38.馬車具の姫
まるで、自分の身体が砂の詰まった袋のようだった。
倒れ伏したカタリナは、僅かに持ち上げた自分の手の甲が、今にも砕けてしまいそうなほど罅割れているのを見た。罅の間からは赤く輝く精霊が零れている。まるで血のようだ、とカタリナは他人事のように思った。
それからようやく、
自分の置かれている状況を把握しようと目だけを動かした。
視界の端に、礼拝に使う長椅子が見えた。
「……礼拝堂」
そこは教会の中だった。
木蓮と戦った鐘楼の下、転移街アズルに数多存在する教会のひとつ。街に滞在していた生命の福音が根城としていた場所だ。
他の公共施設と同じく、そこにも多くの避難民を収容させていた筈だった。しかし、人々の姿はどこにもない。並ぶ長椅子にも、隙間に敷かれた絨毯の上にも。
祭壇の前に横たわるカタリナは、次に天井を見ようと首を動かした。
が、痛む身体では叶わず、僅かに身じろぎをするに留まる。
最早、身を起こす事さえもままならぬ有様だった。
鐘楼から落下したのは辛うじて覚えていた。
天井を突き破って礼拝堂に落ちた、と考えれば一応の筋は通るかもしれない。しかし、六十フィートの高さから落下すれば、いくら魔力障壁を備える身とはいえ墜死は免れないのではないか――
「目が覚めたのか。その身体で、よくも命が尽きぬものだ」
疑問の答えが声を発した。
術衣に身を包んだ少女が、気配を殺して傍らに立っていた。
木蓮。倒れ伏したまま言葉もなく驚愕するカタリナを眺めやり、少女の姿をした戦士は祭壇に寄って腕組みをした。
「まずは健闘を称えよう、カタリナ・ルース。お前……いや、お前達の持つ不可解な能力には驚かされてばかりだ。御使いの力……皇帝のものだけかと思っていたが、成る程。あながち御伽噺でもないのだろうな」
「……」
「だが、どんな力であろうと一度見せてしまえば強みは減るものだ。我らの技を真似たのまでは良かったが、最後の一手だけは失策だったな」
「どういうことです」
「お前が持つ記憶を奪う力のことだ。我々との最初の戦いで使っただろう。あの時点で、私はその力の正体におおよその見当を付けていた」
「……まさか」
「幸い、攻撃を受けた部下の頭は回収できていたのでな。脳から情報を吸い出そうとして……残っている筈の記憶がごっそりと消えている事に気付けた」
カタリナは絶句する。彼女の語るおぞましい所業に、ではない。
現象攻撃、忘却の川が不発となった理由に思い至ったからだ。
なぜ気付かなかったのか。
「そう、脳だ。つまり、お前の力は肉体に作用しているのだ。であれば、その力の仕組みが何であれ私には効果がない。肉体の持ち主ではない私の記憶は、この肉体……ハリエットの脳にはないからだ。その推測どおりだった、というわけだな」
「……」
饒舌な敵の姿に、カタリナは困惑した。
彼女は黙して語らず、ただ戦う者であるという印象があったからだ。
少なくとも、わざわざ種明かしをして興に耽る人物ではない。
「そう訝るなよ、ルースの娘。私とて暇を持て余す事もある。今はもう……ハリエットもいないのでな」
「……いない?」
「諦めてしまった、と言ってもお前には分かるまいな。複数の霊体を身体に持つという事は魂を複数持つ事と等しい。だが、統制もなく各々が勝手に身体を動かせば」
カタリナは想像する。
もし、複数の意思をひとりの人間の肉体に押し込めたとするなら。
「……歩くことすら……ままならなくなる」
「然り。故に、主人格は常にひとりだ。表層となる主人格以外の魂は精神の奥底へと沈む。一時的にそれらの魂を呼び起こし……霊体を利用して複数の魔術を行使する事も可能だが、基本的には眠っている」
複数の魔術行使。
さらりとそう言った木蓮に、カタリナは再び無念を噛み締める。
人間がリアルタイムで同時に行使できる魔術は、基本的に一種類だけだ。破壊魔法と防御魔法の効果を同時に発動することはできない。単一の人間の思考では、魔素へと下す命令を同時に複数は処理できないからだ。
鐘楼での最後の攻防、木蓮は詠唱する素振りもなく石人形の腕を生成してみせた。今思えば、あれは予め詠唱を済ませていたのだ。その身に宿る、別の誰かの魂を用いて。
「ハリエットは眠り続ける事を選んだ。もう目覚める事はない」
「だから、いない……と」
ハリエットが相手なら説得の余地はある。
アキトはそう考えていた。
カタリナもだ。
しかし、その可能性は既に潰えていた。
「それでも、私はあの子の願いを叶える為に行動している。お前はその為に必要な最低限の成果だ。こうして確保した以上、生きていようが死んでいようがどちらでも構わなかったのだがな。落ちるお前をつい拾ってしまった。しかし、そのお陰でこうして時間を潰せるのだから、悪くはなかったか」
木蓮が自身を助けた、という事実は納得し難いものがあったものの、状況から見てそれは真実だろう。
いや、それよりも。彼女の口ぶりには不可解な点がある。
「わたくしが……成果?」
今度は木蓮が戸惑う番だった。
彼女は「ほお」と溜息のような声を漏らして祭壇に寄りかかる。そして、表情に乏しい彼女にしては珍しく――苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……ルースめ。まさか話していないとは。門番とて気付いていただろうに。道理でお前の守りが手薄だったわけだ。何を考えている。愚かだとは思っていたが、まさかここまで愚かとは」
「どういうことです。一体何を言って……?」
問いには答えず、木蓮は苦い顔のままで天井を仰ぐ。
暫くの間そうしていた彼女は、やがて唐突に声を発した。
「昔話をしよう」
そう切り出した暗殺者の顔に、もう表情はなかった。
「先代の皇帝が没する頃……魔導院において、ある発明が為された。お前も聞いたことくらいはあるだろう。空飛ぶ船などという、実に馬鹿げた代物の話を」
「ええ」
カタリナは頷く。
アキトの語った未来において、彼とサリッサは実際にその船――航空艦スキンファクシに搭乗したという。およそ現実の話とは思えなかったが、彼が空言を言う理由はない。
「完成し、伝承上の馬の名を冠した航空艦二隻は設計通りの性能を発揮した。だが、先代皇帝はその出来に満足しなかったという。完成した航空艦を運用するには……大量の魔術師を消費する必要があったからだ」
「消費……?」
「管を繋ぎ、炉から魔力を取り出す装置へと加工したのだそうだ。航空艦はそれほどの魔力を必要とした。ただ浮かせるという為だけに、多くの魔術師が生きた部品となった。無論、そうなっては長くも生きられん。消費と言わずして何と言う」
「……なんということを」
人の所業ではない。倒れたまま、カタリナは拳を握る。
しかし、語る少女の顔にやはり色はなかった。
嫌悪もなく、怒りもなく、無機質な瞳で虚空を見やり、続く言葉を紡ぐ。
「やがて時が過ぎ、航空艦の研究は当代の皇帝に引き継がれた。そして皇帝はこう考えたそうだ。航空艦に大量の魔力が必要ならば、それを単独で供給できる程の魔力量を持つ人間を用意すれば良い、とな。そうして新たに発足したのが……馬車具計画だ」
スルーブレイス。
まだ幼さの残る皇女の姿が脳裏を過ぎり、カタリナは息を呑む。
「察しがついたようだな。代々に渡り強い魔力を持つ血を取り込んできたウッドランドの皇族は、生まれながらに強大な魔力を持つ。強い魔力を持つ人間を作るのであれば、皇族の血はさぞ都合が良かったのだろうよ。さすがに、人をどのように製造したのかまでは私には分からないが」
「まさか……! 自分の子ですよ……!?」
「今更だな。お前とて皇帝がどのような生き物か知っているだろう。皇帝にとって血族など、己が部品でしかない。そうして第十六から十八の皇女が生まれた。悲しく哀れな、三人の馬車具の姫がな」
そこで木蓮は言葉を切り、己の体に巻き付けた皮帯から小瓶を抜いた。親指で蓋を弾き、何らかの薬液らしき中身を呷る。
液体を機械的に飲み下した後、彼女は続けた。
「馬車具計画を探っていた私は、ある時、第十七皇女が先天的な疾患を理由に処分されるという情報を掴んだ」
倒れ伏したままのカタリナは動かない。
「私は処分される寸前の皇女を別の赤子とすり替え、持ち帰った。皇族の血は、いずれ政治的な切り札に成り得る。処分されるのであれば、皇帝にすり替えを気付かれる心配もなかった」
遂に意識を失ったわけでもなければ、
不憫な皇女を想って思惟に耽っているわけでもない。
「私を外道と謗るか? それも良かろう。事実だからな」
ただ、話が核心に至るまでもなく、
彼女の語る昔話の結末を予測した。
予測してしまった。
カタリナは問う。
語る木蓮にではない。
己が内にある権能、知恵へと。
己の推測が誤りであると。ただ、想像を否定させる為だけに、問う。
「私は持ち帰った皇女をルースに預けた。私とルースは立場こそ違っていたが、同じ九天であり、皇帝に叛意を持つ同志には違いなかった。奴は我々の中で最も皇帝に近しく、同時に……最も強く憎んでいた。ルースなら皇女という札を一番上手く利用できる。私はそう考えた」
耳に届く全てが雑音に変わった。
肌に感じる温度が消え、世界が色彩を失っていった。
それでも、木蓮の声だけは、はっきりと聞こえた。
「カタリナ・ルース。それがお前だ」




