43.黎明②
俺は困惑していた。
目の前で唐突に起きたことを、一体どう言い表せば良いのか分からなかった。
隣で唖然として目を丸くしているカタリナ。
腰を抜かしたらしくその場にへたり込む若い女騎士。そして、
薄らぼやけた姿で佇む、妙齢の女性。
その女性は仄かな光を放つ粒子で構成されていた。
甲冑を着込んだ出で立ちでありながら、背後の風景が透けて見える。
もし適切な語句を選ぶとするなら霊体、なのだろうが、その持ち主であるはずの人物の姿はどこにもない。魔素を供給する肉体なくして、魔素の流れである霊体が維持できるはずもなく、つまり彼女は幻か、でなければ本物の幽霊ということになる。
できれば前者であって欲しかったのだが、無慈悲にも女騎士の亡霊は俺達へ向き直るや、呆れたような顔をした。
「なんだ。意外と神経が細いのだね、君達は」
「…………喋った」
へたり込んだままの騎士の女の子が呆然と呟いた。
いや、どれだけ図太くても普通は驚くだろう。常人より遥かに長く生きてきた俺でも、いわゆる幽霊というものを見た経験は多くないように思う。というか、初めてと言い切っていいかも知れない。忘れていない限りは、だが。
様々な魍魎が跋扈する現界にあっても、死後の世界というものに対する概念は異界と大差ないと言える。つまり、この世界においても死者の霊だの霊魂だのは眉唾とされているのである。
理由は単純で、存在しないからだ。近しいようにも思える概念である霊体は、あくまで肉体の一部分であると見なされている。肉体が死亡した際に魔素として霧散しまうし、そういった意味でも霊と呼ぶには相応しくないからだろう。
などという思考を一通り済ませ、俺は結論に至る。
「あんた……木蓮か?」
「然り。察しが良くて助かるよ、東洋人」
我に返った騎士の少女が立ち上がって腰の剣を抜く。
しかし、透けた女騎士は小さくかぶりを振るのみだ。
「別に、君達を恨んで化けて出たというわけではないよ。私は最初から死んでいるし、君達に恨みがあるわけでもない。仮に恨みがあったとしても、死者が化けて出るなどという非現実的な現象が有り得るとも思わないがね」
「……その姿でそれを言うのか」
「生憎と現実主義者でね。それに、だ。私が買った恨みの数は君に勝るとも劣らない。その私が保証するとも。怨念で人は甦らないよ」
木蓮はそう言って笑うが、いまひとつ冗談なのか何なのか判断が付かないので苦笑いに留めておく。
どうにも彼女が先程まで殺し合っていた相手と同一人物だとは思えず、調子を乱される。無理矢理気味に思考を切り替え、俺は右手を差し出して見せた。
小指には白い指輪、逃れられざるものが嵌まっている。
「十中八九、原因はこれだよな」
「然り。いささか壊れてはいても、まだいくつかの機能が保たれている。こうして君達の前に姿を現せたのも、君が逃れられざるものを身に着けてくれたおかげというわけだ。まあ、私がそのように仕向けたのだがね」
原理は分からなかったが、考えてみれば恐ろしい話である。
一歩間違えば、俺もハリエットのように木蓮と肉体を共有していたかもしれないのだ。
内心で冷や汗を拭いつつ、平静を装って問う。
「その口ぶりだと、俺達に何か用事があるように聞こえるんだが……?」
木蓮は透けた顔で俺とカタリナを交互に見た。
むしろ、彼女は主にカタリナを見ているような気がした。カタリナの方にも何か思うところがあるようで、二人は僅かに視線を交差させる。
「ふむ……そうだね。強いて言えば、やり残したことを片付けに来た……といったところか。来たまえ。少し歩こう」
言うや、木蓮は俺達の脇を抜けて鐘楼の中へ滑っていった。
足がまったく動いていない。
というか、彼女の足首から先は透けて消えている。
滑る、としか形容しようがなかった。
「歩こうったってな」
こちらは重傷の身である。呑気に散歩をしていられる状況でもない。
しかし、木蓮もそれを承知した上で提案しているのだろう。
無意味だとも思えなかった。
「大丈夫です、ちゃんと支えますから」
カタリナが気丈に言う。彼女も分かっているのだろう。木蓮と話ができる機会は、恐らくこれが最後なのだということを。
木蓮に確認しておきたい事は俺にもある。何か言いたげに手を挙げようとしていたものの、結局何も言い出さなかった水星天騎士の女の子も伴い、俺達は鐘楼の中へ再び足を踏み入れた。
女騎士の亡霊の姿は、奥まった壁から始まっている螺旋階段の上にあった。俺達の姿を認めるや否や、音もなく上へ登っていく。
「様子からするに、君の力は対価が安くないようだ」
「分かってるなら少しは配慮してくれ」
「いやいや、勝者である君がそんな調子では私の立場がないだろう。もっと頑張りたまえ。それに、地上からでは見晴らしが悪い」
見晴らしが何か関係あるのか、という疑問を差し挟む余地は与えられなかった。すいすいと階段を上がる木蓮は、亀の歩みで追従する俺達を振り返ることもなく、ただ一言を言った。
「残念だが、私もハリエットも皇子の名までは知らない」
その一言の意味を察することができたのは、この場では俺だけだ。
木星天騎士団を裏から操り、セントレアに集まっている三人の皇女を狙った黒幕。貴族であるエリオットと繋がっているという点以外は謎に包まれた人物。
その正体を、脅されていたハリエット――木蓮が知らない、という事実は、特に不思議でもない。むしろ納得がいく。
相手の正体が分かっているのであれば、木蓮が大人しく相手の要求を呑むはずがない。いくら貧民街を丸ごと人質をとられているとはいっても、彼女ほどの力量があれば逆に相手を陥れたり、亡き者にするのは難しくなかった筈だ。そうなっていないということは、そういったシンプルな対応策をとれない理由があった、と考えるのが自然だ。
「よほど慎重な奴なんだな。その皇子ってのは」
「エリオットの阿呆を通してでしか接触してこない程度には。あのうつけの心酔ぶりからするに、騙りでもないようだ。分かっているのは皇子であるという事、私とルース以外には数人しか知らない事実……カタリナ・ルースが十七位の皇女であると知っていた、という事くらいか」
えっ、という短い驚きの声が背後から上がった。
二歩くらい後ろをついてきている水星天騎士の少女だ。驚愕と当惑の入り混じった顔でカタリナを凝視している。
当のカタリナは後ろから向けられている視線を気にしている様子はない。やはり、既に木蓮から聞いていたのだろう。
女騎士の亡霊は、たじろぐ水星天騎士を振り返って微妙な顔をした。それから、なぜ何も知らない者を連れてきたのだ、といった類の非難が籠った視線を俺に向ける。実にもっともな非難なのだが、思い至らなかっただけなので弁明の言葉もない。ついでに言えば、全然知らない子なのでフォローのしようもない。
「口は堅いんじゃないか。多分」
「はっ、はい! 堅いです!」
いい加減に返すと、当の少女がコクコクと勢いよく頷いた。それだけでもこの子の人となりは大体理解できる。問題ないだろう、と判断して先を促す。
「だそうだ」
「……まあ、私は構わないが。その甘さはいつか君を殺すような気がするよ」
「肝に銘じておくよ」
透けた呆れ顔が再び前を向き、階段を上り始める。
俺はその後に続きながら、生じた疑問を口にした。
「エリオットは皇子の名を知っている、と考えていいのか。彼も都合よく利用されているだけって可能性もある……というか、高いと思うが」
「それは間違いなくそうだろう。しかし、エリオットも猜疑心の強い男だ。欲も強いが、食らい付く餌は吟味してるだろう」
木蓮はそこまで口にしたところで階段の終わり、恐らくは鐘突き台へと登っていった。
他に情報がなければ奴に当たるしかない。エリオットの狐面を思い起こしてそう結論付け、俺は背後を振り返って騎士の少女を立ち止まらせた。
怪訝な顔をする少女に端的に告げる。
「悪いけど階段を見張っててくれ。誰も通さないように」
「は……はいっ!」
踵を合わせてぎこちなく敬礼する少女を置いて、俺とカタリナは木蓮の後を追う。長かった階段を登り終えると、予想通り鐘楼の鐘突き台に出た。
それなりの高さがある鐘楼の上からは、地平の向こうから白みつつある夜空の下、未だ燃えている街が一望できた。
だが、俺にはもう何の手立てもない。結局、この街を守れなかった。
その結果を突き付けるかのような光景だった。
いや。
「君は、こうなることも薄々分かっていたんじゃないか」
淡い笑みを浮かべて佇む騎士の亡霊が、真っ直ぐ俺を見ていた。
「長く戦ってきた君には、当然この可能性も見えていたはずだ。誰も彼もがどれだけ死力を尽くそうと、何から何までを実現できるわけではない。始まってしまった戦いに犠牲は避けられない。仮に犠牲のない勝利が存在するとすれば、それは始まる前に終わっている戦い以外にない」
彼女の言は真理だ。
犠牲は無い方がいい。それは誰もが願っていることだ。
だが、犠牲が避けられない場合もある。それもまた、自明だ。
そうだ。
俺は分かっていて騎士達を巻き込み、扇動し、手を借りたのだ。
そもそも街の住人を避難させるのではなく、竜種による攻撃を防ぐという作戦をとっていれば、或いはアズルの街が燃えることもなかっただろう。それでも避難などという消極策を俺が取った本当の理由、それは時間の逆説を防ぐことなどではない。
セントレアで過去の俺と未来のサリッサが遭遇した一件。あれは実験だった。ランダムに街を歩くだろうサリッサが過去の俺と遭遇する確率は、極小と言ってもいいほど僅かなものだったはずだ。にもかかわらず、サリッサは俺と遭遇した。
この実験の結果が意味するところは、サリッサにも説明したとおりに「前回にも俺達がいた」などという表面的な事実だけではない。
重要なのは「前回と同じ経緯さえ辿れば、一見有り得ないほど低確率であろうと、必ず前回と同じ結果になるのではないか」という部分だ。何があろうと必ず前回通りになると保障されているのであれば、未来を知っているアドバンテージは大きい。
大き過ぎた。
俺は知っているからだ。
全てが前回通りに推移さえすれば、
マリーとミラベルが無事にこの日を生き延びるのだということを。
結局のところ、だから俺は竜種による攻撃を防がなかった。だから過去の俺達に干渉するような行動は一切しなかった。作戦の立案にも細心の注意を払い、干渉してしまう可能性はどんなに僅かなものでも排除した。
後から色々な理由を付けたし、口では色々な方便を使ったが、本当の理由はこれなのだ。だから人命だけを拾って街そのものは切り捨てた。「全てを救いたい」などと言いながら、ある程度の犠牲を前提にした手段を取った。
皇女達が無事な未来を、確実に保障する為だけに。
矛盾があるのは俺の方だ。
そう考えた時、見透かすような眼差しを向けていた木蓮が、不意に肩を揺らして笑った。
「ふふ……いや、いや。別に見透かしているわけじゃない。君が逃れられざるものを身に着けているから、分かってしまうだけでね」
「……何だって?」
「霊体が繋がっているから、ある程度は君の頭の中が分かるというわけさ。考えや記憶、といったものが」
ぞっとして指輪に指をかける俺だったが、騎士の亡霊は静かにかぶりを振る。
「別に、見られて不都合のある記憶でもないだろう。君はまさしく剣の福音であり、そう足りえるだけの長きを戦っている。何を恥じることがある。その君ですら最善に及ばないのであれば、最初から誰にも不可能だったのさ」
「絵空事だ、とは言わないんだな」
「言い換えればそうだろう。だが、祈りや願いだとも言える。私には、君の力……刃逸らしの魔手さえ切り裂くその剣は、そういった何かに根差した……奇跡のように見えるよ。これは、ただの感想だけどね」
微笑んでそう呟いた後、木蓮は街へ向き直って言う。
「では、東洋人。街の火を消そうじゃないか」
「な……」
唖然とする俺の傍ら、肩を担いでいるカタリナが吐息を漏らした。意図を察したものの、言葉にまではならなかったとでもいうのか。
「もはやこの地に魔素はなく、使える水もない。大規模な火災に対して物理的にも魔術的にも手の打ちようがない、という君の見解は概ね正しい。しかし、いくらかの代償を払えば話は違ってくる」
違和感を覚え、指の逃れられざるものを――亀裂の入った白い指輪を見る。その亜遺物なる呪具は、端から崩れゆこうとしていた。
それと反比例するかのように、透けた女騎士の霊体が力を増していくのが理解できた。緑色の魔素が迸り、瞬く間に眩く輝き始める。
理解する。
逃れられざるものには膨大な魔素が留め置かれている。外典福音として顕現する筈だった数多の騎士達。取り込まれた歴代の所有者達、彼らが屠った敵対者達の霊体。その数は数十、もしかすると百にも届くのかもしれない。
木蓮はその膨大な魔力の総てを使おうとしているのだ。
自身すらも含めて。
「どのみち長くは持たなかったんだよ。君が逃れられざるものを傷付けずとも、もともと壊れていたんだから。ハリエットとの不完全な融合もいずれ限界を迎えていただろう。私達の霊体は大気に希釈され、ハリエットも良くて廃人といったところだった。だから、これで良かったのさ。私達は所詮、死人だ」
「ま……待て! 待ってくれ!」
巨大な緑色の旋風と化しつつある魔素の嵐の中、俺は声を上げる。
叫ぶ。
「あんたが居なくなったらハリエットはどうなる!? あの子にはあんたが必要なはずだ! だから……!」
「ああ……そうだな。君に頼めた義理はないのは分かっているけど、ハリエットを頼むよ。本当に……あれは戦いには向かない娘でね」
「木蓮! やめろ!」
木霊する女騎士の言葉に返す叫びは、とうとう魔素の嵐に掻き消えた。暴風の中、庇うように俺を抱え込むカタリナの悲痛な顔を間近に見ながら、それでも俺は思考を回す。
――誘導された俺が逃れられざるものを身に着けるまで、木蓮の姿は俺達には見えていなかった。
それはつまり、俺という装着者が居なければ亜遺物は機能しない、木蓮の行為を止められるということではないのか。
強引な推論を立て、指輪に指をかける。
このまま引き抜いてしまえば、木蓮が発動しようとしている魔法も阻止できるはず――
しかし、俺は指輪を抜けなかった。
祈るような形で固められたカタリナの掌が、俺の手を押し留めていたからだ。
そう強い力ではなかった。押し返そうと思えば出来たかもしれない。
なのに俺の手は動かなかった。
カタリナの掌を跳ね除けることができなかった。
「すまなかったな、東洋人……カタリナ」
俺はあの暗殺者を理解したつもりでいて、やはり何も知らなかったのだ。
悲しげな、それでいて透徹した表情で緑の嵐を見上げるカタリナの横顔を見て、そう思った。
やがて、渦を巻いた莫大な魔素が吹き散らされるように舞い上がった。
どんな魔術師だろうと、単独では絶対に叶わない絶大な規模の大魔法――恐らくは火を鎮める類の効果を持ったライトグリーンの風が、鐘楼を中心にしてゆっくりとアズルの街に拡散していく。
街を焼き尽くさんとしていた炎が飲み込まれ、消えていくのが見えた。
鐘突き台には何も残っていなかった。
備え付けられていた屋根も、鐘も、すべて吹き飛んでしまっていた。
女騎士の姿も、指に嵌っていたはずの白い指輪も、もう何処にもなかった。
静寂だけがあった。
「私……母の顔を覚えているんです」
俺はカタリナに抱え込まれたまま、
彼女の手を解くこともなく、その言葉を聞いた。
「父と一緒に、優しげに笑っている女性の顔。二人が並んで私を覗き込んでいる、その風景を。不思議ですよね。私に……母なんて居るはずがないのに。でも、覚えているんです」
「……ああ」
「不思議ですよね……本当に」
彼女は消え入りそうな、揺れる声で繰り返した。
俺は何も言えず、その手を取り続けることくらいしかできない。
やがて曙光が差し、地鳴りのような音が遠くから響いてくるのも、音の主である巨大な竜種が転移門に衝突するのも、どこか遠い世界の出来事のようだった。
事実、それらは手の届かない世界――確定した過去の出来事だ。どれだけ手を伸ばしても届かない、彼方の場所。
無理に手を伸ばして得たのは、多くの人々の命と、ひとつの犠牲。
そして、もしかするとあったかもしれない、ある家族の幻想だった。




