37.燃える炎の街で②
水道橋の復旧は望めない。
導水路を備えるあの橋は、高度な建築技術で作られた複雑な構造物だ。大きさ的にも設計的にも、とても一朝一夕でどうこうできるものではない。たとえ物質転換の魔術を用いたとしても、代替物を創造するのは困難を極める。
「こうなったら……もう魔術で火を消すしか……」
先程の若い女騎士が思い詰めた様子で呟いた。
自らの致命的な手落ちの衝撃から立ち直った俺は、ゆっくりと首を振る。
彼女は自身の魔力の限界を超える魔術を使用する気で言っている。認めるわけにはいかない。誰かを犠牲にするわけにはいかないのだ。それに、
「残念ながら不可能です」
「え?」
「あなたが……いえ、あなた達の全員が命尽きるまで魔術を行使したとしても、燃えている区画の全てを消火するのはまず無理です。全体の一割、二割も消せれば上等でしょうね」
俺と同様の結論を導き出したらしいリコリスが淡々と述べた。
目を丸くした女騎士は、すかさず彼女に食って掛かる。
「ど、どうしてそんなことが言えるんですか!? やってみなくちゃわからないでしょう!?」
「いえ、見れば分かります。あなたは……専門の教育を受けた魔術師ではありませんね。剣士でしょうか。魔術に対してあまりに無知です」
どうにも手厳しい評だったが、ここはリコリスが正しい。
単純に、燃えている範囲が広過ぎるのだ。
魔素を物質に変換する魔術は効率が悪い。仮に術者の安全を無視し、人間の霊体が保有する魔素全てを水に変換したとしても、生成可能な水の量は小さな池にも満たない程度だろう。その程度では、街を縦断している被害範囲を全てカバーするのはとても無理だ。
せめて大気中の魔素や地脈が使えれば違っていたのだろうが、現状ではどちらも枯渇して使用できない。
魔法は便利だが、全能じゃない。
確たる原理が存在する以上、必ず限界がある。
仮面の少女は言う。
「騎士よ。己の領分は弁えるべきです。意味のある無謀であれば別でしょうが、意味のない無謀で使い捨てられるほど、騎士の身は安くない。その身には、騎士が将来的に助けられるだろう人々の命も乗っている」
重い。その言葉は、質量がまるで異なっていた。
なおも反論しようとしていた女騎士が硬直してしまうのも無理はない。
リコリス。彼女が語った身の上は、どこまでが本当だったのだろう。
まるで貴人だ。役者が違う。
「モイラ。この方の言うとおりだ。今は無茶をする場面じゃない」
「っ……ですが!」
「聞き分けなさい。きっと団長代理も同じ意見だ」
壮年の騎士がモイラと呼ばれた女騎士を諌める。
二人の視線が俺に集中した。
頷く。頷くしかない。
犠牲は出さない。どんなに困難だろうと、それが俺の選んだ道なのだから。
曖昧に浮かんだアイデアを頭の中で纏める。
完璧とは程遠い見切り発車だ。しかし、悩んでいる時間はない。
決断とはそういうものだった筈だ。
かつての俺はそうして何かを選びながら、ずっと戦っていたのだ。
「リコリス。君に魔術師としての意見が聞きたい」
「どうぞ」
「魔術で井戸から水を汲み上げる事は可能か?」
俺の問いに仮面の少女は俯き、思案するように顎に指を当てた。
「……可能です。可能ですが、流体操作は言うほど容易い魔術ではありません。魔素を水に変換するのとは勝手が違います。水属性の魔術を得意とする魔術師であっても手を焼くかと」
「なるほど。君にはできるかな。勿論、無茶はなしで」
「できるとだけ言っておきます。しかし……」
「言ってくれ」
「推測ですが、この街の地下水量はそう多くありません。だから井戸ではなく水道を敷いているのです。それを大量に汲み上げてしまうと……」
「……井戸が枯れるな。水量が十分である保証もない、と」
考える。
水道が死に、井戸が枯れる。事後を考慮すれば避けたい事態だ。怪我人の手当てにしても避難者の食事にしても、水は人間に不可欠だからだ。
だが、アズルの近くに河川があることを俺は知っている。急がなければそちらから水を調達する事もできるだろう。今は火災への対応を優先すべきだ。
「他に手がない。一時的にでも水道に水が供給されれば作業は続けられる。成り行きで来てくれた君に頼める立場じゃないのは分かってるが、頼めるか」
「ふふ。強引な人ですね、タカナシさんは」
何故だろう。困ったように笑うリコリスに、微かに胸が痛んだ。
痛みの正体を探ろうとしても分からない。
掬い上げた水のように指の間から零れていってしまう。
「承りました。水の件は任せてください」
花のような匂いだけを残し、一礼したリコリスは立ち去る。
白い騎士の姿が完全に人の群れに消えた後、俺は水星天の三人に向き直った。
「カタリナに連絡を取りたい。すまないが伝声球を貸してくれるか」
途端、騎士達は戸惑ったように顔を見合わせた。
どうにも様子がおかしい。
やがて、モイラというらしい女騎士が言い難そうにしながら告げた。
「あの……先程から伝声術が解除されているんです。もしかして、団長代理の指示じゃなかったんですか……?」
俺は再び絶句した。
ドネットの負担を考えれば、手一杯になった彼女が伝声術の数を減らしたとしても不思議はない。
だが――何の相談もなかったとなると話は別だ。
手近な民家の屋根まで跳び、俺は視線を走らせる。ドネットが詰めている筈の診療所と、カタリナ達が居る教会の鐘楼を探して。
***
白衣の女は立っていた。
歪な人型をした石人形の、泥と石で固められた頭部の上。
診療所の残骸にくず折れた人形は動かない。
編上靴の踵を岩に押し付け、女は投げやりに言う。
「土くれだの石だのを材料にした人形たぁ、良い腕してる。それっぽい罠は見当たらなかったんだがなぁ」
「君の目が節穴だったんじゃないか、ドネット。僕はちょっと前から気付いていたよ。どうにも嫌な気配が近づいてきてる、ってね」
「だったら言えよ」
「くひっ、君達がどうなろうと、僕の知った事じゃないからねぇ……?」
嘲笑する声は、女の背後の空間から生まれていた。
女は唇の端を吊り上げて笑みを作る。
「ってこたぁ、何か? 準備もなしにこれだけ強力な使い魔を練成したって事かい? そいつぁ痺れるね。凄いなんてもんじゃない。化け物だ」
「ハ……簡単に蹴散らしといてよく言う」
「人形遊びなんてのは、あたしの趣味じゃないんだよ」
くつくつと笑い、女は夜闇の中で白衣を翻した。
その視線の先。街路に無数の魔法陣が現れた。石畳が盛り上がり、第二、第三の石人形が構築されていく。女は溜息を吐く。
「趣味じゃないって言ってんだろ、クソが」
「アハハハ! 愉しそうじゃないか、ドネット! さすがに手伝おうか!?」
止むを得まいよ。女はそう呟き、指を鳴らす。
その瞬間、変化があった。
女の背後に紫電が走り、暗幕が取り払われたかのように黒塗りの棺が現れる。
直後、意思なき石人形が殺到した。土と石で構成された巨腕が振り上げられ、瞬く間に振り下ろされる。女はその様を無感動に一瞥し、手を振るう。
それは防御でも攻撃でもない、技術。
魔素の流れに遠隔で干渉し、方向を変えるだけの、ただの技術。
女は無造作に操作した。魔素で構築された石人形の擬似霊体、その腕部の動きを逆方向に捻じ曲げたのだ。
ただそれだけで、女を粉砕せんとしていた巨腕は動きを変えた。
見当違いの場所を抉った石人形の一撃が石畳と土砂を巻き上げる。
飛散する土埃の中、僅かに開いた棺から飛び出す、薄ら輝く魔素の腕が二条。
鞭のようにしなり、石人形に絡み付いて締め上げる。
女は言う。
「起きろ」
棺の蓋が飛ぶ。
奥底に秘めた闇を溢れさせる。
その瞬間、歪な人型は粉砕され、土くれに還った。




