42.黎明①
燃える。視界の大半が踊る緋色に埋め尽くされている。
もはや礼拝堂は火の海だった。
ぐったりとした木蓮――ハリエットを受け止めたまま、俺は床に膝をついていた。濃密な死の予感を覚えながらも、ただ動けないでいた。
神速の域に達した木蓮が止まって見えるほどの加速、重ね過ぎた権能の変則発動は、俺の手足を完全に破壊していた。
関節の中身がぐちゃぐちゃに掻き回されているかのように痛み、力を込めてもさして持ち上がらない。ハリエットを傷付けずに済ませる方法が他になかったとはいえ、後先を考えなさ過ぎたのだ。
だが、泣き言を零して現状を打開できるわけでもない。
ここには俺しかいない。
完全に意識を失っている少女を引き摺るように抱え、出口を目指す。
遅々として進まない足に鞭打つ俺のすぐ傍ら、焼け落ちた天井の梁が火の粉を散らしながら落下した。絨毯を貫き、床材が割れ、強烈な熱風が吹き荒んだ。
いくら魔力障壁で物理的な炎を遮断できるといっても、その影響の全てをカバーできるわけではない。炎で生じた一酸化炭素や、減少する酸素まではどうしようもない。なるべく姿勢を低くしてはみたものの、息苦しさは増すばかりだった。
やがて身動きが取れなくなり、俺は歯噛みした。
せめてハリエットだけでも、この死地から脱出させなければならない。でなければ何の為にここまで来たのか分からなくなる。
思い付く限りの手段を脳内に並べて検討し、糸口を探す。
結論はひとつしかなかった。
かすかな可能性すらなかった。
蔓延する煙で霞む視界の中、壊れた四肢を強引に動かし、ままならない呼吸を再開して這い進む。
出口だけを目指して。
次の瞬間、頭上で致命的な崩壊の音が聞こえた。
また梁が落ちてくる。そう理解し、俺は最後の力を振り絞った。ハリエットの体を少しでも出口の方へ進めるべく、腕に力を込める。
不可能だ。実際の動作に移すより早く、俺は悟る。
だが、悪足掻きに過ぎないと分かっていてもそうせずにはいられない。
俺にはその義務がある。
しかし、炎に包まれた瓦礫が俺達を押し潰すことはなかった。
火の手を掻き分け、身廊を駆け抜けてきた一人の騎士が、手にした白銀の大剣で瓦礫を打ち払ったからだ。
「すまない、門番。遅れたみたいだ」
彼は振り切った大剣をそのまま背中の鞘へと収め、屈み込んで俺の肩を担ぐ。
「……いいや。遅れてなんかないさ、お前は」
ウィルフレッド。
その整った横顔には、強い意志の力があった。
彼と共に燃える礼拝堂から街路に脱出したところで、俺は石畳に横たえた少女の煤けてしまった顔に手をかざした。
「息はあるが……なんとも言えないな」
ハリエットが目覚める様子はない。
霊体に強く干渉していた亜遺物の破壊が、彼女にどれだけの影響を与えたのかは未知数だ。
できるだけ早く医者に診せなければならない。俺はハリエットを不安顔で見詰めるウィルフレッドに、何とか気力を振り絞って言った。
「……ドネットなら診れるはずだ。診療所まで運んでやってくれ」
「分かった。でも、君はどうするんだ。君だってかなりの深手じゃないのか」
「は……気にすんな。結構頑丈なんだよ、俺は」
愛剣を支えにして立ち上がってみせると、どこか柔弱な印象のあったはずの金髪の青年は表情を固くして大きく頷いた。ハリエットを抱え、踵を返して迷いなく走っていく後ろ姿にも、気のせいか力強さを感じる。
彼の変化を記憶にだけ留めておき、俺は燃える教会に向き直った。ハリエットの指から抜き取っておいた白い指輪を、逆手に持った愛剣の柄と一緒に握り締め、よろめきながら歩き出す。
極限まで疲弊した頭で考えるのは、もはやカタリナのことだけだ。
彼女は礼拝堂内にはいない。気配もなく、木蓮の性格からして戦闘に巻き込む恐れのある場所に人質を置いておくとも思えない。
距離的に考えると、監禁場所は教会の裏手にある鐘楼に間違いなかった。
杖にした剣の先が石畳に噛み、ガチガチと鳴った。
足を引き摺って前に進みながら、俺は様々なことを思う。
カタリナと木蓮の接触が何を意味するか、漠然と覚悟はしている。ジャンと俺が伏せていた真実を、彼女は知ってしまったのだろう。
俺が事実を伏せていたのは、ジャン・ルースの真意を測りかねたからだ。もし彼が皇帝と争う為だけに皇族を拉致して育てたのだとしたら、親を慕う子にとってこれほど残酷な仕打ちはない。
知らない方が幸せだ。
ただ、そう思った。
無論、別の可能性も考えられる。もしかすると彼にも何か止むを得ない事情があったのかもしれない。
それでも、彼を問い質す気にはなれなかった。
好ましい答えが返ってくるとは思えなかったからだ。
結局、俺は父親という存在に対して希望を持っていないのだろう。自身の父親への失望が、別れてから永い時を経ても染み付いて消えないのだ。
かつてジャンに対して――もしかすると、皇帝に対しても――どうしようもない程の怒りを覚えたのはそのせいかもしれない。
俺は、そんな身勝手な考えでカタリナに真実を伏せていた。
もし真実を知った彼女がそれを責めるなら、甘んじて受けるべきだ。
考えながら、俺は分厚い氷で固められた鐘楼の扉を前にした。
水属性魔術の効果らしき氷に、無造作に剣を突き立てる。現象攻撃までも使って破壊し、俺は鐘楼の内部に足を踏み入れた。
その瞬間、俺は動転した。
両手を広げた誰かが、剣を支えにしてようやく歩いていた有様の俺を抱き寄せたのだ。勢いに押された手から愛剣の柄が離れ、床に倒れてけたたましい音を立てた。それでも相手は驚きもせず、両手にしっかりと力を込めて俺の背中に回す。
相手を分からないわけがない。
感触も、匂いも。
鮮やかな温度も、俺は知っていた。
「……無事でよかったよ、カタリナ」
咄嗟に何か気の利いたことを言おうとして思い付かず、結局、俺はそんなことを言った。俺の胸に顔を埋めた赤毛の少女は、顔を埋めたまま、音の曇った怒声を上げた。
「馬鹿ですよ、あなたは……! そんなになってまで……!」
疲弊した頭では何を指しての発言か分からず、思わず首を傾げてしまう。
べっとりと血に濡れた左肩が少しだけ痛み、ようやく自分の状態を指しての言葉なのだと思い至る。
「ああ……これくらい大丈夫だ。慣れてる」
「慣れちゃ駄目です……慣れちゃ駄目なんですよ、アキトは!」
その涙声の意味も、咄嗟には理解できない。
顔を上げたカタリナは眼鏡をしていなかった。俺の肩の傷を見止めるや否や、ぼろぼろと涙を流しながら手で押さえる。
治癒術を使おうとしている。さすがに見過ごせず、血濡れになってしまった細い手を取った。
「やめろ。こんなもの、後で自分で何とかする」
「い、今のアズルは異界と同じで、大気中に魔素が殆どありません……! 私にもそれほど影響は……!」
言われてみれば確かに、今のアズルの環境は異界に近いかもしれない。精霊憑きを発症したとしても、異界と同じレベルでの回復が見込めるのだろう。しかし、
「でもゼロじゃないだろ。俺は、お前が辛いのは嫌なんだ」
疲労と安堵が思考を鈍らせていた。
方便ではない、偽らざる本心が口から零れ落ちる程度には。
後悔をしても一度口に出した言葉が元に戻ることはない。
聞いた至近距離の少女は、瞬きひとつせずに濡れた瞳で俺を見つめていた。
本当に、いつからなのだろう。
出会った頃の俺達は、お互いを良く思っていなかった筈なのに。
疑問の答えが出るより早く、俺達は現実に引き戻された。
鐘楼の外から慌しい足音が聞こえてきたからだ。
どちらからともなく、俺とカタリナは凄まじい勢いで体を離した。
が、揃って足元がおぼつかない。そんなお互いに苦笑し、支え合って鐘楼から顔を出す。
足音の主は、見覚えのある若い女騎士だった。
名前までは出てこなかったが、水道の件で話をしたのを覚えている。走るリズムに合わせて栗色のショートカットが揺れている。まだ可愛らしい年頃、と言っては失礼なのだろうが、どうにも頼りなさが先に立つ感じだ。
だが、彼女は焼け落ちる教会の建物を時折見上げながら、必死の形相で何かを探していた。
何か深刻な問題が発生しているのだろう。そう直感して声を掛けようとした時、走りながら目を彷徨わせていた彼女と、ちょうど視線がぶつかった。
「あっ……ああ、良かった! 団長代理! ご無事で……え……」
駆け寄ってくる少女の顔が次第に曇る――無理もない。俺の左半身はもはや血塗れで、足を引き摺り、同じように傷だらけのカタリナに支えてもらってようやく立っているような有様だ。困惑するなという方が無理だ。
だが、説明する時間が惜しい。
「何かあったのか?」
「あ……は、はい。例の仮面を被った人が水を汲み上げてくれたんですが……その……やはり量が足りないと」
「……そうか。分かっちゃいたが……厳しいな」
方法は分からなかったが、リコリスはちゃんとやってくれたらしい。
地下水の量が足りなかったのは彼女の責任ではないし、それ以上を求めるのは酷だ。彼女がこの場に居ないということは、善意の協力もここまでという意味なのだろう。
仮面の少女に内心で感謝の言葉を告げ、回らない頭をもう一度だけ捻る。
どうやら話が見えなかったらしいカタリナが俺に問うた。
「水道が……どうかしたんですか?」
「止まった。途中で破壊された」
端的に答えると、途端にカタリナの顔も青くなった。
このまま火災を放置して自然に鎮火するに任せるとすると、経験則からの予想だが、雨でも降らない限り街の半分は焼けるだろう。火に接する建物を壊していったとしても、やはり火災そのものに対処できなければ限界がある。街の半分を失えば、もはやこの街が元通りの活気を取り戻す日など永遠に来ない。
そんなことは許容できない。
人命だけ助けられればいいという話ではないのだ。
――何か手はないのか。
自問するも答えはなく、苦し紛れにカタリナと目を合わせるも、彼女も静かに首を振った。叡智の福音でも分からないのであれば、もう出来ることはなにもないのかもしれない。
そうと分かっていても諦め切れず、状況を打開する何かを探して視線を動かす。
ふと、愛剣の柄を握る手の中で、何かが瞬いた気がした。
その時、どうしてそんなことをしたのか、自分でも良く分からない。ただ導かれるように掌を開き、剣傷によって割れ欠けた指輪、亜遺物を、俺は――自分の指に嵌めた。




