとわたくしは戻り……あっ」
言ってから気付いたのか、カタリナはばつが悪そうにこちらを見た。
その顔に向けて言ってやる。
「まるで地獄だぞ」
「……そうですわね」
顔を見合わせて、俺達は笑った。
一通り笑ってから、何も言わずに公園を後にした。




