水切りの恋文
彼には、幾つかの日課があった。
たとえば、誰も起きていない早朝に、川原を歩くこと。その川原で平たい石を探すこと。拾って針金で傷をつけ文字列を刻むこと。そしてそれを横手投げで川に放ること。
石の恋文である。
鋭い風切り音の後、勢い良く投げられた円盤は、水上を這うように飛行し、ゆるゆると流れる水の上を跳ね、跳ね、幾度となく跳ね、そのたび波紋を生みながら、やがて見えなくなった。
かすんで見えない向こう岸に思いを馳せながら、日課の一つを終えて背を向けた。
★
ジェシカには、一つの日課があった。
河原で飛んできた文字付きの円盤にナイフで返事を刻んで、向こう岸へ投げることである。
恋文への返信である。
会ったのは一度だけ、顔を見たのもほんの数回。声などきいたこともない。それでも文字を刻んだのは、彼だとわかった。彼の名はレナードというらしい。石にその名が刻まれていた。
あるいは、「川をはさんでいがみ合う二つの村」という構図が、彼女を燃え上がらせていたのかもしれない。
かくして、誰にも打ち明けられない恋は大きく強くなっていったのだ。
いつも同じ場所で恋の石を拾う。
返信しようと握った石に、何とか届けと願いを込める。
霧で、かすんで見えない向こう岸に投げてみる。
はじめは元気に弾む恋の石であるが、だんだんと失速し、ついに控えめな飛沫を残して水底へ消えた。いつも通り。非力な細い腕では、届かない。
レナードの熱烈な想いに対して、いつまでも返事ができないのでは、じきに諦められてしまうのではないか。名前さえ伝えられないのでは、じきに忘れられてしまうのではないか。
彼の言葉は積もりに積もって広がって心を満たしてくれているのに、彼に何一つ返すことができないのがとても苦しい。
そんな風に思って、一度で脳裏に焼きついたレナードの姿を思い浮かべる。
背の高い、大きな体。すっと伸びた背筋。向こう岸の村からやって来た親善使節団の中に彼が居た。鋭い視線も、力強い顎も、笑った時の顔も、自分を見た時のハッとした顔も、強く強く焼きついていた。
思い浮かべるたびに、恋はふくらんでいった。
★
ある朝、レナードは日課に失敗した。
手ごろな石を投げ尽くしてしまったというわけではない。レナードが病に臥したとか、再三にわたる投石によって余りに酷い肩痛に見舞われたとか、そういったことでもない。
水の流れが激変したのである。
元々、水利を争って二つの村は対立していた。そこにもってきて、女の居る村が、ほんの僅か、滔々と流れる流れに与える影響は微々たるものではあったが、勝手に水路をつくり、我田引水した。いよいよ抜き差しならない状況へと推移したのである。
川の流れも僅かばかり急になったが、レナードの心中はそれとは比較にならないほど穏やかではなかった。荒々しく波立った。
いつもは向こう岸まで勢い良く跳ねていくのに、そうはならない。
かつては、いくつもの水音の後に、石が川原に到達する音色に耳を澄ませていたものだが、もうこの時には、向こう岸に届きやしない。それどころか、霧の中に入るまでもなく視界のうちで失速し、容易く呑み込まれていった。控えめに上がった飛沫もすぐに何事もなかったかのように消え去る。それは、長年の記憶に刻まれた音色とは全く違っていた。
彼の耳が欲しかったのは、流れに負けず水の上を跳ねていく音だ。
何日も何日も繰り返してきたことだけに、僅かな環境の変化に対応できないのか、あるいはそれまで向こう岸に届いていたのが奇跡の連続だったのであろうか。
とにかく、もう、彼の投げた円盤は、向こう岸に届くことは無いのだ。
『危険だ、逃げろ』
そう刻まれた石を投げた。レナードの村で、攻め込む計画が提案された次の朝のことだった。しかし、届かなかった。
もう愛を告げる石も、危険を告げる石も届かない。ただ水底に重なっていき、いずれは読めなくなるのだろう。
★
ジェシカは、急に恋石が途絶えたことが気がかりで、岸向こうの集落の様子を知りたがった。
長の娘であった彼女は人を使って彼のことを調べようとした。あわよくばレナードへの手紙を届けてもらおうとしたのである。
しかし、その過程で知ってしまった。
「向こう岸の連中が、侵攻の準備をしています。お嬢様の手紙を届けるどころではありません」
ただちに会議が開かれ、翌朝、先手をとってジェシカの村の方から奇襲をかけることが決定した。攻め込まれる前に攻め滅ぼすという決定に、ジェシカは抗うことができなかった。
★
レナードは決意した。
このままでは彼女の身が本当に危険だ。
急流を見つめる。唾を飲み込む。
大きく息を吸って、飛び込む。
流れが急になった水をかきわけて、隣村へと行こうと考えたのだ。
そもそも、恋文を相手が読んでいたのかどうかも、彼にはわからないことだ。
ただ、想いが伝わるとか伝わらないとか、そんなことはもうどうでも良かった。
――彼女に会いたい。
――彼女を連れて、どこかへ。
ただ一度しか見たことの無い彼女。話したこともない彼女。その眩しくなるような笑顔を曇らせたくはない。
不意に、頭部に、衝撃。
あっという間に遠のく意識。
力の抜けた全身。
下流へ流されていった。
★
ジェシカは、大きく息を吐いた。
届かないことはわかっている。それでも、彼に、レナードに届けたい。
危険を伝えたい。愛も伝えたい。
欲張りな願いだとは思いながら、どうか彼に届いて欲しいと祈りを込めた。
文字が刻まれた石の円盤は、ずっしりと重たい。非力なジェシカは、いつも石を重たく感じていたが、普段よりもはるかに重たく感じられた。
それまで以上に全力で、石を投げようと思った。
伸びきった細腕の先で石を持つ。へっぴり腰で、水辺へ向かう。ゆらゆらと平たい石を数回揺らした後、遠心力も利用して、投げた。
「あぁああ!」
甲高い声と共に、円盤は舞い上がる。
水切りをしようというのではない。そのまま着水せずに向こう岸まで届いて欲しかった。
けれど。
無情にも、すぐに落ちてきてしまった。
放物線の終点には、水面があった。
飛沫が上がった。
ジェシカはすぐさましゃがみこみ、両手で目を覆って泣いてしまったから、この時の円盤で頭部に傷を負ったレナードの大きな身体が流れ去っていく光景を見ることができなかった。
そう、彼女の投げた円盤が、彼を――。
★
争いの末、ジェシカの村が勝った。レナードの生まれた村は敗滅した。
ジェシカは、彼に生きていて欲しいと願った。凄惨な戦場跡を捜させたが、見つからなかった。自ら捜しもしたが、やはり見つからなかった。
諦めかけていた一年後のこと、ジェシカは、ある噂を耳にした。
「毎朝、海に石を投げつけている男が居る」
はるか遠く、下流の三角州にある都市に居るとのことであった。
レナードだと確信した。
どうしてそんな場所に居るのか。
理由など、どうでも良かった。
ただ生きていてくれた。それでよかった。
ジェシカは長い旅をして、レナードに会いに行った。
変わってしまっていた姿の彼。やせこけていて、額には傷を縫った跡。しかし、すぐにレナードだとわかった。
ちょうど彼は、石の円盤に針金で文字を刻み込んでいた。
記憶を失っていたレナード。しかし、ジェシカが来たことに気付くと、すぐに立ち上がった。
思い出したのか、それとも記憶など無い中で再び彼女に恋をしたのか。
どちらからともなく、笑いかけた。
その日から、彼は、石を投げることをやめた。
★
朝の川原に二人の姿。新たに日常となった風景があった。
ジェシカには、幾つかの日課があった。
そのうちの一つが、石の板に愛の図形や文字を刻んで、彼に渡すこと。
レナードには一つの日課があった。
愛の言葉の裏側にナイフで返事を刻んで手渡すこと。
毎日、毎日、繰り返した。
積もってゆく。二人の名前が刻まれた石。愛が刻まれたいくつもの石。
そうして平たい石を組み上げて、やがて二人の家になった。
【おわり】