表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界往還の門番たち  作者: 葦原
三章 パラドックス
113/321

27.叡智の福音

 むせ返るような深緑の匂いがする。

 

 風に揺れる木々の葉が鳴る音も、それが途切れた瞬間の夜の静寂も。肌を刺す冷たい風でさえも、何故だか本当に心が落ち着く。

 やはりというか相変わらずというか、俺は森で行う野宿が好きらしい。余裕がなく、どこか固くなりかけていた精神が解きほぐされていくかのようだった。

 たとえ、それがキャンプというよりは単なる休憩であったとしても、冷たく清浄な空気を吸っているだけでマジックポイント的な何かがみるみる回復していくような気さえするのである。

 いや、あながち気のせいでもないのだろう。

 運動や魔術で消費した魔素(マナ)は、大気や食物に含まれる魔素を体内に取り込むことで回復する。つまり具体的な手段は、呼吸や食事だ。

 あとは睡眠も効率を上げるらしい。伝聞形なのは、睡眠による効率上昇を実感するほどの魔力量が俺には備わっていないからだ。

 薀蓄は兎も角、もしかすると俺は森に漂っている種類の魔素と相性がいいのかもしれない。そう考えるとただの空気が大層ありがたいもののような気がして、無闇矢鱈と深呼吸をしてみたくなる。

 

 そうして思考が少し明瞭になったお陰か、俺は唐突に現状を想起した。

 慣れない運転に悪戦苦闘しながらも、想定よりも遥かに速いペースで道程を半分ほど進んだ俺達は、主要な街道からやや離れた森で休息をとることにした。運転する俺が、体力と魔力の限界を迎えたからだ。

 到着してからが本番だ。少しは休め。というような意味の言葉をカタリナとサリッサが言ったのは辛うじて記憶している。後はよく覚えていない。毎度のことながら切迫した状況下で殆ど寝ていなかったせいだろう。

 

 どうやら倒木の上で横になり、そのまま力尽きて軽く寝ていたようだ。自分でやったのかどうかは判然としないが、マントに包まっている。

 億劫なので首だけを動かす。見れば、傍らに明かりの灯った魔力灯(ランタン)が置いてあった。あとは黒光りするカウルの自動二輪が粗雑に停めてあるだけで、肝心のカタリナとサリッサの姿はなかった。

 

 いったい何処へ行ったのやら。

 

 覚醒し切っていない頭で考えるには少し重い事項だ。

 俺は寝転んだまま、再び夜の空へと向いた。

 

 無数とはよく言ったものだ。煌きの数を数えていると夜が明けそうなほどの星空が見えた。その星明りで薄く染まった紺の空に、黒々とした木々の影が重なっている。

 この世界、現界(セフィロト)の大気の具合がどういった状態なのか、特に調べてみたことはない。ただ、異界(クリフォト)のそれよりは明らかに澄んでいるだろう。夜空ひとつ見てみても、そう思えるのは間違いない。

 

 あれは、いつの出来事だっただろうか。

 

 かつて叡智の福音を所持していた往還者に、なんとなく現界の星空について意見を尋ねてみたことがあった。

 彼女は異界では学生の身分だった。天文部に所属していたらしく、かつてないほど嬉々とした様子で話を始めるや、なんと夜明け前まで話に付き合わされた。

 千年のうちに当時の記憶は擦り切れて、もう彼女の顔を思い出すことはできない。だが、その時の弾むような息遣いや嬉しそうな声だけは、今でもよく覚えている。

 

 彼女曰く、現界から観測できる天体は、異界のそれとはまったく異なっているのだそうだ。観測を行うまでは、もしかすると現界と異界は同じ太陽系にある別の惑星なのでは、だとか、ことによると両者は同じ星――つまり地球――で、ただ別の時代に飛ばされたのではないか、だとか。いやいや、別の可能性を辿った平行世界(パラレルワールド)なのではないか、だとか、俺達はそんな思い付く限りの諸説を披露し合っていたのだが、あえなく全て否定されたというわけだ。

 

 ――現界には、まったくの偶然で異界と似た太陽と月があり、他の星々でさえも似たような周期で巡っている。ただし、そっくり同じではない――

 

 残念ながら分かったのはそれだけだ。何も分かっていないようなものだ。

 だが彼女は、それはとても素晴らしいことなのだと俺に語った。

 

 理解できないからこそ惹かれる。

 夢がある。浪漫がある。

 私はそれをこそ知りたいのだ、と。

 

 当時の俺にはその発言の意味が分からなかったが、今では何となく理解できる。

 

 叡智の福音を得た彼女にとって、基本的に「分からないこと」は存在しない。

 一見するだけで対象物の全てを理解し、概念を把握し、言語化された知識として得ることができるという、全知の権能。

 学生の身分でありながら、あまねく未知の宇宙へと関心を寄せるほど知識欲に満ちていた彼女は、ただ「知りたい」という願いのもとに、往還者となってその権能を得た。

 

 それは彼女にとって、大いなる不幸だったに違いない。

 なぜなら、「全知を得る」のは「未知を失う」のと同義だからだ。

 

 ただ知りたいと思うだけで、ただ見てしまっただけで、すべてを理解してしまう。

 自分で調べ、探求し、経験して理解する苦労を、喜びを失う。

 生命の福音を持つアリエッタが、生命の価値を見失ったように。

 剣の福音を持つ俺が、剣の存在意義を疑ったように。

 同じように、彼女にとっての万物は知識欲の対象から除外されたのだ。

 冒険は計画に、計算は解答に、推測は事実にしかならず、生においての驚きは限定され、新鮮味は薄れる。未知への探求は色褪せ、退屈の地平に堕ちた。

 

 それ故に、彼女は初対面から最後の瞬間まで、まるで彫像のように無表情だった。

 ただひと時、あの星空を見上げた、あのひと時だけを除いて。

 

 彼女が辛うじて人としての体裁を保っていたのは、福音の性能がある程度限定されていたからだろう。

 俺の剣の福音が「人の手で生み出された剣技のみを得る」ように、彼女の叡智の福音は「人の知りうる範囲の知識のみを得る」ものだった。

 彼女が現界の星空について理解できなかったのはそのためだ。当時の現界の技術では天体の観測が困難だったため、目立つ星などには様々な俗称がついていても、圧倒的多数を占める小さな星々には何の学術体系も構築されていなかった。

 そういった、誰も知らない、誰も名付けていないものを識ることはできないのだそうだ。恐らく言語化ができないからだろう、と彼女は俺に淡々と説明してくれた。

 

 また、人の身では観測が不可能なものも除外される。往還門や、他人の思考などがそれだ。もし仮に彼女が人の考えまでを見通すことができていたら、そもそも他者との会話という行為を実践してくれていたかは怪しいものだ。

 そういう意味では、彼女はまだ人間の範疇に留まってくれていた。

 

 竜種との戦いが終わった後、彼女がどうなったのかは分からない。

 往還者たちはそれぞれの生き方を求めて散り散りとなり、叡智の福音も例外ではなかった。あるとき彼女はひっそりと俺の前から姿を消し、それ以降会っていない。

 彼女のあの調子では、現界で家族を作ったという可能性は薄いように思う。人知れず、生きるのに飽いて生を終えたのだろうか。それとも、俺の与り知らぬところで異界に還って行ったのだろうか。

 どちらかと言えば後者であると願いたいものだ。

 

 はっきりと分かるのは、現在の現界に浮かぶ星々には漏れなく名前が割り振られているということだけだ。

 それは、現界における天文学の創始者となったひとりの学者が、気の遠くなるような長い時間をかけて無数の星々を観測し、ひとつひとつ、意味と願いを込めて命名したからなのだそうだ。

 俺が何となく手に取った古書でそう知ったのは、今からおよそ二百年ほど前の話だ。

 

 

 

 思惟に耽るのを止め、俺は適当な星のひとつに注目した。

 ちかちかと瞬く、小さな赤い星だ。

 普段はあまり稼動していない記憶の領域を探って名前を思い出そうとするが、うまくいかない。確かに本で読んだ筈なのだが、思い出せない。

 どうにも勉強は不得手だ。

 なんとなく手を伸ばせば星の名前が思い出せそうな気がして、空に向かって右手を伸ばした。しかし、どんなにいっぱいに伸ばしても掌は冷たい空気を撫でるばかりで、当然の事ながら彼方の星には届かない。

 

 届かないのだろう。

 おそらくはもう、二度と。

 

 間抜けにそうしていると、やがて、落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。

 カタリナだった。

 彼女は夜闇の中、獣道を掻き分けて現れた。水筒を携えているあたり、どうやら水でも汲みに行っていたらしい。奇妙な俺の挙動を見止めると、怪訝そうに眉をひそめながら隣に腰掛けた。

 

「何をやっていたんです?」

 

 果たして、俺は何をやっていたのだろう。

 身を起こして居住まいを整え、言葉を探しながら伸びをした。

 さしたる名案は浮かばず、結局、遥か頭上に輝く星を指差す。

 

「いやあ、ちょっと……天体観測をね」

「それはそれは。騎士団長代理様はまた似合わないことをなさいますわね。少々お疲れなのではございませんこと?」

 

 物柔らかな微笑を浮かべたカタリナは、言いながら水筒を寄越した。

 そういえば、最後に何かを口にしたのはいつだったか。今更に喉の渇きを自覚し、俺は鷹揚に頷いてボトルを受け取った。

 

「うむ、苦しゅうない」

 

 気温でよく冷えた水をガブガブ飲むと、またもマジックポイント的な何かが回復したような気がした。そんな俺を、カタリナは上体を揺らしながら眺めて笑っている。

 今朝からカタリナとはどうもギクシャクしていたのだが、昼の戦い以降はうまく噛み合っているように思えた。良いことだ。

 

「そういえばサリッサはどうしたんだ? 姿が見えないが」

「気になることがあるそうで、先の街道を確認してくるそうです。あの子の事ですから心配は要らないかと思いますけれど、なんとも落ち着きがないというか……」

「俺ばかり休んでも悪いし、今のうちに二人にも少し休んで欲しいんだけどな」

 

 言い終えてボトルを返す。しかしカタリナは、受け取ったはいいがそのまま固まってしまって口をつけなかった。その様子を疑問に思ってじっと見ていると、ハッとしたような顔でブラウンの瞳を逸らしてまう。

 どうも、言葉にできない違和感があった。水に何か悪戯でもしていたのか、と過分に失礼な思考に到達したが、さすがに子供でもあるまいし有り得まい。

 

「あ、あなたこそ、まだ二十分少々しか休んでいませんよ。横になっていてください」

「いや、もう充分だって」

「いいから休んでくださいまし! ほら!」

 

 無理やりに寝かしつけられ、俺はまたも仰向けになってマントに包まれた。強引に断るのも気が引けたので、釈然としないながらも倒木に体を預ける。

 鼻息荒くおさげを弄るカタリナは、やはりそっぽを向いてしまっていた。

 いったいなんだというのか。

 とりあえずサリッサが戻るまでは話でもしていようと決め、寝転がったまま素朴な疑問を口にする。

 

「お前さ……往還門を通ったとき、何か知りたいことでもあったのか?」

 

 何を指しての問いなのか、カタリナには通じたようだった。

 そっぽを向いたまま、彼女は穏やかに問い返す。

 

「福音の話ですか」

 

 もし仮に、往還者に与えられる福音が当人の願いと強く結びついているのだとしたら、カタリナに与えられた叡智の福音も、彼女自身の何らかの願いを下敷きにしているということになるだろう。

 彼女は秀才なのだろうが、知的好奇心が特に旺盛だとは思えない。どちらかと言えば、むしろ落ち着いている方だろう。

 俺の願いは、今日、大勢の前でもう口に出してしまっている。ただ、その願いの結果として与えられた剣の福音は、やはりどこかチグハグなのではという思いが拭えない。

 ならばカタリナはどうなのだろう、という純粋な疑問だった。

 

 木々の葉が鳴る音が、少し途切れた。

 しん、とした静寂を聞きながら返答を待つ。

 

 あてどなく視線を巡らせ、星空から視線を落とした瞬間、俺は息を呑んだ。

 慈しむような笑顔があった。

 

「今も……知りたいですよ」

 

 彼女は俺を真っ直ぐに見て、そう言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ