41.果て③
路地にポツンと存在していた井戸をようやく見付けた仮面の少女は、ゆったりとした足取りで石造りの井戸枠の傍まで近寄った。
白い化粧石に手を置き、ざらざらとした手触りを数秒楽しむ。そうしてからようやく、彼女は自らの魔素を操った。
地面の下。石と土を通り抜け、その奥にある水を帯びた地層にまで意識の網を巡らせた。ごく微量に流れる水にさえも魔素を通し、全て掌握する。
「……やっぱり」
一瞬にしてアズルの地に累積した地下水の総量を把握した少女は、掠れた溜息のような呟きを漏らした。
懸念が的中していた。門番の少年に話したとおり、この地が帯びている水の量は多くなかったのだ。賦存している地下水全てを強引に汲み上げたとしても、本来の水道で供給されていた量の水を得るのは不可能だった。
そもそも、水の供給が成功しようと失敗しようと、大局的な見地に立って言えば結果は変わらない。
未来はもう決まっている。この事案は重要な分岐点とは成り得ず、本来であれば介入するほどの価値はない。むしろ、介入する事で発生する影響を考慮すれば避けるべきだった。僅かな誤差が後々において大きな失敗を招く可能性は低くない。
しかし、水道を失った人々の不安と混乱は激しさを増しつつあった。門番の少年が言っていたように、一時的にでも水を供給することで不安心理の増大を抑える効果は見込めるだろう。
それに、助力を約束した手前、無視をするのも気が引けた。
「……約束、ね。どの口で言うのやら」
独り言を呟きながら、無造作に体内の魔素を操作する。
少年には「流体操作の魔術は難しい」と告げていたものの、それは一般的な魔術師にとっての話であって、この少女には適用されない。
従順な魔素達へ命令を下し、ぐねぐねと曲がった透明な筒状の力場を作らせる。その力場を井戸の口から街路の水道まで伸ばし、少々強引に水路を繋げた。
あとは水を通すだけだ。
最後の命令を下す瞬間、仮面の少女は指を鳴らした。動作は特に必要なかったのだが、なんとなく興が乗ってそんなことをした。
井戸の水が逆巻く。
直後、滝のような激しい水音と地響きが重なり、鉄砲水もかくやという勢いで井戸口から水が迸った。少女は掌握した深層地下水の全てに働きかけ、井戸の竪穴から逆流させたのだ。
少女はぱちんぱちんと繰り返し指を鳴らしながら、水流が力場を通って水道へと流れ込む様をぼんやり眺めた。
「……あとは誤差をどうするか、だけど」
時間はあまりない。思考だけは既に別の事項へと移っている。
僅かな誤差はとはいえ補強は必要だ。そう考え、材料を探して思案する少女の背後で、物音がした。
おや、と振り返ると、若い女騎士が腰を抜かして街路にへたり込んでいた。大きく見開かれた目が写しているのは、大蛇のようにのたうちながら井戸から水道へと流れ込む水流だ。
なるほど、傍目には異様な光景に映るのだろう。迂闊だったかもしれない。納得した仮面の少女は、声もなく慄く騎士の少女まで歩み寄り、屈み込んで目線を合わせた。
「あなた、確か……モイラさんと言いましたね」
「は、は……い」
「そう怯えないで下さい。あれはただの水です」
存外、この騎士が補強になってくれるかもしれない。
ぱくぱくと口を動かす騎士の少女の肩を軽く叩き、気付けを行う。そうしてやっと目を合わせた相手に向け、仮面の少女は穏やかに語りかけた。
「見ての通り、水は用意しました。ですが量が足りないみたいです」
「あ……あんなに出てるのに?」
「ええ。あんなに出てるのに、です」
静かに念を押しながら、少女は言う。
「だから、門番の彼に伝えてください。このままでは火は収まりません。何か別の手を打つ必要があります、と」
「……別の手って」
そんなものはない。
魔術の造詣も学もないモイラにも分かる。他の手立てがあれば門番の少年が口にしていただろうとも。
困惑する騎士の少女に、仮面の少女はただ言葉を重ねた。
「確かに伝えてください。彼は教会に居ます」
***
もう何度剣を打ち込んだか分からない。その度に剣をいなされ、弾いては返し、致命的な反撃を食らいそうになりながらもそれを躱す。そんな応酬を幾度繰り返しても、互いの牙が喉笛を噛み千切ることはなかった。
一度距離を置き、薄氷の上を渡るかのような攻防で詰めていた息を吐き出す。仕切り直すべく長剣の刃を振り抜いてから中段に構え直し、俺は正対する敵の姿を見据えた。
魔術の炎に包まれた聖堂に、もう夜闇はない。炎を背に立つ黒装束の暗殺者が、幽鬼の如く揺らめいて照らし出されていた。
木蓮の息は荒い。初撃の風長刀以降、互いに有効打こそないものの、全力の戦闘行動は体力と魔力を容赦なく削る。徐々に鈍重になりつつある四肢に、俺も体力の消耗を自覚した。
肩の傷も浅くはない。左の短剣も既に刀身七分目辺りから先が折れ、右の愛剣からも通した魔力の歪みが伝わってくる。権能の使用回数も多くは残されていない。
戦況は五分か、やや不利か。
いや――
熱を帯びた空気を吸い、俺は使えなくなった短剣を放り捨てた。
それから愛剣の剣尖を持ち上げて戦意を誇示する。
無機的な顔を捨て、険しく結ばれて久しい木蓮の唇が動いた。
「何か狙っているな」
当然、狙わないわけがない。
武芸だろうが魔術だろうが、技や力で圧倒する――圧倒できるのは一流のレベルまでだ。それより上、達人の域においては、技や力だけでは通用しない。フェイントで騙し、不意を突いて崩し、奇策でもって機先を制する。戦術は勝利の鍵であり最大の武器だ。俺も木蓮も常に互いの間隙を探り合っている。
「別に、特別なことじゃない」
だが違う。
それとは関係なく、この戦いは終わる。
五分でも不利でもない。
動揺の色を見せない暗殺者に、構えたまま告げる。
「同じ相手とここまで長く戦うなんてことはそうそうない。戦いなんて一瞬で決着が付くことの方が多い。そうだろ」
「……わざと長引かせたと?」
「勘違いしないでくれ。手を抜いたわけじゃない。抜けるわけがない。ただ、確信が持てなかった。確かめる必要があった」
ブラフと受け取られたのか、彼女は腰を落として力を溜める。
俺は構わず、言葉を投げた。
「他の外典福音も傷を負って怯まなかった。たぶん、痛覚がないんだろうな」
木蓮は無言を貫いた。
突き詰めてしまえば、感覚とは脳の電気信号だ。そもそも、死体の脳にそんな神経活動は存在しない。それなら、なぜ外典福音は五感を有していたのか。
「恐らく、人の霊体には脳と同じような器官がある。でなければ、あんたが生前の記憶を有してるはずがない。つまり、アンデッドってのは肉体側の脳を使わず、五感も記憶も自前の霊体で処理してるんだろう」
人間の意識がどこにあるのか。そんな、哲学一歩手前の知識は俺にはない。
死霊術に関してもだ。
だから、ごく簡単な推測から結論を導き出すだけだ。
「あんたも同じだろう。ひょっとするとあんたはハリエットの体がどれだけ損耗しているのか、目で見ないと把握できないんじゃないか?」
最初の戦いで指を斬った時、彼女は傷を負った手をわざわざ目視していた。傷の程度を確認するにしても、戦いの最中の行動としては不自然だ。
どの程度かまでは分からないにしても、肉体の感覚が希薄なのは間違いない。
「だから、目に見えない身体の不調に気付けない。今も気付いてないんだろう。さっきから、あんたの動きは徐々に鈍くなってる」
そこで初めて、木蓮の目に動揺の光が見えた。
彼女が見落としていること。俺にだけ見えていること。
理屈は複雑でも、結論は単純だ。
「ハリエットは戦士じゃない。魔術師だ。体格も恵まれてはいないし、体つきを見るにも鍛えた様子がない。その体は、あんたの全力に長くは耐えられない」
一言で言えば、体と能力の不一致だ。
達人の域にある木蓮の魂と、まだ若く華奢なハリエットの体。その二つを掛け合わせてしまうと、どうやっても帳尻が合わない。いくら魔力で身体能力を補えるといっても、体を動かす以上は限度がある。運動によって体にかかる衝撃はゼロにはならないし、疲労は蓄積する。疲労はやがてダメージとなり、徐々に体を破壊していく。
本来であれば筋肉の痛みなどで分かるものだが、彼女の場合はその感覚が希薄なのだ。気付けないのも当然だ。
「……そうか」
納得して構え直す暗殺者の動きも、やはり精彩を欠いている。数え切れないほど繰り返した攻防が紙一重のものであったからこそ、不調は如実に読み取れた。
長い練磨の末に結実したのであろう至高の技は、遠からず失われるだろう。そうなれば、もう勝敗は明らかだ。魔術の多重詠唱を駆使したとしても結果は同じ。速度だけなら、魔術よりも俺の剣の方が上だからだ。守りの要である体術が欠ければ、彼女を切り崩すのは容易となる。
だからこそか。
木蓮はかつてない程の殺気を発散した。魔術を使わず、魔力を身体強化の一点に集中させて力を溜め込む。細工も策謀もない、渾身の一撃を繰り出さんと低い構えを取った。
「虚しさ、か」
応じて剣を上段に構える俺に、木蓮はやはり――深い諦念の滲む言葉を発した。
「そう……君達の言うとおりだとも。どれだけ殺そうと人の悪性が尽きることはなかった。どれだけ殺そうと人が癒されることはなかった。世界は何も変わらず、私もまた一匹の悪鬼でしかなかった。その果てがこれだ。弟子ひとり救うことすらできない、情けない亡霊だ」
この柔らかい口調こそが、本来の彼女のものなのかもしれなかった。
もしかすると優しい人だったのかもしれない。
不意に、そんなことを思う。
「でも、流した血は無意味じゃなかったはずなんだ。先に逝った仲間の犠牲も、切り捨ててきた多くの命も、無駄じゃなかったはずなんだ。それだけは認めるわけにはいかない。私には君の理想を認められない」
間違っていたと認めてしまえば、何もかもが本当に無意味になってしまう。
理解できる。彼女の懊悩は、かつての俺が辿ったものと同じだ。
俺と彼女の違いは、たったひとつだけだ。
俺は後悔を抱えたまま千年を生きた。彼女はそうならなかった。
俺達の違いは、たぶんそれだけだ。
「私達の戦いは……我々の戦いは、決して、間違ってなどいなかった! その証を立てるために、私はお前を討たねばならない!」
もう言葉や理屈では止まらない。
止まれない。
彼女が背負った命がそれを許さない。
「我々こそが夜の者だ! たとえ今は暗黒の夜が続こうと、悪性の輩を除き続けた果てにこそ夜が明けると信じた! 弱者が傷付くことのない、穏やかな朝が訪れると信じた者達の名だッ!」
喉を裂くような絶叫と共に、少女は床を蹴る。
踏み抜かれた床が破裂した。莫大な推進力を得て瞬時に加速したその姿は、もはや黒い影のようにしか俺の目に映らない。
一人の暗殺者が生涯を賭けて極めた技。そこに外典福音の持つ数十人分の魔力が注ぎ込まれた結果、何もかもを振り切る、神速の一撃が体現されようとしていた。
俺達はもう三度も戦った。
四度目はない。
瞬きにも満たない時間を、早送りで伸長する。
二度、三度、権能を重ねる。
変則発動の重ねがけは二重までしか経験がない。それ以上は未知の領域だ。
重ねる毎に視界が赤く染まった。限界は近い。
だが、後の事は考える必要はない。
ただの一撃があればいい。ただの一刀があればいい。
剣を構えたまま、世界の速度だけが鈍化していく。
漆黒の霞が像を結び、俺は遂に手刀を繰り出す黒衣の少女の姿を捉えた。
彼女が俺の太刀筋を見切ったように、
長い攻防の果て、俺もまた、彼女の千変万化する手刀を読み解いている。
そして、
俺は、間違いなく過去最速の速さで剣技を再生する。
剣筋には変わったところのない、斜め上段からの逆袈裟斬りの技。
名は斬鉄。
神域の速度へと達した二つの技が、交錯した。
刹那が過ぎ、やがて本来の流れを取り戻した時間の中、
繰り出された手刀が目鼻の先で停止しているのを見止めた俺は、愛剣を振り抜いた姿勢のまま、目を閉じる。
「この果てに朝なんてない。なかったんだ、木蓮」
すぐに返事はなかった。
届かなかった技を繰り出したまま、
無言で立つ少女の指から、白い欠片が零れ落ちた。
帰参者としてイレギュラーな存在である彼女の霊体は、果たしてどこにあるのか。
予め見当は付けていた。説得する以外で、ハリエットを殺さずに木蓮を打倒する方法は、彼女の霊体を破壊する以外にない。その手立てをなくして相対するのは無謀だったからだ。
俺の剣は彼女を斬っていない。剣尖が繰り出された手刀の指を掠めた程度だ。
正確には、指に填められていた白い指輪。
亜遺物、逃れられざるものを。
「いいや……朝は……見えたよ……」
掠れた声を残し、少女の体が揺れた。
前のめりに倒れ込む彼女の体を抱き止めた俺は、どこか夜の静寂を思わせる呟きを聞いた。
「…………君の剣が……私の朝だったとも……」




