26.悪夢
悪い夢を見ている時ほどなかなか目は覚めないものだと、単身、馬上で覚醒したハリエットはぼんやり考えた。
流れる景色は紛れも無く、夜に変じていた。馬で何処かの山道を走っている。照明らしい照明のない夜の山道はどこまでも漆黒で、ぐねぐねとグロテスクに入り曲がっている。まるで自分の醜い本性のようだと、ハリエットは疲れた頭で考えた。
今の今まで眠っていたわけではない。ハリエットと、その身に宿したもう一人の魂――マグノリアは、肉体の主導権を自在に交代することが出来る。
マグノリアが表面化している間、一方のハリエットの意識は非常に曖昧になる。肉体を手放した霊体のみの状態では、自我が極端に希薄になり、思考能力の大半が失われるのだ。
気を張れば霊体のみの状態でも行動は可能だが、大半の時間は何も考えられなくなって宙を漂うだけだ。そも、自身より遥かに高い実力を持つ師マグノリアに自分の手助けなどは必要ないので、それについての問題は何もない。
「状況を教えて頂けますか」
からからに渇いた喉で発した端的な問いは、独り言ではなかった。
左手の人差し指に嵌めている白い指輪がチカチカと瞬き、ハリエットにしか聞き取れない声を発した。
『予備計画に移行したよ。隊は失ってしまったけど、このまま行けばセントレアの連中が気付く頃にはアズルに到着できるだろう』
予備計画。
口の中で反芻したハリエットは、自分が未だ覚めない悪夢の中にいるのだと再確認して唇を噛んだ。
生前の師、マグノリアは実に慎重な戦士だった。勝算の低い戦いは良しとせず、それでも挑まなければならない時は、必ず二重三重の作戦を立案する。今回の皇女暗殺も例に漏れず、状況に合わせた四つの実行計画を平行して進めていた。
彼女が今言った予備計画も、ハリエットは事前に聞いている。アズル近郊で待ち構えている騎士団の本隊で、護衛のいない皇女ミラベルを殺害する計画だ。その実行の為には、一刻も早く本隊に護衛がいない事を報告する必要がある。だがこの作戦さえ成れば、最大の障害である東洋人の門番。そして九天の騎士。そのどちらとも戦わなくて済む。
実行前は良い計画だと思っていた。
しかしハリエットは、ただ一点の誤算によって追い詰められている。
自身の正体の露見。その結果生じた、自分自身の変化によってだ。
当然のことながら、素性を暴かれる可能性をまったく考えていなかったわけではない。
ただ、無意識のうちに考えないようにしていた。失われるだろう地位や人間関係などは、自分にとってさほど大切なものではないと認識していたからだ。
九天の騎士達は一癖二癖あるが、もしかすると気の良い同僚達だったのかもしれない。
全てを打ち明け、相談をしようかと思ったことも多々あった。
だが彼らのうち、いったい何人が敵である自分の――異端者の話を聞いてくれるだろうかと考えると、ただの一人の顔も浮かばなかったのも事実だ。そもそも彼らは皆、誰を頼るでもなく自分の足で立って戦っている者たちだ。影の薄い新参者の自分など、誰の目にも入っていないに違いない。
そんな卑屈な思いがあったのも否定できない。
唯一。
何かと自分に気をかけてくれるウィルフレッドにだけ、望みを抱きかけたこともある。彼ならば、教会の騎士と異端者、敵と味方という立場を超えて相談に乗ってくれるのでは――などと、身勝手な期待を寄せかけた。
断念したのは、ただ彼に迷惑をかけたくなかったからだ。
ウィルフレッドはずっと、一人だけを見ている。サリッサだ。今後の身の振り方も、彼女を基準として決めるに違いない。
彼女が皇女の側に立つ限り、彼も皇女側に付くのだ。
そう確信したあの時が、決別の瞬間だった。あの、彼が裏庭で指輪を渡していたあの時がそうだったのだ。あの瞬間からハリエットは迷いを捨てた。努めて何も考えないようにしていた。
けれど。
いざ戦って、あの門番に握手を求められ――咄嗟にそれを拒んでしまった時、ハリエットは様々なことを悟った。
常に茫洋とした、それでいて疲れを滲ませる表情を浮かべていた東洋人の少年がハリエットに初めて見せた、悲嘆の表情。彼が一瞬で自身に疑念を向け、その正体を看過してみせたことを悟った瞬間、ハリエットは自分の心が崩れる音を聞いた。
結局、自分はあの人達が結構好きだったのだ。
失った瞬間、そう気付いてしまった。
しかし、もう後戻りは出来なかった。
それからはもう、ただ必死だった。たとえ裏切り者と謗られようとも、たとえ殺されようとも。ただひとつ、本懐さえ遂げられればいい。貧民街を救うのだ。もう自分にはそれしかない。
自分にそう言い聞かせて戦ってきた。
しかし、もしかするとその本懐すら、もう諦めてしまっていたのかもしれない。
カタリナ・ルースの言う通りなのだ。
少数を犠牲にして多くを救っても、その行為の繰り返しの果てには多数の犠牲が築かれる。必ず。守るべき弱者が弱者である現実も変わらない。やがて疲弊した夜の者は駆逐され、貧民街は遠からず整理されるだろう。その未来も、どうやっても変わらない。
何も救われなどしない。
もう自分には何も残されていない。
だから目が覚めた時、この悪夢が続いていることをハリエットは呪った。
いっそあのまま、門番の少年や毒蛇の手に掛かって死ねていたらどんなに良かっただろう。敗北の末の失敗であれば、皇子もすぐには貧民街へ手出しはしないに違いない。貧民街所縁の者が多い木星天騎士団が健在であるかぎり、彼らが利用される状況は変わらないとしても、ひとまずの時間稼ぎにはなる。
いや。
この悪夢を終わらせるには、もはや自分の死が最善なのではとすら思える。このままアズルに到着して予備計画を完遂したとしても、門番達の報復による死か、皇子による用済みとしての死だけが待っている。それらと戦うにしても悪夢が長引くだけだ。
もういっそ、自分で。
『エッタ』
沈黙したハリエットに指輪から声が届いた。
亡くなってなお、自分の間違いに付き合ってくれた、優しい師の声だ。逃れられざるものを通じて霊体が繋がっている彼女には、語りかけずともハリエットの思考が見えている。
「……先生」
『もう少し柔軟に考えるといい。理由はともかく、あの皇子が他の継承者を秘密裏に排除したがっているのは間違いない。人の望みというものは、そのまま当人の弱みにも成り得るものだ。ひとまずスルーブレイスの姉妹を捕らえてから方策を練るという手もある。八方塞りというわけではないよ』
「皇子を逆に脅すと? そう上手くいきますか」
『それも選択肢のひとつだと言いたいだけさ。君の行動を選ぶのは君自身だからね』
マグノリアの言葉は助言の域を逸脱しない。指輪を通じて繋がった日からずっと、あくまでもハリエットの意思を尊重するスタイルを貫いている。
「だったら……どうしてあの時……」
その彼女が、あの時だけはハリエットの意志を無視して強引に交代を行った。門番の少年と毒蛇の戦いの最中。戦いに敗れたハリエットが、何もかもを諦めた時だ。
マグノリアが我が身可愛さで戦うということは有り得ない。ハリエットの手助けをするという意義の他を、彼女は今の己に見出していない。彼女は以前から、自分の死を完全に受けて入れている。
だったらなぜ、黙って死なせてはくれなかったのか。
ハリエットにはマグノリアの真意が読めなかった。
『そうだったね……すまない』
謝罪の言葉は本心からのものだ。
マグノリアにハリエットの思考が漏れなく伝わるのと同じく、マグノリアの感情もハリエットには解る。互いに嘘はつけない。意味も無く、そも不可能だ。
『だけど、今しばらくは私に付き合ってくれないか』
「……私が、先生にですか?」
彼女がそんなことを言い出すのは初めてのことだ。ハリエットは少しだけ驚きに目を見開き――すぐに思考を放棄し、眼前を流れる夜闇に浸して沈めた。
何にせよ、もう自分の終着点は近いのだ。だったら、今まで自分に付き合ってくれたマグノリアの為に、もう少しだけ悪夢の中に身を置いておくのも悪くはないだろう。きっとその間は、何も考えないでいられるのだろうから。
手放した自我が解けて薄らいでいく中、ハリエットは師の声を遠くに聞いた。
『私は見極めたいのだ』
言葉の意味を考えることまではできず、少女は目を閉じた。
閉じたところで世界はグロテスクな黒のまま、何も変わらなかった。
***
夜間の強行軍はどれだけ体力があっても堪えるもので、ウィルフレッドは騎士学校時代からこの手の訓練が大の苦手だ。その苦手意識は騎士になってからも変わらず、野戦などの任務では必ずと言っていいほど具合を悪くしている。
実戦に乏しい水星天騎士団では回数こそ少なかったが、彼はその度に己の軟弱さにウンザリしていた。
軟弱さ加減は、今現在も健在だ。
昼間の戦いで甲冑を失っており、幾らかは身軽になっているはずだというのにだ。
へろへろの身体に鞭打って井戸から桶を引き上げ、汲み上げた水を頭から被る。氷のような冷水が上気した顔の熱を奪い、少しだけ気分が良くなった。
そのまま石積みの井戸にもたれ掛かり、座り込む。眠るわけにもいかず、夜闇に浮かぶ月を理由なく見上げた。
転移街アズル目指して出発した九天の騎士、そして水星天騎士団の合同部隊は、二時間ほどの道程を消化した後、街道沿いの宿でひとまずの休息をとっていた。ややハイペースで走り続けている馬たちのための休憩である。三十余りという人数が人数であるし、宿で悠長に休んでいる余裕もないため、最低限、水の補給のみを行って再出発する予定だ。
「おいおい青年、大丈夫か?」
緊張感のない声に顔を上げると、同僚のアウロラが仁王立ちしていた。
ウィルフレッドと同じく、甲冑を着ていない。彼女は豪胆な性格に反し、事務方のような体格をしている。甲冑を身に着けていないと騎士にはとても見えない。
「ええ、なんとか」
頑張って作り笑いを浮かべるウィルフレッドに、アウロラも微妙な笑みを浮かべた。見抜かれているのだろう、と解釈した青年は、開き直ってグッタリと脱力する。
その様をケタケタ笑いつつ、アウロラも井戸底から桶を手繰り寄せた。
「にしても、指揮官殿がふたり揃って不在とは。なんとも締まらない行軍だねえ」
「門番とカタリナさんですか。あの二人のことだから、きっと何か考えがあるんでしょう。まあ、また無茶をやってないといいですけどね」
「いやあ、無理でしょ。ありゃきっと早死にするタイプだと思うよ、あたしは」
「はは、あれで千年生きてるらしいですけどね」
一笑し、ウィルフレッドはすぐに笑みを消した。
実に目まぐるしい一日だが、ウィルフレッドの関心事はさほど多くない。門番の正体も「なにを今更」という程度の感想しか浮かんでこない。むしろ彼を尋常の存在と捉えていた人間の方が少ないだろう。そんな小さな事よりも、ウィルフレッドはサリッサに言われた言葉を考えていた。
それでいいのか、と。
自分の姿勢を問われてからずっと、ひたすらに自問を繰り返している。
すぐにハリエットの元へ行かなかった自分に。そのうちに彼女は去り――何もかもが終わってしまっていた事に。
「アウロラさんは……ハリエットの事をどう思ってるんですか」
さして親しいわけでもない相手にそんなことを尋ねてしまう程度には、彼女の裏切りはウィルフレッドの頭を占領していた。
ひとりで考えれば、考えるほどに泥の沼に足を取られるような、なにか言い知れない嫌な感覚がある。今は誰かの意見を聞きたかった。
「ん、好きだよ。あの子、可愛いじゃん」
桶から水を掬って口にしようとしていたアウロラは、まったく淀みなくサッパリと言った。それから少量の水を口に含み、飲み下す。
ウィルフレッドは苦笑するしかない。いま聞きたい言葉とはベクトルがまるで異なっていたからだ。今の状況を考えれば、どこかピントがズレているようにも思える。そんな彼の様子を横目で見たアウロラは、僅かに間を置いてから口を開いた。
「……でもまあ、他人が何を考えてるかなんて分かりっこないからね。自分では仲がいいと思ってても、相手からするとそうでもなかったりさ。ままあることでしょ。別に、そう深刻に思い悩む必要はないと思うけどね」
「悩む……僕がですか?」
どう反応していいか分からず、ただ言葉を反芻した。
「はあ。あたしゃ呆れるよ、青年。アンタなんでそんな風に育ったんだ」
アウロラはこめかみを押さえて首を振る。井戸端に座る青年を信じられないものを見るかのような目で見下ろしながら、指差して言った。
「何を悩んでるかは知らないけど、アンタらしくもない。前の戦いの時みたいに、助けに行きましょう!とか率先して言い出すもんだと思ってたんだけど」
「ああ……そんなこともありましたね」
生返事をしながら、ウィルフレッドは視線を落とす。
でも、あの時とは状況が違うじゃないか。心の内で誰かがそう反論しているような気がする。
そうだ。ハリエットは自ら去っていったのだ。まったくの不意打ちでウィルフレッドを昏倒させ、サリッサを拘束して――
思い返して、ふと思う。
なぜ自分は怒っていないのだろうか、と。
自分はともかくとして、あのサリッサが危害を加えられたのだ。この世界で最も大切な人間だと断言できる人物を傷付けられたというのに、ウィルフレッドの胸中には復讐心などは影も形もなかった。
毒蛇がハリエットを処断しようとした話は聞いているが、もし自分がその場に居たら、やはり止めに入っていたのではないかとさえ思える。
だが、現実にはそうならなかった。
ウィルフレッドはその場にはいなかったからだ。
向かわなかったからだ。
「……僕は……また逃げたのか……?」
無意識に口が動いた。
アウロラが怪訝そうに顔を覗き込んでくるが、誤魔化し笑いを浮かべるしかない。自分で発した言葉の意味が、自分でも良く分からなかったからだ。
ただ何か、以前にも同じようなことがあったような気がした。それがいつ、どこでだったのかは、記憶に霞がかかったかのように判然としない。
躍起になって記憶の扉を探すが、それを見つけるよりも先に、ウィルフレッドの視界は再び水にまみれた。
どうやら頭から水を掛けられたらしい。
無言で引き攣った顔を上げると、アウロラが素知らぬ顔で水桶を再び井戸に下ろしているところだった。
「何だっていいけど、今は目の前の事に集中しな。戦わない作戦でも、命懸けになるには違いないんだからさ。余計なことばっか考えてると死ぬかも知れないよ」
声に僅かばかり含まれていた憂慮に、ウィルフレッドは彼女の気遣いを悟った。アウロラ自身も、割り切れているわけではないだろうにだ。
息を吸ったウィルフレッドは、腹の底に力を入れて立ち上がった。迷いは未だあれども、今はただ、ハリエットにもう一度会いたいと思った。会わなければならない、とも。
水を吸って額に貼り付く前髪をペタペタと整えながら、彼は断言した。
「大丈夫ですよ、僕は」




