16.影③
やれているじゃないか。
草を掻き分け、敵の姿を追いながら、ウィルフレッドはひとりごちた。
若く経験の浅い騎士であるこの青年は、実戦と呼べるような戦いを僅か片手の指で数えられるほどしか経験していない。しかし、皇国に悪名を轟かせ、古参の九天の騎士達をも梃子摺らせたという夜の者と対等に渡り合えているという事実は、彼に自信を与えつつあった。
今までは特段、自身の腕前が上がっているという実感はなかった。
門番の少年に対する対抗心から身に付けた転移魔術による戦い方も、結局のところ彼にはまるで通用しなかったのだから。ある種の劣等感すら覚えるほどに。
「でもこれは、ひょっとするとひょっとするのかな」
木陰から急襲してきた暗殺者の魔手を余裕すら持って転移魔術で躱し、ウィルフレッドは確かな手応えと感じつつ白銀の大剣を構えた。
流麗な彫刻が施されたその大剣は、九天に選出された騎士の間に代々受け継がれてきた、亜遺物と呼ばれる武具のひとつである。
銘は辰砂。その名の由来は遥か昔に失われているという。
由緒正しい名剣である辰砂を、ウィルフレッドは重荷に感じたことがある。転移魔術――瞬時に移動するという能力だけが取り柄の、それ以外は凡庸な騎士でしかない自分は、こんな立派な剣を使うに値するのだろうかと。
最早、そんな惰弱な思いとは決別しなければならない。
九天の騎士達と自分がこれからどのような道を選ぶにせよ、騎士として生きる以上は戦いに身を置く事になる。
そして、少なくとも今は、まさに。
すう、と鋭く息を吸い込み、大剣を肩に載せるようにして構える。
相対する黒装束の暗殺者が拳を構える姿を視界の中心に置き、ウィルフレッドは地を蹴った。
彼の未熟な転移魔術には制限が存在する。転移の対象は自分、もしくは所在が明らかな無機物のみ。最大移動距離こそ二マイルを超えるが、見た事のない場所は具体的なイメージができないため、移動先に指定できない。
一般的な転移魔術の用途――移動という面で見れば、酷く半端な魔法だ。敵の懐へと踏み込みながら、肩から右へと大剣の刃を倒したウィルフレッドは、しかし、己の武器を既に自覚している。
黒装束は右方からの斬撃に応じようと防御の姿勢をとった。いかな大剣辰砂とはいえ、夜の者には刃が通じない。守りを正面から破るのは容易ではないだろう。ウィルフレッドは自分の剣技がその域に達していないことも理解していた。
「だけど、防御の外なら!」
だからこそ、横薙ぎに剣を振るったその瞬間、彼は転移魔術を発動させた。僅か数歩の距離、守りを固める敵の背後に転移したのだ。
勢いと体重とを乗せ、がら空きの背中に大剣の刃を叩き込むと、まるで岩でも叩いたかのような手応えと緋色の火花が散った。
(背中にもまじないが施してある!?)
僅かに怯んだウィルフレッドだったが、恐れを踏み越えて大剣を振り抜いた。
意表を突かれた黒装束は大剣に切り裂かれこそしなかったが、風に煽られた襤褸切れの如く吹き飛んだ。
騎士の膂力による一撃は、その衝撃のみでも人体に致命的なダメージを与え得る。樹に叩き付けられ、もんどりうって倒れた黒装束が立ち上がらないのを確認したウィルフレッドは、きつく握り締めた大剣を下げ、安堵の息を吐いた。
「あ……危ないところだった。まさか背中にも剣が通らないなんて……もしかして全身が守られてるのか……?」
ぶつぶつと口に出して呟いた己の言葉に、ウィルフレッドは端正な顔を青ざめさせた。彼らはここに至るまでに二名の暗殺者を撃破していたが、そのどちらもハリエットの魔法による成果だ。
ウィルフレッド自身が単独で撃破したのはこれが初である。一人相手にこんな有様では、ハリエットが居なければどうなっていたことか分からない。
残る一人を追っていった槍使いの少女の身を案じ、ウィルフレッドは空を仰いだ。木々が伸ばした枝葉の合間に見える空は狭く、非常識的な三次元戦闘を行っているだろう少女の姿は見えない。
「でもサリッサだからなあ」
すぐに思い直し、ウィルフレッドは大剣を担ぎ直した。
あの少女は武芸において天才の類である。知略や技能、魔術の腕を除いた純粋な戦闘能力だけなら、九天の中でも彼女の上は居ないだろう。
ウィルフレッドの知る限り、彼女が敗北を喫した相手は二人しか存在しない。そのどちらもがある種の「例外」であり、非常識的な存在だ。逆に言えば、彼女を倒せるような使い手は常識の範疇に存在しないという事になる。
その楽観を肯定するかの如く、
「どすこおおおいっ!」
絶叫と共に、組み合ったふたつの人影が凄まじい勢いで落着した。
ウィルフレッドの目の前に枝葉を吹き散らして落ちてきた槍使いの少女は、逆手で振り下ろした槍の下に最後の敵を捕らえていた。
夜の者が操る技は、剣のみならず槍も阻むらしい。刺さらない槍の穂先を黒装束の鳩尾に食い込ませたまま、サリッサは頭を振って乱れた長い黒髪を整える。
仰向けに地面にめり込んだ黒装束は、もはやピクリとも動かなかった。
「……ふぅー、やっと静かになったわ。まったく、こいつらの固さったらないわね。どういう仕組みの技なのかしら」
白槍を回し、鋭い風切り音と共に順手に持ち替えたサリッサは、そこでようやくウィルフレッドの存在に気付いた。
大きなふたつの赤目がたちまち細まり、口がへの字に曲がる。あどけない顔に浮かんだしかめ面に、今年でもう二十歳になる青年は大いに傷付いた。サリッサの外見上の年齢が可愛らしい――十歳強にまで低下しているのも相まって、ダメージは深刻だ。
「そ、そんな露骨に嫌な顔をしなくてもいいじゃないか! 僕だって一生懸命頑張ってたのに!」
「別にあたしに褒められる為に頑張ってるわけじゃないでしょうに」
地団太を踏んで悔しがる青年を気持ち悪そうに眺めやり、サリッサは肩を落とした。彼女とてウィルフレッドの事を心底嫌っているわけではないのだが、ウィルフレッドはそうと理解した上で長年まとわりついている。サリッサは彼のそういうところも苦手なのだった。
「まあ、そうだね。そういえば門番とカタリナさんの姿が見えないけど、大丈夫なのかな」
次の瞬間にはけろっとした顔で周囲を見回しているあたりも、なんとも理解しがたい精神性と言える。サリッサは呆れ顔で言った。
「ハリエットも居ないじゃないの」
薄暗い森の中のどこにも、ケープの少女の姿はない。
ウィルフレッドは血の滲む頬の傷を拭い、表情を曇らせた。
「……おかしいな。さっきまですぐ後ろに居たのに」
「まだ敵が残ってるのかも知れないわ。どっちか起こして吐かせましょ」
「乱暴だなあ」
「毒には毒よ」
サリッサは冷たく言い切り、倒れた敵を叩き起こそうと歩み寄る。ウィルフレッドは小さな背中が発散する殺気に怯みつつ、おっかなびっくり追従した。まったく物騒で頼りがいのある幼馴染の様子に、いつしか彼は気が緩んでいた。
背後に生まれた影がおもむろに人の形をとるのを、気付かない程度には。
「ウィル!?」
音もなく忍び寄った影が腕を閃かせるのと、白槍を構えたサリッサが振り返って叫んだのは同時だった。意味するところを理解したウィルフレッドは、咄嗟に転移魔術を発動させる。
しかし、遅過ぎた。
甚大な衝撃がウィルフレッドの背を襲った。まったきの黒い掌が青年の纏った甲冑を容易に砕き、その下の肉体を強かに打った。魔術行使の為の集中が掻き乱され、転移魔術は失敗。
青年は血を吐き、ただその場にくず折れる。
「このおッ!」
すかさず突き込まれたサリッサの槍を跳び下がって避けた襲撃者は、ぴったりとした黒衣に包まれた細身の体を弓のように反らせた。
一見すると踊りのような、奇怪なだけの無駄な動きである。しかし、サリッサはその動きを何らかの戦技の予備動作だと直感で見抜き、膝を付いてうな垂れたウィルフレッドの肩を掴んで後方に放り投げた。
「……終わり」
抑揚のない、不自然な錆び声が響く。
青年を庇って自らの防御を捨てたサリッサを目掛け、黒装束が頭の後ろで組んだ両の掌を打ち下ろした。破壊魔法のそれに匹敵する量の魔素が迸り、巨大な戦槌の如く周囲の地面ごと槍の少女を叩き潰す。
戦技の威力で大地が揺れた。
絶命は必定、とばかりに残心する暗殺者の目の前で、しかし、巨大な魔素のハンマーを受けたはずの少女は白槍を振るう。繰り出された払いを手刀で受けた黒装束は、おもむろに首を傾げた。
槍の少女がまるで無傷だったからだ。
至近に迫った敵の覆面に、サリッサは氷のように冷えた声音で問いを発した。
「腕前を見るに、あんたが夜の者とかって連中のリーダーなのかしら」
「だったら?」
「叩きのめすわ。邪魔だもの」
断続的に火花を散らして噛み合う手刀と槍が、弾き合って離れた。両者は跳び下がって距離をとり、己の武器をそれぞれ構え直す。
そこで初めて、サリッサは敵の姿を真っ直ぐに見た。黒いフードに覆面、細身の体にぴったりと張り付いた黒装束。そして、思いの外――小柄だった。
己の容貌は棚上げし、サリッサは眉をひそめる。
「……あんた、女ね」
覆面の下の口は応えなかった。
しかし、関係ない。相手が何であろうが、誰であろうが。
友を害する者は排除するのみ。
白槍の槍頭を敵に向け、サリッサは口端を吊り上げて獰猛な笑みを作った。
「ま、いいわ。せいぜい覚悟なさい。残念だけど、手品はあんた達の専売特許じゃないのよ」




