39.果て①
慣れないエプロンドレスにキャラメル色の旅行鞄だけを持ち、赤毛の少女は歩いていた。肩を落とし、俯きながら、暗澹たる心持ちでただ歩いていた。
皇都トラスダン上層。
限られた者にだけ許される光景、抜けるような青空と、美しい一面の草原が目の前に広がっていても、今の彼女には何の慰めにもなりはしない。
草原に数多居並ぶ象牙の塔も、散在する白亜の城も。感心よりも先に「何故こんなものが存在するのか」という疑問が先に立つ。
腹に据えかねているのは気分のせいだけではない。
今まで少女が住んでいた中層はまだ良い。庭を備えた屋敷が並ぶ程度には空間に余裕があり、陽光の差す外縁部などには緑や水もあった。
だが、下層以下の層などはまるで養蜂箱だ。網のように整理された居住区画はそれぞれが狭く、凝土と瀝青で押し固められた灰色の建屋が隙間なく詰まっている。採光に割くスペースなどはなく、光は全て魔力灯で賄っている常夜の街だ。
この、光溢れる上層の景観とは比べるべくもない。
少女は頭を振る。
ここは恵まれ過ぎた環境だ。
多過ぎる水が苗木を腐らせるように、人も、快適が過ぎる環境では自ずから腐っていく。少女は上層に暮らす皇族がどのような人間達なのかまでは知らなかったが、人柄に期待はできそうになかった。今からその皇族に仕えなければならないと考えると、気分は更に重くなる。
もし今、腰に剣のひとつでも下げていれば話は違っていただろう。騎士として主君に仕えるのであれば納得も出来る。そのように己を鍛えた自信はあった。
何年も。何年もだ。
その末に、稀代の俊英などと将来を期待されるようにもなった。
九天の頂に立つ父をも超える、当代最強の騎士になるだろうと。
「……それが、侍女だと? この私が?」
命じた父の意図が読めない。
フリルの多い、無駄に装飾過多な服のスカートを握り締める。
確かに、大きな問題はあった。
半年前に発症した病、精霊憑き。死病であるそれが、否が応でも精霊に触れる機会が多い騎士となることを許さなかった。
だが、その死病が逃れ得ぬものであるのは、騎士であろうと無かろうとさして変わらない。魔術を禁じても十八までは生きられないだろうと言われていた。
ならば、遅いか早いかの違いでしかない。
どうせなら好きに生きて好きに死にたかった。
だというのに。
「ええい、忌々しい!」
地団太を踏んでも状況は変わらない。手入れの行き届いた芝が散り、薄緑色の魔素が漂うだけだ。まるで無為だ。
だから少女は芝の上を歩き続ける。
ままならない現実から逃げ出すように、ただ歩く。
やがて見えてきた白い城館が彼女の目的地だった。
簡単な造りの門を備えるだけの、シンプルな城。
その、名すら無い城に住まう何者かが今日から自分の主人なのだ。そう考えるとやはり気は滅入るもので、少女は簡素な城門の前で足を止めてしまった。
しかし、おかしい。
曲がりなりにも皇族の城だというのに警備の者が居ない。
城自体が防衛を考慮していない構造なのは理解できる。そもそも、皇都の上層に建っている建築物が外敵を想定するのは馬鹿げているからだ。上層に至るまでに幾重にも張り巡らされている防衛線を踏破できる外敵など存在しない。
とはいえ、門に誰も立たせていないのは問題があるだろう。魔術的な監視網の存在は辛うじて感じられたものの、それだけでは即応力に欠けるというものだ。
警備上の問題点を戦士としての視点で指摘しつつ、赤毛の少女は開けっ放しの門をくぐる。
そうして、足を踏み入れて気付いた。
この城には、屋外どころか屋内にさえ人の気配が殆どない。警備はおろか、当然居るはずの使用人達の気配すらないのだ。
正門から居館までの道にも人影はなく、生垣に挟まれた石畳が真っ直ぐ伸びているだけだった。深緑色の垣根の葉が微かな風に揺れ、陽光を反射してきらきらと光っている。動くものといえばその程度だ。
いや。唯一、少女は視界の中に人の姿を見た。
垣根の向こう。庭園のテラスに子供の姿があった。
妙に飾り気のないドレスを着た、綺麗な金色の髪の女の子だ。
その子供はテーブルの上に置かれているティーポットと格闘していた。
茶器の扱いが分からないらしいく、蓋を取って覗き込んだかと思えば、次の瞬間にはひっくり返して底面を凝視したり、手にとって様々な角度から眺めてみたりと、まるで幼子のような有様だった。
だが、赤毛の少女は密かに嘆息する。
おかしな子供の纏う絶大な魔力に、ではない。
それは、喩えるなら。
いつか失くしたパズルのピースを見付けたかのような、言いようのない安堵からだった。
***
半壊した鐘楼の鐘突き台を目にした後、俺は真っ直ぐ教会へ走った。それでも、事が起こってから結構な時間が経過しているのは間違いなく、仮に鐘楼で戦闘があったのだとしても既に片が付いている。現に俺が教会に辿り着いた時、辺りに戦いの気配はなかった。
礼拝堂の分厚そうな木製扉を前にして、俺は一瞬だけ躊躇をした。
起きただろう戦闘が好ましからざる結果に終わった可能性は高かった。その結果を直視する覚悟がなかっただけ、といえばそうだ。
逡巡が僅かな間だったのは、行動に感情を伴わせないという心得のお陰だ。もしその心掛けがなかったら、恐らく俺はここに来ることすらもままならなかったのだろう。
扉は押しても引いても開かず、魔力的な罠の有無だけを確認してから長剣を叩き込んだ。なおも未練がましく蝶番に留まった残骸を蹴破り、内部に踏み込む。
避難した住民が居る筈の礼拝堂内に人気はなかった。
祭壇の前。
ただ一人、身廊の先に立つ人影を除いて。
気付かれていない筈もない。
殊更に語る言葉はなく、俺は愛剣を片手に前進する。
それと同時に、伏兵や罠を警戒して視線を動かした。
魔力感知も試みる。
しかし、静まり返った礼拝堂内に何かを発見することはできなかった。
解せない。
これは一体どういう状況なのだろうか。
もし木蓮が目的を達したのなら、ここで俺を待つ理由はない。
彼女が単身で戦いを挑んできた理由も見当が付かない。
鐘楼に居たカタリナ達が正面から倒されたとも思わない。いくら木蓮でも、サリッサとウィルフレッドを含めた三人を同時に相手取るのは不可能だ。だからこそ彼女達を同行させていたのだが――
「ここには来ない可能性も考慮していた」
こちらへと歩き出した木蓮が唐突に声を発した。
「我々への対応だけならいざ知らず、平行してドーリアへの対応を行うのは欲をかき過ぎている。順に対応すれば良いものを」
「そう見えたのか」
「事実だろう?」
仄かな蝋燭の明かりに照らされた術衣の少女はそう言うと立ち止まり、手に持っていた棒状のものを放り投げて寄越した。俺に届く少し手前で床の絨毯に転がったそれは、ドーリアの傭兵騎士達が使用している片手剣だ。
襲って奪ったのだろう。木蓮はそこから様々な勢力が入り乱れているアズルの現状を把握したに違いない。
「もし俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」
「殺して終わりだ。他に何とする」
取り付く島もない、というわけでもないらしい。短いやり取りから得られるものも少なくはなかった。やはり木蓮は俺を待っていたらしい。
そして、居場所こそ分からないがカタリナはまだ生きている。助け出すには、木蓮を打ち倒す以外に道がない。
俺が愛剣を持ち上げて正眼に構えると同時に、暗殺者が腰のベルトから短剣を抜いた。左右の手で二本。逆手で構えて刃を俺に向ける。
距離は一呼吸で踏み込める間にまで詰まっていた。
左右を長椅子の列に挟まれた身廊の幅は狭く、近接戦では正面からの打ち込みを強いられる。条件は対等だろうが、魔術を含めた遠距離での攻撃のバリエーションにおいて俺は木蓮に遠く及ばない。彼女が短剣を使っているからといって、素直に近接戦闘を行うと受け取るのは危険だろう。
そも、彼女の最大の武器は徒手での格闘だ。生半な飛び道具で仕掛けて隙を晒すとも思えない。遅かれ早かれ、致命の一手を食らわせるべく前に出てくる。
燭台の揺れる光に浮かぶ木蓮の双眸は何の感情も帯びていなかった。恐れも怒りもない無色の瞳。
セントレアで初めて戦った夜も、彼女は同じ目をしていた。
「全ては救えたか?」
それは、夜闇に染み渡るような静かな問いだった。
「お前も知っている筈だ。その剣で多くを殺してきたのだろう。何をどれだけ、とまでは分からずとも、剣の冴えを見れば分かる」
「……あんたとそう変わりはしないよ」
「であれば尚更、我らは同じものだろうよ。殺して除き、道拓く者だ。知らぬわけがない。分からぬとは言わせん。我らの後背に積み上がった屍の山を」
分からないわけがない。
剣を振るうという行為の本質は、究極的にはそういう事だ。英雄だの、伝説だの、そんな言葉でどれだけ綺麗に飾っても変わらない。
「悪辣な貴族の娘が居た。平民を攫っては弄び、戯れに殺すような外道だ。今まさに死にゆかんとする犠牲者の前で、私はその首を刎ねた」
無色の瞳で少女は言う。
「指先ひとつで百の兵を動かせる男が居た。男は兵達だけを死地に追いやり、自らの命だけを繋いだ。嘆く遺族達の前で、私はその首を刎ねた」
平坦な声音で少女は言う。
「孤児を売る商人、謂れなき罪を被せる審問官、重税を課し私腹を肥やす領主。法で裁けぬ尽くを殺した。私自身に思うところがあったわけではない。ただ、そうせねば救えない者達が居たからだ。そうせねば断てぬ悪が在ったからだ。どうあっても変わらぬ悪性の輩を野放図としてしまえば、徒に弱者が犠牲となるからだ」
「それが夜の者の存在意義か」
木蓮は本当に何も感じていなかっただろう。
いや、もしかすると最初は違っていたかもしれない。誰かを殺す事を嘆きながら、誰かを守れた事を安堵しながら戦っていたのかもしれない。
だが、人間という生き物はそんな風に無理をしながら生きられるように出来ていない。苦痛にも喜びにも、いずれは慣れてしまう。何も感じなくなる。
「然りだ。私はそのように死を撒き、そのように死んだ。だがな、東洋人。私は後悔などしていないし、己が間違っていたとも思わない。もとより全ては救えない。それより他になしと定め、それこそが真理だと知っていたからだ」
彼女の言葉は正しい。
人間の中にどうしようもない悪人が存在するのは確かなのだ。法の目を掻い潜り、或いは味方に付け、弱者を食い物にして悦びを得る人種だ。抹殺すべきだとするのも理解は出来る。それぞれの是非を判断する資格も、当事者ではない俺には恐らくない。
だが、
「ひとつだけ教えてくれないか」
俺の呼び掛けに、ハリエットの顔をした少女が僅かに顔を持ち上げた。
互いに刃を向け合う相手へ、俺は最後の言葉を重ねる。
「……あんたが助けた人達は笑っていたか?」
問うた途端、彼女の整った眉目に僅かな動きがあった。
それから小さな唇が微かに開き、何かを言おうとした。しかし、漏れ出でた吐息が言葉を形作ることはない。
「奪われて、虐げられて……報復を叫ぶのは、たぶん自然なことなんだろう。罰と贖いを求めるのは当然のことなのかもしれない。復讐が無意味だとか、そういうことを言いたい訳でもない。もっと単純な話だ」
計り知れない絶望のままに、人類種全てに復讐しようとしているアリエッタの事を思い出しながら、俺は言う。
「それがどんなに憎い相手でも……たとえ、そいつがどれだけ救えない人間だったとしても、目の前で無残に人が死んで……それで笑っていられるような状態の人間が救われていたとは、俺にはどうしても思えない……!」
アリエッタは笑っていた。
だが、彼女は救われない。これからどれだけの街を焼こうと、どれだけの人間を屠ろうと、彼女が救われることはない。アリエッタの願いは間違っている。
「あんただって分かっていた筈なんだ! でなければ相手を殺す様なんかを見せるわけがない! 誰かを殺すってことの意味を言葉の上でしか知らなければ、その虚しさとおぞましさを実感することもなかっただろうに!」
無知なまま戦いに臨んだ、あの愚かなエリオットのように。
俯いた木蓮の双眸が、垂れた前髪の間から俺に向けられていた。俺は無機質なその瞳に、試すような、確かめているような光を見た。
そして、確信する。
木蓮が俺を待っていた理由はこれなのだと。
彼女は別に俺を否定したかったわけじゃない。
全ては救えないと諦め、殺し続け、その果てに討たれた自らをこそ。
「あんたは間違っていたんだ、木蓮ッ!」
問答が終わる。
静寂に響いた俺の答えを、少女は小さな呟きで返す。
「なればこそ」
鍵穴に差し込んだ鍵が噛み合ったかのように、そこで明確に空気が変化した。
礼拝堂の天井に、彫刻の為された壁面に、虹色のステンドグラスに、薄暗い夜闇を引き裂いて無数の魔法陣が浮かび上がる。
木蓮の姿も一変した。滲み出るように現れた黒衣が彼女の細身を包み込み、漆黒の人型にへと変貌する。
双剣を手の中で回し、逆手から順手に持ち替えた暗殺者は吼えた。
「己が正答たる証を立てるがいい、東洋人! 力なき理想は不義である!」




