ある男の慟哭
前話より3年後
二〇X六年、東北地方。
私立霽月学園。東北最大級のエスカレーター式巨大校。同じ敷地に初等部、中等部、高等部、
大学部が隣接しており、それぞれの位置から高等部施設中央の時計塔が見える。
地下二階・地上五階建ての塔が、整然と立っている。
高等部の塔はA塔からG塔まで。A塔は高等部本塔とされ、会議室や実習室、クラブルームなどが設備、
B塔普通科、C塔音楽科、D塔医療科、E塔農学科、F塔理工学科、G塔海洋学科から構成されている。
A塔地下二階、大会議室。常時は閑静なはずのこの場が今日は一段と騒がしい。張り紙が一枚。《定例職員会議》、
そう荒い字で書き殴られてある。
「ああ、憂鬱だ・・・・・・」
思わず口に出してしまった。焦り周りを確認する。しかし誰一人聞き咎めてはいないようだ。安心して手元に目を落とす。
紙面には張り紙と同じ字で書き殴られてある。《その他の事項確認後、解散宣言》。
――ああ、そうか。そうだった
蘇芳 龍、四十五歳。この霽月学園高等部の全学科を統率する高等部長である。
目前では、終息へ向かわない議論。憂鬱が襲う。陸はちゃんと朝食を摂ったろうか。食事を共にしないと、少食だからな、あいつは。
色々考えが廻る。
蘇芳には、この学園の高等部に通い二年目になる陸という息子が居る。妻は五年前に死んだ。それからは死に物狂いで生きてきた。
子供が自立できるまで、決して弱音を吐いたりしないと、妻の墓前に誓っていたのだ。
あれからもう五年か。まどろみつつ、意識が思索の旅へと向かって行く。子供は私が守ると決めたのに・・・・・・。この命に代えても、
失ってはならないと。
そういえば、妻の五回目の命日はもうすぐだ。陸と・・・・・・そうだ、ほたるも連れていこう。
ほたるとは家の近所に住んでいた親友の娘で、陸の幼馴染だ。そして本編の中心人物でもある。
妻も可愛がっていたし、いずれ陸と――。実際にどうなのかは知らないが、そうなるだろうという確信が蘇芳にはあった。
「理工学科工学B班では人工降雪機の制作に成功し、それの応用開発に着手します。また、学科生の立花が人工知能開発に
成功していたと報告があがりました。以上です」
周りが静かになった。どうやら話し合いは終わったらしい。思索の旅は終わりを告げた。
「今日の定例職員会議を終了します。解散!」
終わった・・・・・・。ああ、そうだ。担当している部活の早朝ミーティングがあった。まあ、今よりは数段ましだな。
そう思い、椅子の背に手をかけた。
「待ってください」
何だ? 既に持ち上げていた腰を元の場所へ落ち着ける。
声を出したのは、かつて初任者担当を務めたことのある、数学教師の北里 桜であった。
「何でしょう?」
蘇芳の左斜め前に座っていた、学園長だった。
「その・・・・・・」
北里は口を濁した。
ああ、早く外の爽やかな外気に触れたい。
「早くしてくれ。生徒が登校してくるぞ」
苛立ちから、口をついて言葉が零れた。
「はい・・・・・・昨晩、顧問をしている水泳部の合宿があり、遅くまで普通科職員室で仕事をして、
それから構内にある合宿所へ向かったのですが」
北里は私の顔色を窺うかのように、ちらりとこちらに視線を送る。
「続けて下さい」
学園長が続きを促した。
そういえば、この学園長。現理事長に気に入られて異例の出世をしたと聞いたことがある。
特に何に秀でているでもないその人は、どうやら次の学内選挙も狙っている。だが、良くは思わない人が多く、
蘇芳は次には違う学園長が来るとふんでいる。
「外灯が・・・・・・」
大会議室が静まりかえった。
〝外灯〟、この言葉を口にすることは三年前から禁忌とされている。それは北里も知っているはずだ。
外灯は、霽月学園創設当初、約一〇〇年前に、創設者である初代理事長が、霧の都ロンドンのそれに似せて作らせたものである。
これは、初等、中等、大学部にも設置されている、学園のシンボル。設置された理由は、初代の妻が英国の女性であった、また、
渡英したこともありロンドンをこよなく愛していた等と伝えられている。真実はわかっていないし、「言い伝え」と言っても、
良いものだけとは限らないのだが。
北里は蘇芳を見て怯え、思いを言葉に出来ないでいる。
――ああ、三年前の空気だ
蘇芳には覚えがあった。あの同情に似た、冷涼で重苦しい空気。
・・・・・・またか、そう思った。あれをまた味わうくらいならば、いっそのこと――
「・・・・・・青い光を放っていたとでも?」
自分で空気を断ち切る。そうするしか逃げる方法が無いと思ったのだ。
周りの教師陣が一斉に騒ぎ出す。隣の教師と顔を見合わせる者、怯え出す者、中には(主に新卒の奴等だが)興味津々だと
言わんばかりに身を乗り出す者もいた。
「・・・・・・その通りです」
北里は涙ぐむ。其のとたん一気に静かになった。
――ああ、似ている。
記憶の欠片が頭をもたげようとしていた。そう、妻が死ぬ時のことだ。今の北里のような顔をしていた。
「後をお願いね、今までありがとう。貴方の妻で幸せでした」、それが最後の言葉だった。妻は手術を受ければ治る病気だったが、
彼女はそれを拒んだ。あの時無理にでも手術させておけば、彼女は今でも私の横に居ただろうに・・・・・・。
蘇芳は記憶の旅に身を委ね、瞳は空を彷徨っていた。ある男が静寂を破るまで――。
「先生方、どうしたんですか。今時、青い外灯なんて珍しくも無いじゃないですか」
新卒の教師、佐伯 尚人。
この男も蘇芳が現在初任者研修を務めている。いい加減な男だが見所はあると思っている。しかし、本当に注意力が欠如している。
着任して二ヶ月めだというのに。
「佐伯、この学園に着任して大分経つだろう。学園の外灯は全てガス灯と説明したはずだ」
落胆の色を隠しきれない(むろん隠すつもりは毛頭ないが)。本当にこいつは・・・・・・、蘇芳は怒りを通り越したものを感じた。
何と言う感情かは当人にもわからない。
佐伯は憮然としてこう答えた。
「青いセロファン紙を張ればいいじゃないですか」
室内の張り詰めた空気が一瞬ではあったが消えた。泣いていた北里も目に涙を浮かべつつも佐伯を見やる。
彼は周囲の視線に気づき、「なに、なに」と聞きまわっている。初等教育を受けたなら当然知っているだろう一般知識なのになぁ・・・・・・、
蘇芳は溜息を吐き、佐伯に諭した。
「なあ、佐伯。学園のシンボルであるガス灯は温度が一〇〇〇度以上に達する。セロファンを貼ると熱で溶けてしまうんだ。
尚且つそれを外灯に張るのは相当骨が折れる作業だぞ」
なんせ、地上からかなりの高さであるのだから。
「ということは――」
佐伯が言葉を切る。周囲も先程の空気に戻った。
そう、九十九%有り得ない。残りの一%の確率で奇跡的に溶けないこともあるだろうが、大半は溶けるのではないか。
そんなことを考えながらペンの頭で鼻筋を掻いていた。幼い頃からの癖だ。妻にはいつも「変だよ」と言われていた。しかし其の
言葉を口に出す時の彼女は笑顔だった。春の木漏れ日のような笑顔、息子そっくりの、あの笑顔が蘇芳にとって全てだった。
「すいません。私がもう少し早くお伝えすべきことなのに。あの日の事を思い出すと、怖くて」
北里が発した言葉に我に返る。「あの日」、これもまた蘇芳に重く圧し掛かる言葉。「あの日」、それはこの場にいる者の内、
新任教師を除いて皆が共有する傷。
「貴方が気に負う必要はありません。三年前を知る職員全員も同じ気持ちでしょうから」
学園長は静かに苦笑う。視線は蘇芳から外さぬまま。
「あのお、新任教師を代表して質問しますが――」
「何ですか? 佐伯先生」
学園長が言葉に苦渋を滲ませ、顔を歪める。
「三年前に何があったんですか? さっきから先輩方の様子が違いますよね」
佐伯の言葉に、新任教師たちが同意を示すようにうなずいた。
「いいでしょう。貴方方もこの学園の一員となられたのですから――」
学園長と目が合った、・・・・・・気がする。その目は何かを諭すようだ。
「三年前、この学園の中等部の生徒が自殺しました。学園内の時計塔の屋上から」
時計塔も創立当時からあるもので、今も変わらず時を刻んでいる、学園のもう一つのシンボル。
ゴシック様式のこの塔は、最上部までのぼることができる。最上部には十字架が刻印された修道院風の鐘も設置されていて、
行事時には、荘厳な鐘の音が響き渡る。また内部は聖堂となっており、地域の祭事、冠婚葬祭によく利用される。
「中等部の生徒ですか、ここは高等部ですよ? 高等部の先生が狼狽するなんて・・・・・・」
本当にこいつは・・・・・・前にも説明したろうに。蘇芳はいっそ清々しいものを感じた。
「この学園のシステムを思い出して下さい」
学園長はやや困惑した表情をとる。
この学園は初等部から大学まであり、初等部から入れば、学力が基準値(基準は二つ上の学年相当以上であること)に達すると
年齢に関係なく進級でき、海外の上級校への留学システムもある。また、初等部、大学部とは別格で中等部と高等部にだけ適用さ
れているシステムも存在する。それが学園長の口にした、新任職員育成プログラムである。新任職員は三年間の研修を課せられ、
それは中等部で行われる。新入学生のクラスに担任として新任教師を副担任として担当指導員を配属するのである。これは異例だが、
学園創立当初からの決まりである。佐伯も新任だからこのシステムに該当するはずだが、今年は採用者が多く中等部では余ってしまう。
そこで、産休により欠員がでた高等部に佐伯を配属したのだった。
「あ、そうか。ということはその生徒の担任の先生がここにいるってことですね」
それ以前に会議は中等部と高等部は合同で行うと説明したろう。口に出すのも馬鹿らしく思い、蘇芳は黙した。
学園長は気を取り直して続ける。
「三年前、教職員の交流会の最中に生徒が駆け込んできました。『友達が自殺しそうだ』とね。そして、交流会に参加していた
教職員全員で外に出た瞬間――、彼女は飛び降りました」
「その事とガス灯の関係は?」
やはり佐伯から質問が出された。
「創立当時からの言い伝えで、『色が変わったガス灯の数だけ災いが降りかかる』と言うものが
あります。元は、創立者である初代理事長の奥様が亡くなった時に、それを偲ぶように外灯の色
が変化したという話からです。その生徒が飛び降りた時、一つのガス灯の色が青くなりました」
「そんなの、故障していたんですよ」
佐伯が一人ごちる。
「――業者の方に見てもらったら、何も異常は無かったそうです。言い伝え通りでした」
新人教師たちの顔から笑顔が消えた。信じられないという顔、信じかけている顔、様々だ。蘇芳は、これから味わわなければ
ならない苦痛が倍になったと感じた。
「私が学園長に就任した最初の年でした。溌溂として、才能豊かで人気もある、これからが嘱望された生徒でした」
「どうして自殺を?」
佐伯は静かに訊ねる。
「わからないんですよ。その子の友達である生徒に訊ねても、知らないと言うだけ――。三年経過した今でもまだ・・・・・・」
蘇芳は、当時の職員達の視線が自分に集まる気がした。慰みなんて、同情の言葉なんていらないのに。ただ時間が過ぎゆくのを願う。
「担任の先生に聞いたんですか?」
佐伯の言葉に、北里が反応した。
「わかりません。あの娘は、いつも誰かを気遣うような子で、笑顔で、悩みがあるなんて知らなかったですし――自殺するような、
そんな」
北里は、隣に座っている同僚の女性教師の肩で泣きだした。蘇芳は、三年前から北里が泣くのを見ていない。彼女は蘇芳の前では
気丈に振るまっていた。その心遣いを嬉しくもあり、すまなくも思っていた。その彼女が泣いている。彼女の中で三年前の記憶がい
かに重く圧し掛かっているのかがわかった。そして、蘇芳自身にも――。
遂に佐伯が口にした。
「その生徒のご両親なら知っているのでは?」
学園長以下、当時の職員全員が息を呑んだ・・・・・・。佐伯が禁忌に触れてしまったから。
「わからないんだ、どうしても――」
会議室内の視線が全て蘇芳へ向けられ、室内は水を打ったように静まり返った。
「蘇芳先生。わからないって・・・・・・え?」
顔中の穴が開いているのではないかと疑うほど、佐伯の顔は呆けきっていた。
あの空気が流れた。佐伯が口を開こうとするのを傍の教師が制止している。
「わからない・・・・・・」
もう一度口にした。一度は今までの事実を、二度目はこれからの現実を体現するために。
わからない、わかるわけが無いんだ。
私が、父親なのだから――。
はい,パパでしたっ。そして主人公がまだちゃんと登場していないという……。