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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
三章 パラドックス
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33.アズル防衛戦⑤

 大仰な赤い絨毯が敷かれた天幕の中、柱にもたれた少女は掌を何度か開閉した。恐るべき敵との戦いで落とされた指の具合を確認するためだ。

 戦いによって負った負傷は、おおよそ完治している。しかし、身体の持ち主が得意とする木属性の魔術は治癒術に向いているとは言えず、応急処置として指を繋いだ影響が残っていないとも言い切れない。

 万全とは言い難い。が、そもそも万事が万全などという状況は実現不可能な幻想に過ぎない。戦いに於いては殊更にそうであると彼女は弁えている。

 その時、天幕に鉄鎧を着込んだ騎士が現れた。

 

「木蓮、問題が」

 

 肩まで垂れた髪を紐で縛りながら、彼女は応じた。

 

「聞こう」

「街に騎士が入り込んでいます。数は三十以上。恐らくは……水星天かと」

 

 部下の報告を聞いた少女、マグノリアは僅かに黙考した。

 出立直後にセントレアに残っていた水星天騎士の人数を考えると、皇女が三十人以上の護衛を引き連れていたとは考え難い。であれば、セントレアから移動してきたと考えるのが妥当である。

 しかし、動きが迅速に過ぎた。水星天騎士団の副長ガルーザは歴戦の騎士ではあったが、彼はいい意味でも悪い意味でも単一の騎士でしかない。即座に騎士団を動かすほどの決断力までは持っていないとマグノリアは読んでいる。

 同様の理由で九天の騎士達でもない。可能性があるとすればジャン・ルースくらいなものだろうが、仮に指揮を執っているのが彼だとすれば、もっと早い時期に動いていただろう。

 

 彼女は苦笑した。

 考えるまでもなく自明である。

 恐るべき敵、東洋人の剣士。あの門番の少年の仕業に違いない。

 

 マグノリアは昨晩のうちに木星天騎士団と合流していた。しかし、指揮官であるエリオットは「皇子に呼び出されて」不在。皇子の不興を買う可能性を無視できず、マグノリアと木星天騎士団は待機を余儀なくされていた。標的である皇女が既にアズルに――目と鼻の先に居ると分かっていてもだ。

 考えるまでもなく、これも不自然な状況だ。なぜこのタイミングで皇子がエリオットを呼び出す必要があるのか。

 敵の情報工作か、とマグノリアは無感動に考えた。ただ、仮にそうだとすれば先に出発した自分を追い抜いた手段が分からない。転移魔術かとも考えたが、想起した若い九天騎士の未熟さを鑑みて、即座に否定する。

 あの青年に腹芸は無理だ。

 

 主導権を握っていた筈が、いつの間にか後手に回らされてしまっている。

 

「負けるな、これは」

 

 呟き、羽織っていたケープコートを脱ぎ捨てる。露わになったタイトな術衣に革ベルトを巻き、無数の短剣と鉄針を挟む。それから大魔法の触媒が詰まった小瓶を三つ、腰のポーチへと放り込んだ。

 

「全員に撤収の支度をさせろ」

「……は?」

「水星天が来ているのなら、九天と()も来ていよう。予備計画も失敗に終わる可能性が高い。お前達まで負けると分かっている戦いをする必要はない」

「戦わずして逃げ帰れと?」

「ただ戦って勝てるのなら、最初から下手な策など弄するものか。儀杖隊同然の水星天はともかく……成り立ちがどうあれ、九天(ナインヘイブン)が皇国で最も強力な戦闘集団なのは事実だ。勝てんよ、我々は」

 

 騎士からの反論はない。

 固く口を結び、無念を滲ませるのみだった。

 九天の騎士ナイツオブナインヘイブン。その実力ゆえ、東方三国では剣を交えただけで名が残る。かつて一員であった彼女には、彼我の戦力差を正しく理解できている。だからこそ木星天騎士団――夜の者(ホミナスノクターナ)は今日まで存続していた。

 

「潮時だ。貧民街(ゲットー)に帰って家族を守れ」

 

 木星天騎士団の人員の大半は貧民街の出だ。

 異端者側の人間である代々の騎士団長の手によって仕組まれていたからだ。騎士団という表の顔と、暗殺者集団という裏の顔を使い分け、体制側と秘密裏に戦うためである。

 しかし「皇子」の息が掛かった者――エリオットが強引に騎士団の長となった今、その伝統も終わりだ。彼は木星天騎士団の裏の顔を知った上で利用し、使い捨てるつもりでいる。皇子に取り入り、己の野心を満たそうとしているのだ。

 もし仮に彼が博打に勝てるのなら、それさえも利用できるだろうとマグノリアは考えていた。一時的に皇族の走狗に成り下がったとしても、権力を利用し尽くした後で皇子を片付ければいい。純粋に人質となった貧民街を案じて動いたハリエットとは違い、マグノリアはあくまで合理的な判断に基づいて行動しているに過ぎない。

 だがそれも、「勝てるのなら」の話だ。敗色が濃厚な今となっては、皇子にもエリオットにも価値はない。

 種が割れてしまった「木星天騎士団」という表の顔にもだ。

 

 しかし、マグノリアにこの戦いを投げ出す選択肢はない。

 数え切れない、先に逝った者達の為。肉体を提供してくれている少女の為。せめて彼女らに報いなければならない。貧民街の人々の平穏を、一時でも長く維持しなくてはならない。

 たとえ、それが失われるのまでは防げないとしても。

 

 その為には、やはり最低限の成果は必要である。

 彼女はあくまで論理的にそう考える。

 

 哀れな愛弟子、ハリエットの精神はもう目覚めない。彼女は彼女自身の深淵、その奥底に自ら閉じ篭ってしまった。

 もはやマグノリアはただの一人であり、策も勝算もない。

 だが、一切の躊躇いも恐れもない。

 

 肉体をとうに失った、仮初めの存在なれど。

 未だ己が残されている。

 

 

 

 ***

 

 

 

 日が沈んで久しい。

 アズルの街に建つ無数の鐘楼からゆっくりとした鐘の音が鳴り響いた。

 日没後の時報の鐘は、普通の街ではあまり見られない。物流の基点となっている転移街(ポート)ならではの慣習だ。

 重厚な音は七度ほど鳴って止み、現在の時刻を告げていた。壁掛け時計を見るまでもなく、俺はひとりごちる。

 

「そろそろか」

 

 遅れ気味の班のフォローを済ませ、指揮に復帰して数時間が経過していた。

 今、酒場のホールには正真正銘、俺ひとりだけだ。ドネットは探知魔法で避難状況の最終確認を行っている最中で、他の人員も避難所に住人を押し留めたり、第二段階(フェーズ2)の準備を行ったりと、方々を奔走している。

 テーブル上の盤面は、ほぼ完璧といって良いほど綺麗に片付いていた。細かいトラブルは当然あったものの、俺の予想よりも速く避難が完了している。騎士達の奮闘努力の賜物だ。

 やるべきことはまだあるにしても、最低限の条件はクリアしたように思えた。すなわち、竜種(ドラゴン)の攻撃で出るだろう被害から人命を除くことだ。

 生じる被害の全ては防げない。建物、特に転移門(ポータル)が破壊されるのは痛手だ。転移門を介しての流通で成り立っているこの街が、それらを失うことで多大な損害を被るのは想像に難くない。

 或いは、竜種の吐息(ブレス)を現象攻撃で迎撃し、初撃そのものを防ぐべきだったのではないだろうか。それによって未来が変わり、先の展開が読めなくなるという危険性はあっても、そうすべきだったのではないだろうか。

 果たしてこれが最善だったのか。

 疑念が尽きることはない。

 だからといって現実が待ってくれるわけでもないのが辛いところだ。

 

『こっちは八割がた確認終わったよ。今のとこ、取り残されているのは数人って感じかね。あたしらで対応しとく』

「助かる。急いでくれ」

 

 伝声術で届いたドネットの声に応え、盤面に書き込んだ段取りに斜線を引く。

 残る準備はそう多くない。いよいよか、と頭を切り替えようとしたとき、ドネットが潜めた声で報告を付け足した。

 

『ああ、それと例の件……南西から騎士が来てるぞ。一人だ』

 

 俺は手を止め、確認を口にした。

 

「単独で間違いないのか?」

『ああ。こっちの探知にかからない方法でもなきゃ間違いがない』

 

 彼女の扱う電磁波を利用した探知魔法から逃れる術があるとは考え難い。

 瞼を閉じ、裏の意味を考える。木星天側も素人ではない。いい加減、こちらの陣容と動きを把握しているはずだ。

 その上で単騎を繰り出す狙いが分からない。陽動――単独なら不意を突けると踏んだ――いや、木蓮(マグノリア)がそんな単純な作戦を選択するだろうか。

 

「分かった。ひとまず、そのまま捕捉しておいてくれ」

『了解』

 

 密談を打ち切り、全ての班に繋いだ伝声術の光球を手繰り寄せる。

 人事は尽くした。

 正念場だ。

 

「全員、作業を続けながらでいいから聞いてくれ」

 

 こういう時、何を語るべきなのだろうか。

 少し考えたものの、妙案は浮かばなかったので手短に済ます事にした。

 

「予定していた住人の避難が間もなく完了する。あと数人だそうだ」

 

 光球から安堵の声が飛び交う。

 それらが途切れるまで間を置いてから、俺は言葉を続けた。

 

「……正直、作戦を立てた時はかなり厳しい状況になると思ってた。事実、慣れない仕事をやらされて大変だったろうと思う。何とか時間に間に合ったのは、これを聞いてる全員のお陰だ。感謝してる。本当に」

 

 俺が偽らざる本音を口にすると、光球の全てが沈黙し、空気が緊張した。

 この先に続く言葉が予想できたのだろう。

 

「でも、これで終わりじゃない……いや、まだ始まってもいない。これからこの街で起こる事は、あんたらが想像しているよりも……恐らく、ずっと悪いだろう。きっと悪夢のような夜になると思う」

 

 騎士達は竜種(ドラゴン)についてはまだ半信半疑だろう。だが、あの巨体、異様を初めて目の当たりにすれば否が応でも思い知る。彼らがどうなるかは想像に難くない。士気も何もなくなる。

 だから、伝えておかなければならない。

 

「それでも、最後まで踏み止まってほしい」

 

 

 

 ***

 

 

 

 若き水星天騎士モイラ・ラングレンは静寂の中で少年の声を聞いていた。

 手筈通り街のあちこちに隠されていた斧や槌などを回収した彼女の班は、裏路地に潜んで第二段階(フェーズ2)開始の時を待っていた。

 唐突に話し始めた《剣の福音》を名乗る少年の言葉を、モイラは多少の落胆をもって咀嚼した。

 彼女は少年と面識がない。彼を一方的に知っているだけだ。

 遠くから見た彼はおよそ剣士にも見えない、東洋人であるということを除けば何処にでも居そうな細い少年だ。

 その彼が今、この場においては騎士団の長としての権限を持っている。甚だ実感の湧かない話ではあったが、もはや騎士団内に異を唱える者はいない。

 モイラ自身も彼に敬服している。

 それは、彼が《剣の福音》であるかどうかとは関係がない。

 セントレア南平原での戦い、そして先日の森での戦いを副長と共に目の当たりにしたモイラは、己を削りながらも全てを守らんとする彼の行動、その言葉に胸を打たれたのだ。

 今夜、転移街(ポート)アズルでの作戦に参加した騎士達も、程度の差こそあれど同じ思いであるに違いなかった。

 にも拘わらず、あの少年は釘を刺すような言葉を騎士達に投げ掛けている。それは彼が騎士達を――自分達を信頼していないことの何よりの証左ではないか。

 何が起ころうと、この期に及んで逃げ出す者などいないはずだ。少なくとも、新人のモイラでさえそう信じられるほどに騎士達の士気は高い。

 だというのに。

 やはり彼にとって、敵であった自分達は信じるに値しないのかもしれない。

 無念を噛み締めるモイラは、瞬いた光球から再び声を聞いた。

 

『思い出してみてくれ。どうしてあんた達が剣を執ったのか。どうしてあんた達がここに立っているのかを』

 

 聞くや、青い目を伏せて唐突な言葉の意味を考えた。

 その瞬間は、まるで昨日の出来事のように思い出すことができる。

 苦い記憶として。

 

 モイラは辺境を治めるラングレン子爵家の三女だ。

 ラングレン家は爵位こそあれど、貴族の家柄としては三流に位置する。痩せた土地を所領とする、名ばかりの貧乏貴族だ。

 目ぼしい産業も持たないラングレン家は、騎士を輩出することで皇国内での地位を辛うじて保ってきた。生まれた子は例外なく騎士として教育され、それは三女のモイラも例外ではなかった。

 齢十にして剣を握った彼女は、ラングレンの地で騎士となった。

 実家の教育は専門の騎士学校に比べても遜色なく、娘だからと加減が為された事は一度も無い。

 しかし、彼女の素養は凡庸以下でしかなかった。

 剣才に欠き、自家に代々伝わる剣技を会得できなかったモイラは、放逐同然の扱いで皇都へと出された。

 九大騎士団の正騎士として叙任されたのは、ただ運が良かったと言う他ない。

 

 惰性だ。

 記憶を辿った結論として、彼女はその言葉を選んだ。

 肩を落とす。伝説の《剣の福音》が求めているのはもっと、何か違う言葉に違いない。輝かしい何か。凡庸な自分には持ち得ない、特別な何かに違いないと彼女は考えた。

 自嘲に沈みかけた思考を遮ったのは、少年が発した平坦な声だった。

 

『少なからず自分で選んだはずだ』

 

 どきりとした。

 まるで自分の事を言い当てられているような気がして、少女は顔を上げた。

 そんな訳はない、とすぐに思い直して息を吐く。

 吐いた息が白く霞んで消える向こうで、また光球が瞬いた。

 

『ただ状況に流されてそうなったはずがない。でなければ、戦って生きるだなんて苦しい在り方に耐えられるはずがないからだ』

 

 そうだ。

 気付けばモイラは、充てられた手斧を強く握り締めていた。

 

 辛いのだ。戦うのは。

 

 斧を握る掌には、無数のたこがある。血豆が潰れ、治ってはまた潰れ、そうして固くなってしまったものだ。手だけではなく、腕も、足も、傷痕のない箇所を探す方が難しいだろう。

 だが、それらは騎士であれば当たり前のことだ。体を張って魔獣や罪人と戦う騎士にとっては、ごく自然なことだ。こんなものは辛苦のうちに入らない。騎士がそんなことで泣き言を零す姿を、モイラは見た事がない。

 だから彼女も、自身の本音を誰かに話したことはなかった。

 

 自問する。

 どうして挫けないで居られるのだろうかと。

 

『思い浮かぶ理由なんて別に何でもいい。名声でもいいし、金でもいい。誇りや使命感だと言える奴は立派だが、人は霞を食って生きられるわけじゃない。糧を得るのだって立派な理由だ。現実がよく見えてると俺は思う』

 

 語る少年の声には、変わらず抑揚がない。

 モイラと同じ班に割り当てられている壮年の騎士が、不意に肩を揺らして笑った。一方、もう一人のメンバーである若い男の騎士は不満げに眉根を寄せている。各々思うところがあるらしい。

 彼らを横目に、モイラは少年の言葉を待った。

 生業だからと言ってしまえば、モイラもそれは同じだ。やはり自分達はそういう生き方しか出来ないのかもしれない、とも思う。でも――

 

『でも、それだけだっただろうか』

 

 先を引き取った少年のその問いは、騎士達に静寂をもたらした。

 

『憧れはなかっただろうか』

 

 モイラもまた、静かに息を詰めていた。

 

『初めて剣を手にした時、弱きを助け強きを挫くような、そんな理想の騎士の姿は、少しも頭に浮かばなかっただろうか。何かを守って何かを救う、英雄譚の主人公のようになりたいと思う気持ちは……本当に少しもなかっただろうか』

 

 それはあまりにも甘い、空想のような願い。

 実態を知らないが故に見ることのできた、過ぎ去った夢だ。

 幼い日のモイラも同じものを見た。一族の他の者がそうであるように、いずれは自分も立派な騎士になるのだと信じ、願っていた。

 

『白状すると、俺にはあったよ』

 

 少年の声が、苦く笑いながら言った。

 モイラは呆然とするしかない。

 

『勿論、現実は物語とは違う。実際にはそんなに甘くなかった。そんなことは、誰でも知ってるとは思うが』

 

 そう笑う《剣の福音》こそは、神話や伝承に謳われるような存在。言わば伝説だ。皇国の騎士であれば知らぬ者は居ない。なぜなら《剣の福音》こそが剣士という概念――剣を持つ全ての者の祖であるからだ。

 その彼が、あろうことか凡才の自分と同じような子供であったなどと。曲がりなりにも剣士の一族に連なるモイラには、到底信じられない。

 

『……時間だ。西を見てくれ』

 

 信じられないまま、モイラは視線を動かした。

 騎士達もまた、同じように西を見た。

 

 そして、呼吸を忘れた。

 遠い山の稜線に重なるように、不吉な影が立ち上がっていた。

 

 大きい――

 そう考えた時、出立前にかの少年から聞かされた話にまで考えが至った。

 彼が竜種(ドラゴン)と呼んだ魔獣の存在にだ。

 話を信じていなかったわけではない。

 ただ、言葉だけでは実感が無かったのも事実だった。

 

『それでもやっぱり、俺は戦おうと思う。他の誰でもない、俺自身がそうしたいからだ。俺自身がそうするべきだと思うからだ』

「……あれと……戦うだって……?」

 

 掠れた声で誰かが言った。

 大型の獣や人間しか相手にしてこなかった自分達が、(いにしえ)の伝承でしか語られていないような魔獣と、戦う――?

 無理だ。考えるまでもない。

 そして求められてもいない。いま自分達に与えられた役割は戦いではない。

 

『あんた達はどうだ。明確な見返りなんかない。逃げなかったからって歴史に名が残ったり、お偉い誰かに称えられることもないだろう。それでも、あんた達は見ず知らずの誰かの為に踏み止まれるのか』

 

 馬鹿げている。

 そもそも、そうまでする理由が何処にあるというのか。

 そう反論してやればいい。

 しかしモイラも、騎士達も、何も言うことができない。《剣の福音》が言わんとする事を理解し始めていたからだ。

 

『できるはずだ。そんな誰かにこそ、俺達はなりたかったんだから』

 

 つまるところ、彼は信じているのだ。

 ままならない現実を知りつつも、それでもどこか人の善性という幻想を信じている。自分たちが悲劇に背中を向けず、立ち向かえる人間であると。そうありたいと願っている人間なのだと、ただ信じている。

 あの巨大な魔獣と戦うという、誰よりも重い責任を負っておきながら。

 

 それは卑怯だ。

 

 モイラは口の中だけで言葉を転がした。

 少年の語り口は同じ人間のそれで、決して伝説の英雄のそれではない。しかし、そうであるがゆえに、もう誰も逃げ出すことなどできない。

 もしも彼が正しく英雄たる姿、超越者らしい態度であったのなら、それを逃げる言い訳にすることもできただろう。彼は特別で自分達は凡俗なのだから仕方ない、などと。

 

 やがて赤光が奔り、炎が街に襲い掛かった。

 腹底に響くような轟音と頬を叩く熱が、モイラ達の思考を奪う。魔獣の影から放たれた魔素の洪水は、容赦なくアズルの街並みを薙ぎ払った。

 燃え上がる家々も、崩壊する石門も。想定通りの範囲で――街が燃える。

 これも聞かされていたこと。

 分かっていたことだ。

 それでも騎士達は狼狽した。散る火の粉を払う暇も余裕もなく、夜空を赤に染める炎を見てもなお、咄嗟には動けない程度には。

 

「行きましょう」

 

 いち早く動いたのは、班で最も若年であるはずのモイラだった。抜いた片手剣と手斧を携え、己の役割を果たすべく一歩を踏み出す。彼女達に与えられた役割は火災による被害の軽減、つまりは消火活動である。水の魔術などで火を消すのが一般的な火災への対応だった。しかし、現状では燃えている範囲に対して人手が絶対的に不足している。まず先に近隣の建物を破壊して延焼を防がなくてはならない。

 

「炎ごときに怯んでいては沽券に関わります。あんな風に言われては、尚更」

 

 無自覚に口にした激に触発され、同じように燃える街並みへと向き直る騎士達を振り返ることもなく、モイラは駆け出した。

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