31.前夜にて②
千年前。
当時の現界の人類種の食文化は異界起源のそれとはまったく異なっていた。彼らは俺が見たこともないような種の芋類を挽いて粉状に加工したのち、水で練って加熱したものを主食としていた。「食事」という意味の単語がそのまま名称になっていたと記憶しているが、正直よく覚えていない。口に合わなかったからだ。
そう、とにかく好きになれなかった。半透明のゲルじみた「食事」は本当に炭水化物そのままといった味で、その割に風味には独特のクセがあった。
俺はどうしてもその食べ物に慣れることができず、現界に来て数ヶ月経った後ですら、塩だけで調味した肉や魚ばかりを食べて凌いでいた有様だった。
そんな石器時代がごとき食生活を送っていた俺は、ある日、パンに出会った。
麦の粉を焼いたパンにだ。
川原でレンガを積んで窯を作り、麦類の焼けるかぐわしい香りを漂わせていたその少女は、異性にあまり関心のなかった俺から見ても実に目が覚めるような美しい容貌だったのだが、正直、そんなことはまるで目に入らなかった。
俺はそのとき、生まれて初めてすることをした。
土下座である。初対面の女の子にだ。
実に滑らかな土下座だったと自負している。
どうかそのパンを俺に恵んでください、などと、気付けば勢い余って日本語を口にしてしまっていた。そんな俺を見て少女は目を丸くした後、小さな鈴が転がるかのような愛らしい声で笑って、英語で喋った。「私、日本語は喋りませんよ」と。
俺の混乱は天地がひっくり返ったかのような域に達した。
なぜなら当時の現界では現地起源の言語が用いられていて、彼女と出会うまでは本当に誰とも会話が成立していなかったからだ。
食料を得るための商取引ですらボディランゲージでやりとりをしていた俺は、初めて出会った言葉の通じる人間にいよいよ感極まって涙を流した。
彼女の名はマリア。
初めて出会った、自分以外の往還者だった。
マリアはパンを焼くための小麦を探して旅をしていたのだと俺に語った。
その日、ようやく小麦に近似する麦の原種を発見した彼女は、苦心してそれらを収集して粉を挽き、簡単な窯を作って第一号のパンを焼いていたのだった。
一号はあまり美味しくなかったのかも知れない。よく覚えていない。それでも俺は、泣きながら喜んで食べたのをおぼろげに記憶している。
俺たちは食事をしながら自分達の置かれた状況について話をした。当時の俺の英語力は中学生程度のものだったが、マリアは自分で言うほど日本語に疎いわけではなかった。むしろ、俺に英語を教えてくれたのは彼女だと言っても過言ではない。お陰で意思の疎通には困らなかった。
マリアは驚くほど現状を深く理解していた。今居る場所が俺たちの住んでいた世界とは別の世界に存在するのだということ。その世界が竜種によって脅かされているのだということ。そして俺たちには、例外なく特異な能力と特別な道具が付与されているのだということ。
剣の福音。
彼女が、この単語を口にした初めての人間だった。
俺の遺物だった白い長剣を見たその時のマリアは、どこか遠い目をしていたように思う。
それから俺達は、当時はまだ呼び名の無かった世界、現界中を駆け回って他の往還者を探して集め、様々な冒険をし、最後には力を合わせて竜種と戦った。
男は胃袋を掴まれると心も掴まれるとはよく言うが、あながち間違いでもないかもしれない。俺は彼女の焼くパンが大好きで、いつしか彼女のことも好きになっていた。
明確な言葉にはしなくとも、その気持ちは通じていると勝手に思っていた。俺とマリアは片時も離れることなく、常に一緒に居たからだ。そんなものは何の根拠にもなっていないことにすら気付かないまま、俺には彼女の居ない世界が想像もつかなくなっていた。
俺は子供だった。
***
音は何も聞こえない。
例によって宿を兼ねていた件の酒場の二階。宛がわれた部屋には簡素ながらもベッドが備えられていた。しかし俺は疲労に苛まれる体をベッドではなく床に横たえ、質素な板天井のささくれた木目を眺めている。
多少は寝るべきだと頭で理解はしていても寝る気にはなれず、ただひとつの事柄を考え続けていた。遂に明日にまで差し迫った悲劇的な未来の回避や、木星天騎士団への懸念や不安ではない。もっと小さな、俺個人の問題。或いは疑問。
俺は、サリッサに惹かれているのかもしれない。
しかし、素直にそう考えるにはなにか抵抗を感じるのも間違いないのだ。
罪悪感にも似た、なにかを。
自分の心の裡が理解できない。考えれば考えるほどに元の形を見失っていく。
同じ時間を共有できる仲間を失って久しい俺には、もう色恋沙汰など永遠にあるまいとすら思っていたからか。忘れ去ったつもりでいた情動に、ただ戸惑っているだけなのだろうか。
だから無意識に逃げの口実を探しているのだろうか。
それとも、俺はまだ――マリアを待っているのだろうか。
女々しくも、未練がましくも、果たされることのない約束に未だ縋っているのだろうか。もう諦めたつもりではいても、心のどこかでこうも思っていたのか。いつか、やがていつか、彼女が戻ってくるかもしれないなどと。
数百年を経た今ですら、まだ。
だから彼女をこんなにも鮮明に思い出したりするのだろうか。
不意に、控えめなノックの音が静謐を乱した。
次いで聞こえてきたのは蚊の鳴くような細いカタリナの声だった。
「起きてますか?」
問い掛けに言葉通りの意味が無いことは分かる。彼女ほどの技量があれば、ドア向こうの気配を探るくらいはできるはずだからだ。
それでも俺は、ただ床に転がったまま黙っていた。寝るでもなく起きるでもなく、ドアの向こうの気配が去るのを待つことにした。
しかし、いくら待てども木床の鳴る音は聞こえてこない。返答を待ち続けるかのように、微かな息遣いはずっとそこにあった。
根負けをした俺はドアまで歩き、ノブへ手を伸ばそうとしてやめる。
その場でドアに背を預けて言った。
「ああ、起きてるよ。どうした」
明日の行動計画は既に組み終わっている。
あとはもう体調を整えておくくらいしかやれることがない。そう話し合って解散したのだが、まだ決めておくべき事項があっただろうか。
意識的にそんな思考へと頭を切り替えた時、ドア越しの声は戸惑ったかのような口調で言った。
「いえ、その……先程はどこか様子がおかしかったように見えましたので」
己の愚かさに思わず溜息が出た。
顔に出るとよく言われる通り、今も難しい顔をしているのかも知れない。
凝り固まった自分の顔面を両手で軽く叩き、応える。
「大丈夫だ」
「……本当ですか?」
「ああ、頭痛がしただけだよ。やっぱ疲れてたんだろうな。悪い、心配掛けて」
安心させるつもりで放った薄っぺらい言葉は、しばらくの間をもたらした。
訝っているのだろうか。耳を澄ませた時、小さく返答があった。
「別に、そういうことにしておいても構いませんけど……」
微かに背を押す力がかかり、木製のドアが軋んだ。
恐らく、ドアの向こうでカタリナが同じように戸にもたれたのだろう。そう推測して目を見開く俺の耳に、小さいながらも重い響きを含んだ声が届いた。
「できれば私にそういう嘘をつくのはやめてください」
俺は閉口するしかなかった。
カタリナがこの口調で話すときは本気だ。それが分かる程度には俺も彼女を知っている。
「生理学的に頭痛の徴候が無かったことくらい、私には分かります。特にあなたはいつも見てますから」
「まさか……いつも俺に権能を使ってるのか? 反動だってあるだろうに……」
叡智の福音にもリスクはある。
権能で得る知識には基本的に際限がない。必要以上の情報が当人の頭の中に蓄積し、それこそ頭痛などで具合を悪くするといったことも前任者にはあった。遺物を所持していた前任者ですらそうだったのだから、カタリナに負荷が掛からない訳がない。普段は使用しないようにしているはずだ。
「別に、あなた一人分の情報量なんてどうとでも処理できます。そんなことより、あなたに調子を崩される方がよほど問題です」
「それは……権能で見てたなら分かってるんじゃないか。今は際立って体調が悪いわけじゃない。少し休めば問題ない」
「だから逆に心配なんです。体調以外になにかあるなら話してくれませんか」
「……いや」
本心からだろう労りの言葉を聞いても、やはり口に出せる事柄は見つからない。彼女の厚意に甘えるなどということが、自分に許されるとも思えなかった。
今は、こんなことにカタリナを付き合わせていい状況でもない。そう考え、会話を切り上げるべく固辞の意を伝えようとしたとき、
「もしかして……私なにか……余計なことを言いましたか……?」
そんな、弱々しい呟きが聞こえた。
その瞬間、俺は思わずドアを開けてしまっていた。
何を考えてそうしたかは、己の事ながら定かでない。ただ確かなのは、戸に寄り掛かって立っていたらしいカタリナが支えを失い、短い悲鳴と共に倒れこんで来たということだけだった。
危ういところで彼女の背中を受け止めた俺は、思いのほか動揺した。
別にカタリナが見るも無残に落ち込んでいたとか、そういうことではない。腕の中に納まった彼女が、当初こそは驚いたような顔をしていたものの――すぐに悪戯めいた笑みを浮かべて俺を見上げたからだ。
しまった――と思ったときにはもう遅かった。
俺が思考をフリーズさせた一瞬のうちに、カタリナは身を翻して俺に向き直るや否や、踵でドアを閉めるのと俺を室内に突き飛ばすのを同時に実行した。
素晴らしい体捌きに感心する暇はなかった。俺はたたらを踏んで部屋の真ん中まで後ずさるしかなかった。
「ふっ、ちょろいですわね……アキト」
目に異様な光を帯びたまま嘲笑う赤毛の少女は、後ろ手で鍵を閉める。
部屋に備え付けの魔力灯で薄らぼんやりと照らされたその表情は、やはり策士の笑みに彩られていた。
「お、お前、騙したな!?」
「恨むのなら誰にでも優しい己が身を恨むことです……! なんだかんだで脇が甘いんですよ、あなたは……!」
カタリナはまるで意味の分からないことを述べつつ、両手をわきわきさせながらにじり寄ってくる。
そうだった。
最近ナリを潜めていただけで、コイツはこういう奴でもあったのだ。
「さあ、白状してもらいましょうか……! いったい何を思い詰めているのか……! さあさあ……!」
「何も思い詰めてねえよ!?」
ぴたり、と動きを止めたカタリナは怪訝な顔をして目を文字通りに光らせた。
暗い、夜の室内ではその瞳の光がよく分かった。カタリナは本当に俺に向けて権能を使っている。だが、なんという無駄遣いだろうか、という俺の内心の呆れまでは分からないはずだ。叡智の福音では人の心までは読めない。
なおも納得いかなさそうに口を尖らせるカタリナだったが、やがて興を殺がれたのか、わきわきしていた両手を下げた。嘆息をひとつしてから、彼女は問いを放った。
「なら、どうしてさっきは顔も見せなかったんですか」
胸の前で固く握られたカタリナの掌を見て、俺はふと疑問に捕らわれた。
先程の彼女はどこからどこまでが演技だったのだろうか、と。
考えても分かるはずはない。カタリナが彼女らしくもなく食い下がってくる理由もだ。分からないことだらけの少女に向け、俺は端的に告げた。
「……ちょっと昔のことを思い出して気分が悪かったんだ。それだけだよ」
「昔のこと……ですか」
「ああ」
カタリナは困ったように表情を曇らせた。俺が「昔のこと」と言ってしまえば、彼女にはもう何も言えない。カタリナは当時を殆ど何も知らないし、触れるのを避ける傾向があるからだ。
こう言えばもう立ち入ってはこないだろう、と高を括ってベッドに腰掛ける。それで暗に「もう寝るから帰ってくれ」と伝えたつもりだったのだが、カタリナは予想に反して部屋に留まった。備え付けの木椅子に横座りして向かい合うと、背もたれで頬杖をついて俯いた。
僅かに視線を彷徨わせたあと、彼女は意味のある言葉を口にした。
「いつか、異界で話してくれたことを覚えていますか。あなたが現界に残り続ける理由……その半分が、誰かとの約束のためだと」
思い返しながら頷く。
「正直、なんて馬鹿な人なんだろうと思いました」
「馬鹿って」
「だってそうでしょう。たとえ相手が……とても大事な人だったとしても、いくらなんでも千年も待ち続けるのはまともじゃありません。あなたの生き方は、あなたが自分で思っているよりも遥かに異常なんです」
怒気すら含んだ弾劾だった。
気付けば、カタリナは顔を上げていた。
「でも、サリッサを連れて現れたあなたは少し変わっていました。以前よりは未来を見てくれるようになったと思います。それはあの子のお陰なんでしょう?」
「……ああ」
「だったら……ちゃんとあの子と向き合ってあげてください。サリッサのためだけじゃなく、あなた自身のためにも」
俺は言葉を失ってカタリナの顔を見ていた。
まったく彼女の言うことは筋が通っていて、いずれはその通りにすべきだと俺も思う。なのに俺は、やはり素直に頷くことができない。
理由はもう分かっていた。
「……そんな苦しそうな顔で言われてもな」
なんと声をかけるべきか迷った挙句、俺はようやくそれだけを言った。
カタリナは僅かに目を見開き、強張った自身の頬に触れた。そうと分かってしまえばもう無視はできない。狼狽した様子で立ち上がったカタリナの足が掛かり、木椅子が倒れた。
そのけたたましい音を聞きながら、俺は自らへの軽蔑を噛み締めている。
いつからだったかは分からない。それでも、本当はとうに気付いていた。
ただ深くは考えないようにしていただけで、カタリナの言動がどういった意図のものなのか、俺はおぼろげに理解していた。サリッサに対して分からないままではいられなかったのと、ちょうど同じように。
そうまで愚かで鈍くあることは、もう俺には許されない。でなければ誰にとっても不実で、誰にとっても不幸ではないだろうか。
しかし、今の俺には明確な答えを出すことができない。
マリアのことを待ち続けたまま、どうして他の誰かに恋だの愛だのを考えられるだろう。それではなにが真実なのか分からない。なにかが嘘になる。
無意識のうちに沸いた忌避感の正体はそれだ。
「カタリナ、俺はまだ……」
「聞きたくありません」
先送りの言葉を並べるべく口を開いた俺に、咽ぶような響きが混じった声が刺さった。まるで俺の惰弱な内心を見透かしたようなその声は、一瞬、呼吸を奪いさえした。
いや、
「……聞きたくない」
繰り返すカタリナの両目から零れた雫が、もう俺に言い訳を残さなかった。
カタリナは我に返ったように瞬きをした。それから頬まで伝った水滴を雑に拭って、ぎこちなく笑って言った。「ごめんなさい」と。
「あなたが殿下を守ってくれたらそれでいいだなんて……そんな都合のいいことを考えていた私には、本当なら……あなたに何かを言う資格もないでしょう。でも……それは駄目です。それだけは絶対に駄目なんです。だって、そんな呪いのような約束に拘って待ち続けても……そんな酷い人を待ち続けても……あなたが解放されることなんて永遠にないじゃないですか」
その通りだった。
俺は早々に、きちんと認めるべきだった。
往還門を閉じることは、恐らく、人間にはできない。
マリアが戻ってくることも、ない。もう二度と。
今にも解けそうな繕った笑顔のまま、赤毛の少女は言う。
「私は……あなたの何になれなくてもいい。仲間でも、友達でもなくていい。ただ、そんな約束は忘れて欲しかった。そうすればきっと……いつか、あなたの戦いが終わる日も来る。だから……」
だからカタリナは現象攻撃を扱えたのだ。
叡智の福音の現象攻撃、忘却の川は、知識を――記憶を奪う。カタリナが遺物なしにそれを会得したのも、ある意味では必然だったのかもしれない。自分の願いを茫洋とした記憶の向こうに忘れていた俺とは違い、彼女ははっきりとそれを自覚している。
しかし、忘却の川はそんな用途には使えない。かつて存在した下位互換の大魔法、忘却とは違う。あまりにも強力なその権能は、一時的にではあれど、対象の記憶を根こそぎ奪ってしまう。
やはり福音は、当人の強い願いを反映しながらも、その願いを直接叶えることはないのだ。曖昧に考えていたその本質にまで思考が至ったとき、俺は既に立ち上がっていた。
福音の仕組みなど今はどうでもよかった。今のこの困難の前には何の役にも立ちはしない、雑多な思念は全て頭の隅に追いやった。
俺はカタリナの手を引き、彼女の背中に手を回した。彼女の気持ちに報いるためだったのか、俺自身がそうしたかったのかは分からない。
そうしてみると彼女はやはり小さく、容易く折れそうなほど細く感じられた。
抵抗は殆どなかった。
驚きに見開かれたブラウンの瞳を赤いセルフレームの眼鏡越しに覗き込むと、その奥にはもう権能の光はなかった。その両目に湛えられた雫を指で拭い、俺は何事かを口にしようとして――途端、堰を切ったように流れる涙の前に、黙るしかなかった。
彼女が俺の肩口に顔を沈め、背に回った両手に固く力が込められるのを感じながらも、俺は黙って天井の木目を再び見上げるくらいしかできなかった。
もっとなにか、言えることはあった筈だった。
しかし、これほどまでに俺を思ってくれているカタリナに対してさえ――未だ後ろめたい隠し事をしている俺には、結局、それが限界だった。




