19.綺麗事②
話は終わった。
或いは、最初から話すことなど何もなかったのだと言わんばかりに、ハリエットは先折れ帽子を掴み、放り捨てて黒壇の杖を掲げた。
魔法戦を挑もうとしている。
俺は応じるしかない。彼女ほどの域に達した魔術師が放つ攻撃魔法を剣で完全に防ぐのは不可能だ。出だしを潰すか、全力で逃げるか、どちらかしかない。
だが、後者は有り得ない。
ペンデュラムによる探知魔法を習得しているハリエットは、この深い森の中であっても容易にカタリナを見つけ出すだろう。彼女を自由にさせてしまえば、それは即ち、カタリナの命を危険に曝すことと同義だ。
しかし。
帽子を捨て、無機的な表情を露わにしたハリエットは、隠しようもなく満身創痍だった。魔術によって再構成された衣服こそ無傷だが、頬は擦れて血が滲み、肩は不自然な角度で曲がり、ケープコートの下も、どのような状態になっているか分からない。
手袋に隠された右手も――咄嗟の握手を拒んでしまうほどに痛んでいる筈だ。
その五指を斬ったのは俺だ。
俺なのだ。
剣が、重い。
「贖いの槍……名高き一位の身駆、火の粉火花を散らしてなれ穿つべし!」
恐るべき上位破壊魔法、櫟槍の詠唱を聞きながらも、俺は緩慢な動きでそれを迎え撃った。いや、意識だけを何とか迎撃に向けたのみだった。
愛剣を構えたまま、俺の手は硬直していた。
そんな経験は、今まで数えるほどもない。
「櫟槍!」
土中から生じた燃え盛る木槍を、やっとのことで動かした長剣で払う。払おうとした。あまりにも無様な軌跡を描いた刀身が、魔素で編まれた木槍を叩き、そして、弾き返される。戦うべきかすらも定まらない俺の迷いを、剣は許さなかった。
僅かに威力を減じながらも、イチイの槍は俺の脇腹を直撃した。激痛と衝撃が突き抜け、俺の体は為す術もなく枯葉の上を転がる。
だが、致命傷とは程遠い。威力が殺がれた櫟槍は、皮肉にも――俺が今まで無意味だと断じてきた、防具――たまたま身に付けていた胸甲を僅かに貫通するに留まった。
もし胸甲を身に付けていなければ俺は串刺しになり、櫟槍の魔法効果によって火達磨となって死んでいただろう。覚悟のないまま戦いに赴いた者の必定として。
いや――ここで死ぬ訳にはいかない。
やらなければならないことも、やりたいことも、今の俺にはある。
枯葉を握り、腕に力を込めて立ち上がる。頭を振り、それから敵に向き直った。
しかし、初撃を成功させてイニシアチブをとった筈のハリエットは、再び地に膝を折っていた。両肩は大きく上下し、白い顔を伏せて咳き込んでいた。
その僅かに湿り気のある咳の音に、首をもたげ始めていた戦意が完全に霧散する。
こんなものはもう、戦いとは呼べない。
今、この少女に剣を向けるなんて事は、俺にはできない。絶対に。
辛うじて息を整えたハリエットが顔を上げた。
立ち上がった俺を見止めると、能面のように固まった顔で言った。
「ああ……あれを受けて生きてるなんて……実に運が良いです」
風が吹いた。
ざわざわと梢が揺れ、俺の掌から枯葉が舞い落ちた。
その間、ハリエットは数度、身を起こそうと試みた。立ち尽くす俺の前で杖をつき、体を持ち上げようとして、逆に両膝を枯葉の上に落とす。
とても見ていられない。とうに下げてしまった長剣を腰の鞘に収め、俺は言う。
「……もうやめよう。君のことは九天や水星天騎士団には伏せておく。身の安全は保障するから、諦めて手当てを受けてくれ。頼む」
「身の安全?」
抑揚のない声で問い返した少女は、目だけを動かして俺を見た。
「ああ。君にどんな事情があって皇族を狙うのかは分からないが……諦めてさえくれれば、話してさえくれれば、俺はきっと力になれる。俺は別に皇国側の人間じゃない。異端者だかを取り締まるつもりもないし、君を連中に突き出すつもりもない。だから……」
「だから、何です?」
取り繕うような、言い訳のような言葉を並べる俺を、ハリエットは強い語調で遮った。薄っぺらい言葉を続けることができず、俺は口を閉ざす。
「ずれてますよ、門番さん。私が、自分の命が惜しいと見えますか。もし私の力になりたいのなら、お姫様を殺すのを手伝ってください。それができないのなら……黙っていてほしいです。いま、立ちますから」
淡々と言い、ハリエットはその言葉通り、杖を支えに立ち上がってみせた。
だが、それだけだ。
もはや自らの魔法の反動にすら耐えられないだろう彼女に、戦闘能力は残されていない。いくら待てどもハリエットは動かない。動けない。
また、風が吹いた。
「どうしてなんだ」
にべもなく拒絶されようとも、問わずにはいられない。
他人である俺にも分かる。ハリエットは決して、悪人の類ではない。人間の中に確かに存在する、悪性をこそ喜びとする人種では決してない。
確かに、俺には理解し難い部分はあるだろう。俺は現界の生まれではないし、騎士でもない。魔法使いでもない。歳も、性別も違う。それどころか俺は、人間かどうかすら怪しいものだ。
だが、分かる。さして関わりのない俺にも、分かるのだ。
酒場で仲間達と笑い、ウィルフレッドの傍らで恥ずかしそうにはにかんでいたこの子は、何の理由もなく人を殺そうとするような人間ではない筈なのだと。
ハリエットは黙って、俺の目を見ていた。
やがて小さな息を吐くと、この場においては初めて――感情らしきものを覗かせる表情を作った。苦く、小さな、諦めの滲んだ笑みを。
「門番さんは、皇都に行ったこと……ありますか?」
俺は僅かに安堵し、そして、強く頷いた。
体感では数日前、現実には数日後。俺はこの時代の皇都を目の当たりにしている。遥か昔に見た、王城と城下の街という尋常の姿ではなく、まるで巨大な塔のごとく異様な発展を遂げた皇都の姿をだ。
「では……知っていますか。皇都の下層の下にも、街があるんです。皇国が侵略した国からの……貧しい移民の人達や、身寄りのない人達が集まって作った、街です」
「ああ。知ってる」
皇都に所謂、貧民街などと呼ばれている区画がある事は、スキンファクシの中でアーネスト皇子から聞いていた。
皇都の行政府は拡張を繰り返す皇都の建築作業に充てる為、ハリエットが挙げたような境遇の人達を徴用し、平民が住まう下層よりも更に下の区画に住まわせているらしい。
だが恐らく、この説明は行政府によって最大限に美化された建前だろう。実際にはもっと酷な現実があるだろうことは想像に難くない。統治機構の支配が届かない場所、行政から見放された地域に、もっともらしい理由を後付けしただけに思える。
でなければ、貧民街などと呼ぶまい。
大いなる欺瞞だ。
しかし、ハリエットはどこか懐かしむような、穏やかな口調で言った。
「いい街なんです。みんな、本当にいい人達で……爪弾きにされた貴族の私なんかを、迎え入れてくれて……私がこうして生きていられるのは、あの街の人達のお陰です」
彼女の過去に何があったのかは、おぼろげにしか分からない。
ただ、述懐するハリエットの表情は、先ほどまでとは別人のように優しいものに変わっていた。
でも、と。
低く呟いた少女は再び表情を殺す。
「彼らは行政府からしてみれば手に余る、都合の悪い存在でしかない。最下層に追いやるだけでは飽き足らず、人数が増えないように……国教会に異端者狩りをさせて……もう、何世紀もそんな弾圧を続けています」
貧民街のルーツが移民であるのなら、確かにその住民達はウッドランドの国教を信仰してはいまい。異端者。弾圧の口実としては恰好だろう。
そして、
「その弾圧の中で生まれたのが《夜の者》なのか」
異端の者達の守護者。
国教会をはじめとする体制側に抵抗する、反政府組織といったところだろうか。
ハリエットは否定も肯定もせず、静かに告げた。
「私は……先代の九天の騎士に拾われて、彼女の跡を継いだだけです」
「……なんだって?」
俺は、彼女の言を咀嚼しようとした。
それから、ごく自然な動作で持ち上げられたハリエットの杖を見た。
魔素が迸る。
彼女は真実を語っていたように思う。それは間違いない。だからこそ俺は聞き入り、彼女が唐突に話を始めた意味に気付かなかった。油断と言えば、そうだろう。
しかし、ハリエットの魔術も見事だった。全くの無言で発動した高位拘束系の魔術、宿木の束縛は瞬く間に地表から伸び、俺の両手を縛める。
剣を抜く暇もなかった。
絡み付くヤドリギの枝に引かれ、俺は体勢を崩してよろめく。無詠唱の魔術を見事成功させてみせたハリエットも、ぐらりと上体を傾けた。
だが、倒れない。
遂に杖を取り落としながらも、彼女は膝立ちの姿勢のまま耐え切った。息も絶え絶えに力を振り絞り、呆然とする俺に左の掌を向けた。
勝敗は明らかだ。
両手が塞がった状態では、どんなに低級の破壊魔法でも致命傷になり得る。
しかし、少女は魔法を放たずに口を開いた。
まるで、何かに言い訳をするかのように。
先程の俺と同じように。
「皇子は……彼は、支援を約束しました……! 彼が継承戦に勝利した暁には、最下層の人達を救うと約束したんです……だから……ッ!」
――皇子。
ハリエット達と取引を交わしたのは、やはり皇族だ。
だが、
「そいつが約束を守ると思うのか!?」
そんな口約束など、どうとでも反故にできる。約束が守られる保証などない。
ましてや、継承戦に勝ち残る為に反体制派の集団を使うような人物だ。可能性は限りなく低いと言ってもいいだろう。
「そんなこと……分かってるんです!」
傷まみれの、華奢な体のどこにそんな力が残っているのか。
ハリエットは激昂していた。
「これは……取引なんかじゃない! 脅しなんです! 継承戦に協力しなければ、貧民街に危害を加えると、暗にそう言っているんです!」
「……っ!」
俺は歯噛みするしかない。
彼女の読みは、事実とそう遠くないに違いない。
「この街に居た皇族三人の誰か、一人でも殺せればいい! そうすれば最低限の言い訳が立つ……だからなんですよ!」
彼女は納得などしていない。
だからこうして、油断を誘う為でもなく――俺の問いに答えたのだろうか。
その様子はやはり、あの黒ずくめの暗殺者の姿とは重ならない。あれがハリエットだったのは間違いないだろう。だが、言い知れない違和感が確かにある。
確かめる術はない。
機会もないだろう。
震える掌で照準を合わせたハリエットは、俺を目掛けて木槍を放つ。俺は両手を縛られ、防ぐことも避けることも叶わない。
濃密な死の予感と共に迫る木槍を凝視した、次の瞬間。
彼方より飛来した何かが、迫り来る木槍を貫き、粉砕した。
木々の間、木立の向こう。
異形の弓を構える少女の姿が見えた。
いつか見た表情と、全く同じ。
怒りを滲ませるカタリナ・ルースの両目が、鈍い光を帯びて瞬いていた。




