18.死霊
しばらくの間、1日おきに投稿致します。
僕と淡雪は入口をはいってすぐにある、
いわゆる「前室」と言われる部屋を抜け、
その階下の通路で待機していた。
「ゴブリン一匹が近づいて来るようです。
あちら、右側からとなります。
あと1分程度で接敵すると思われますがどうされますか」
機械人形が告げる無機質な警告に、僕は答える。
「2匹以上なら逃げようと思っていたが、
1匹なら頑張らないといけないな。
ピンチになれば前室に逃げ込めば済むから、
滅多なことにはならないだろう。
それにゴブリン一匹も倒せないようじゃあ、
この西の大洞穴を探検することができなくなってしまう」
承知しましたと、淡雪はぎこちなく首を縦に動かし、
ナイフを道具袋から2本取り出した。
いずれも、この洞窟の前に広がる市場で購入したものだ。
「他のモンスターの気配はないんだな」
念のためにもう一度確認するが、
淡雪は、はい、と端的に答えた。
僕はその回答に満足したとばかりに鷹揚に頷く。
だがもちろん、内心は平静とは無縁の心持ちなのだった。
サラリーマン時代に嫌でも具えることとなった、
自分はあたかも冷静だ、と言わんばかりのポーカーフェイスが
本心が現れるのを防いでいるだけである。
実際は、モンスター討伐をいざ失敗したときへの恐怖や、
そもそも初めて「ダンジョン」で戦闘することへの緊張に震えており、
余裕などとは程遠い心境であった。
無論、相手はたった2度とはいえ討伐経験のあるゴブリン一匹であり、
また「前室」というモンスターが入ってこれない部屋の前に陣取り、
何かがあったとしてもすぐに退却が出来るように、
万全の態勢を敷いている。
だが、いかんせん僕の臆病な心は、
そうした処方箋とは関係なく、
とめどなく悲鳴を上げ続けるのであった。
「こんなことじゃあ、20階層もあるというこの西の大洞穴を、
いや、死霊の洞窟を踏破することはできないぞ」
そんな根本的な疑義が頭をもたげ始めた時である。
来ました、と冷徹な機械人形の上げる声が耳を掠めた。
なるほど、彼女が言った通り、間もなくゴブリンが一匹、
洞窟に自生するヒカリゴケに照らされて、
通路の奥に姿を現した。
まだこちらの存在には気付いていない。
距離が50メートルはあるだろうから無理もあるまい。
だが、そんなモンスターの状況に一切躊躇することなく、
淡雪は手持ちのナイフを構えると、
目にも留まらぬ速さで腕を振るった。
裂帛の如き空気を切るような音が
耳朶を打ったと思った瞬間、
時を置かずして、遠く離れたモンスターから甲高い叫び声が上がった。
よし、と僕が棍棒を持ってゴブリンへと駆け寄る。
無論、最大限の警戒をしながらだ。
しかし、それは無用な用心であった。
モンスターは既に地面に這いつくばった満身創痍の状態であり、
こちらを見上げながら恨めし気に
喉の奥から唸り声を上げるだけだったのだから。
壁際にはナイフが2本転がっている。
1本はもともと、このモンスターが持っていたものだ。
そして、残りの1本は淡雪の放ったナイフである。
刃には血肉がべっとりと付着しており、
その傍らには先ほどまでゴブリンの躰を支えていた右足が転がっていた。
そう、彼女が投擲したナイフが、
モンスターの頑強な体の一部をもぎ取ったのである。
おかげで、一瞬のうちに片足を失ってしまったモンスターは、
突然の出来事に慌てふためき有効な対策も打てず、
自分をこんな目にあわせたと思われる人間を目の前に、
精々、恨めし気に睨みつけることしかできないのだ。
だが、まだ息の音が止まったわけではない。
こういう瀕死の手合いに、しばしば人は油断を覚える。
それは人間性の発露であり、つまりは人の持つ生来の優しさだと思う。
素晴らしいことだ。人間とはそうでなくてはなるまい。
だが、僕が僕自身を哀れに思うように、
自分と言う人間は生まれてこの方、
余裕を持ったことなぞ一切なかったし、
隙を見せれば、甚大なるしっぺ返しを食らう、
という人生であった。
そんなわけだから、僕は血まみれになって地面に倒れ伏す
ゴブリンを眼下にしつつも、何らためらいを覚えることなく、
微かに残った情動が何かを叫ぶよりも遙かに迅速に、
両腕でなんとか持ち上がるほど重い棍棒を振り上げると、
重力に逆らわずに頭蓋へと打ちおろしたのである。
・・・
・・
・
ふう、と緊張感から解放された僕は、死霊の洞窟の
「前室」の端っこにどっかりと座り込み、大きく嘆息した。
そして、がさがさと、持っていた道具袋からメモ帳を取り出す。
開かれたページには異世界50日目、と書かれており、
その紙面には、
・ダンジョンとは?
・前室にモンスターが本当に来ないのか確認
・ボス前の待機部屋から前室に本当に戻れるか確認
・モンスターと一度戦ってみる
・火炎弾の強さ確認(モンスターの強さ変わらない?)
・一度残金確認
という項目が踊っていた。
僕は、モンスターと一度戦ってみる、の項目に斜線を引く。
それから、少し迷った後で、ダンジョンとは?、の項目も
削除すると、次のページに異世界51日目と書いてから、
改めて、ダンジョンとは?、の項目を立てた。
この「ダンジョン」という不思議な存在については、
今後も継続して調べていく必要があると思ってはいるが、
とりあえず今日は、その「ダンジョン」に実際に潜ってみたのである。
これ以上の調査はあるまい。
だから僕は今日の、ダンジョンとは?、の課題については
ノルマクリア、としたのである。
そうしてから、僕は他の項目についても注意深く視線を巡らせた。
上から2つ目の、前室にモンスターが本当に来ないのか確認、
については、例えば地下1階層でモンスターをおびき寄せておいて、
前室に逃げ込んだ時に追ってこないようであれば、
一定の信憑性があると考えても良いだろう。
だが、まあ、はっきり言ってこの説はある程度信用しても
良いように僕は直感していた。
昨日から世話になりはじめた宿屋の親爺は
うさんくさい風采の男であったが、
西の大洞穴について知っていることをヒヤリングした際は、
さすが近場で商売をしているだけあって
それなりに詳細な情報をくれた。
その中でも、洞窟入口をはいって最初に侵入することになる
10m四方の部屋は、「前室」と言い、モンスターが
一切寄り付かない場所である、ということであった。
そしてこのことは冒険者の間では「常識」である、
といった口振りで話してくれたのである。
僕は自分で言うのも何だが、
前の世界において、「世間を知らない人間」であったことが
大いにコンプレックスになっている。
そのため、親爺から一般教養の如く話された「前室」の特性というものは、
如何せん信頼性の高い情報の様に思えてしまうのだった。
とはいえ、自分の目で確かめておいた方が良いということには違いない。
ただ、そもそも急ぐ旅ではないのだ。
1年や2年、この西の大洞穴、もとい死霊の洞窟という
ダンジョンに付き合っても差支えないのである。
そんなわけなので、特段今日中に慌ててやらなくても
良い仕事だと見切りをつける。
僕は、前室にモンスターが本当に来ないのか確認、
に斜線を引くと、次のページへと書き写した。
さて、残った項目はと言えば、
・ボス前の待機部屋から前室に本当に戻れるか確認
・火炎弾の強さ確認(モンスターの強さ変わらない?)
・一度残金確認
である。ボス前の待機部屋から前室に本当に戻れるか確認、
については、やはり宿の親爺から聞いた話であるが、
これも、今日慌てて取り組まない方がいいだろう、と思う。
なぜなら、ボス前の待機部屋から前室に本当に戻れるか確認、
については、実際にボス部屋手前の待機部屋まで辿りつかなくては
検証できないからだ。
ボス部屋はこのダンジョンには2つあって、
10階層に1つ、20階層に1つ、あるそうだ。
言わば、中ボス、本ボス、ということらしい。
そして、やはりボスだけあって強力なモンスターとのことなのだが、
残念ながらこのあたりの詳細はまだ情報収集が出来ていない状況である。
まあ、つまりはそういうことだ。
僕が今から強行軍を行い、10階層まで下りたとしよう。
そして運よくボス部屋の手前までたどり着けたとする。
「本当に待機部屋があればまだいい」のだ。
実際に前室まで戻れなかろうと、である。
だが、もしもその部屋の存在がただの噂であり、
嘘だったとすれば目も当てられない。
その場合、僕は碌な準備もないままに、
いきなりボス部屋へと突入するはめになり、
強力なモンスターとやり合わなくてはならなくなるのだから。
そんなことは、僕の人生において、決して許容できないミスであった。
だから、できれば他の人間で実験をしたい、というのが本音だ。
実際に、待機部屋に一人連れて行って、
その人間が前室にワープして戻ることを確認すれば良いのである。
万が一にも、僕自身がそのような試験を命がけで行うことは、
避けなくてはならなかった。
僕の命はこの地上の何よりも重く貴重なのであるから。
そこまで思考を進めると、
僕は次に、火炎弾の強さ確認(モンスターの強さ変わらない?)、
の項目に目を移した。
「これも、また明日でいいよなあ」
何せ今日は初めてダンジョンというものに挑み、
ちゃんと地下1階層でゴブリンというモンスターを打倒したのである。
そしてしっかりとドロップアイテムのゴブリンの角も回収しており、
僕にしてみればこの上なく努力しているのだと言えた。
「だからもう、今日は頑張ってしまってはいけない」
そう心が警鐘を鳴らしていた。
これ以上、頑張ってしまっては、僕の疲れやすい心が衰弱してしまって、
しばらく動けなくなってしまう。引きこもってしまえるだけの金貨は
蓄えてはいるが、そういった状況になること自体が好ましくなかった。
閉塞的であり、絶望感を覚え、気力が湧かず、
何もする気になれないような、
そんな状態が望ましい訳ないのである。
僕は、ボス前の待機部屋から前室に本当に戻れるか確認、
それから、火炎弾の強さ確認(モンスターの強さ変わらない?)、
の項目を次のページに移すと、隣でまじろぎもせずに待っていた
淡雪に声を掛けて、ダンジョンの外へと出たのであった。
・・・
・・
・
洞窟の外には、丸で桜の如き淡い桃色の花弁を付ける木々が
山々の裾野から一面に広がるように生えていた。
僕はこの美しい光景を横目に、
何人かの冒険者たちと擦れ違いながら宿へと戻る道を進む。
時刻はすでに夕方である。
ここ、「死霊の洞窟」はゴーストやスケルトン、またはゾンビが
11階層から出現することから、その名が付いたとのこと。
死霊系モンスターのドロップアイテムが高値で取引されるらしく、
辺鄙なところでありながらもそれなりに冒険者がやってくる。
そしてそれに合わせて、出張の武具や道具、宿に雑貨屋なども
集まって来ており、小規模なキャラバンの如き様相を呈している。
僕が泊まっている宿屋も、そんな冒険者たちが落とすお金を
目当てにした、客室数だけは一丁前の施設だ。
ところで、その宿屋の親爺から聞いた話によると、
「ダンジョン」というのは、モンスターたちが巣食って
しまった建物や洞窟などを指すらしいのだが、
そうした場所はなぜか「特殊な性質」を帯びるのだという。
その一端というのが、「前室」であり、
また、他にも宝箱が現われたり、
数々の謎解きや罠といったギミックが出現するらしい。
そんな風に、これまで収集した情報をつらつらと思い返している間に、
宿屋の前へと辿りついた。
扉へと手を掛ける。
すると、建物のすぐ傍に設置された彫像が嫌でも目に入った。
それは真珠の首飾りをした精巧な女性の塑像で、
絹のローブを纏っている。
勿論これだけならば何ら変哲のない美しい彫像に過ぎないのだが、
台座の部分に目を向けるとどうしても違和感を覚えるのだ。
「予約には資格登録をするか、直接窓口で申請が必要です」
唐突に現れる事務的な文言に首を傾げざるを得ないのだが、
聞いたところ、この彫像は、宿屋が設置したものではないとのこと。
いや、それどころか、この宿屋が来る前から、
「ずっとある」のだという。
宿屋としては、むしろこの彫像を撤去しようと
躍起になった時期すらあったらしい。
だが、叩こうと、燃やそうと傷一つ付かず、
また地中をいかに深く掘り返そうとも、
像の支柱の末端までたどり着くことができなかったのだという。
そんなわけだから、宿屋としては苦々しく思いつつも、
この塑像との共存を渋々容認しているとのことであった。
「さて、なんの予約なのか。窓口とはどこにあるのか。
この首飾りをした女性は何者なのか」
僕はしっかりとした形にならない、
ぼんやりとしたイメージを頭の中で弄びながら、
宿屋の扉を開いて中に入るのであった。