鞍馬天狗草紙 ー名の音ー
「天翔丸だ。て・ん・しょう・ま・る」
「て・ん・ちょー・ま・りゅ!」
童女姿の琥珀が天翔丸の口の形を真似しながらその名を発音するが、まだ年端のいかない幼子なためか、どうしても舌足らずになってしまう。
「どぉ?」
「良くなったけど、まだちょっと違うなあ」
そう言うと、琥珀は何度も天翔丸天翔丸と言って懸命に練習しはじめた。
「おい、天」
酒を飲みながら投げつけるように言ってきた鞍馬寺の住職に、天翔丸は眉をひそめた。
「なんだよ、テンって?」
「天翔丸という名は長くて呼びにくい。だから省略して天でいいだろ」
「略すな! 俺の名前は天翔丸だ! ちゃんときっちり天翔丸って呼べよ」
「よう、莫迦天狗」
飛来してきた大きな鴉が割りこんできた。天翔丸はにやけた鴉の面をにらみつけて怒鳴った。
「黒金! いいかげん、その呼び方やめろよ!」
「『名は体をあらわす』って言うだろォ。おめえは莫迦な天狗だから莫迦天狗でぴったりじゃねえかァ」
「莫迦じゃないし天狗でもねえ!」
大鴉との言い合いが加熱しそうになると、胸元の鏡が仲裁に入った。
「まあまあ、ちいと落ち着くんじゃ、黒金に、て……て……なんじゃったかの?」
「天翔丸だっ! 人の名前を忘れるな、ボケ鏡!」
天翔丸というのは母からもらった名である。響きも良いと思うし、かっこいいし、天翔丸は気に入っている。だがどうも鞍馬山ではこの名がぞんざいに扱われているような気がしてならない。
まったく、と溜息をつきながら杯の酒を飲もうとしたとき、背後からの呼び声が耳にすべりこんできた。
「天翔丸」
天翔丸は杯を持った手を止めて、その呼び声について考えた。
最初の『て』から最後の『る』まで、きちんとした発音だった。いままでまったく気にも留めていなかったが、呼び方が話題となっているときに呼ばれて、この山で一番憎らしい男が、一番きちんと名を呼んでいることに気づいた。
「鞍馬寺へ来てはいけないと何度言ったらわかるのですか、天翔丸」
再度の呼びかけも、文句のつけようのない丁寧な発音だった。しかしいくら丁寧に呼ばれても、相手が復讐相手で、しかも注意のためとなると腹が立つものである。
「天翔丸、早く影立杉へ戻りなさい」
「うるさいな。天翔丸天翔丸って、気安く俺の名を呼ぶな!」
反抗に、陽炎は抑揚のない冷淡な声で応じた。
「呼びかけるとき名を言うのは礼儀です」
「おまえに天翔丸って連呼されると腹立つんだよ」
「では、鞍馬天狗と呼んでいいですか?」
「駄目に決まってんだろ! 俺は鞍馬天狗じゃねえ!」
「ならばなんと呼べばいいのですか?」
真面目に問われて天翔丸は考えてみたが、適切な呼び方が思いつかなかった。
「……天翔丸でいい」
陽炎は天翔丸の手から杯をとりあげ、膳に戻して言った。
「天翔丸、早く影立杉へ戻りなさい」
ここで逆らっても力づくで引っ張っていかれるのはわかっていたので、天翔丸は口をとがらせ、渋々ながら立ち上がって鞍馬寺を後にした。
闇漂う山道を歩きながら、天翔丸はふとかたわらを歩く男の名を声に出して言ってみた。
「陽炎」
今まで気にもとめていなかったが、『か』から『う』まできちんと発音してみてわかったことがあった。
(こいつ、名の音は悪くないな)
天翔丸は都にいた頃、楽師をめざしていたこともあって音には少々こだわりがある。そんな天翔丸の音感をもって評価すると、『陽炎』という名の響きはなかなか良いものであった。
陽炎は足をとめ、蒼い瞳に天翔丸の顔を映して言った。
「なんですか、天翔丸」
「なんでもねーよ」
「なんでもないときに名は呼ばないものでは?」
「呼んでない」
陽炎はわずかに眉をひそめた。
「では、なぜ私の名を? すぐそばにいる者の名を声に出して言っておいて、呼んでないとはどういうことなのですか?」
「だから、なんでもないって言ってるだろ。気にすんな」
「気になります」
陽炎は天翔丸に顔を寄せて追及した。
「どういうことか言ってください」
「おまえになんか言えるかよ!」
復讐相手は悪くなくてはならない。そうでなくては復讐はしづらい。たとえ名前のこととはいえ、音が良いなどと褒めたくないし、口が裂けても言いたくない。
そんな複雑な心境がわかるはずもなく、陽炎はさらにつめよった。
「なぜ言えないのですか? 広言できないような理由があるのですか?」
「そんなじゃねえ! そんなんじゃねえけど、おまえにはぜってー教えねえ!」
「天翔丸」
「しつこいっ!」
天翔丸は小走りで山道を駆けた。こいつがいいのは名の音だけだ、と思いながら。
(終)
【作者コメント】
旧ホームページの拍手のお礼画面に載せていたものです。音楽に通じてる天翔丸は、音の響きとか韻などに敏感ではなかろうか……というところからできた小話です。時系列では2巻あたり。
ちなみに私はまったく音楽に通じていませんが、登場人物の名付けはアニメ、小説に関わらず、耳障りの良さや覚えやすさを重視しています。もちろん名前にこめる思いや意味付けもありますが、作品では何よりもキャラの名前を覚えてもらうことがもっとも重要ですから。と言いながら、1巻で天翔丸が琥珀の名付けをしたように、直感と勢いでつける場合も多々ありますが。
鞍天の創造当初、陽炎の名は早く決まりましたが、天翔丸の名付けは苦労した記憶があります。親バカみたいな作者バカですが、二人の名前、気に入っています。