偉大なる王の従者
……陛下!!
彼女は不自由な咽喉から声にならない叫びを上げた。
信じられなかった。一年の大半を戦場と王宮での戦に費やし、大陸の半分に平和をもたらした偉大な王が、たった一本の矢の前に倒れるなんて。
彼女の不器用な手は思い通りに動かず、口を使ってやっと王の体を背中に上げた。
敵の兵士たちが王の首を奪おうと、彼女を目掛けて馬に鞭を入れるのが見えた。彼女は王を背に乗せて一目散に駆け出した。とにかく清浄な場所に行きたいと強く思った。彼女の王にはそういう場所の方が、血生臭い戦場より似合うのだ。
敵はうまく振り切れたらしい。いつしか、彼女は味方の陣地深くの、2、3日前まで水飲み場として使っていた泉までたどり着いていた。
戦場の張り詰めた空気はそこにはなかった。彼女が望んだ、静寂に満ちた場所がそこにあった。彼女は安心して王の体を泉のほとりに横たえた。王の体は暖かかった。しかし、その暖かさがもうじき失われるのは変えられない運命だった。
彼女は王の傍らに膝を追って坐し、ただじっと王の顔に視線をそそいでいた。その寝顔は、完全無欠の策略王として近隣諸国から恐れられた男だとは想像もできないほど、穏やかだった。
ふと、遠くで名も知れない鳥が鳴く。それをきっかけにしたかのように王がゆっくりと目を開けた。王の紫の瞳が傍らの彼女の姿を認めると、その目元と口元は安堵に緩んだ。王はゆっくりと腕を伸ばし、彼女の顔に、首に、背に優しくふれた。
「とうとう、この時が来たな」
王の声は弱々しく、諦めの響きを伴っていた。そんな声を聞いていると彼女の瞳には知れず涙がにじんでくるのであった。
「考えてみえれば、おまえほど俺を看取るのに相応しい者はいないな。……十五で初陣に出てから今日まで、戦場に在る俺の最も近くに片時も離れずにいたのが、おまえなのだから」
そう、彼女はこの王だけに仕えてきた。王のいない時間など、彼女には考えられない。今、目の前で生き絶えようとしている男だけが彼女の主なのだ。
「おまえのように優れた者ならすぐに別の主が得られるだろう。これまでのおまえの忠誠にただ、感謝の念を捧げたい」
喋れない彼女は、ただ声を上げて泣くしかなかった。敬愛する王がこれほどまで彼女を気遣う言葉をかけてくれても、彼女は、王に想いを伝える言葉は話せないのだ。この瞬間ほど彼女が人になりたいと思った時はなかった。
彼女は人ではない。風を友とし、草原を駆け抜ける優しく賢い四足の獣――馬なのだ。
彼女は自分の生まれを呪う。
<どうして自分は人ではなく、馬に生まれついたのだろう>
しかし、一方で彼女は自分の生まれが誇れるものであることに気づいている。
<馬だからこそ、この素晴らしい人と最上の時を過ごすことができたのだ。人の女ではこうはゆくまい>
王は、そんな彼女の心の動きすべてを、死に瀕した者がその一瞬、天から与えられる鋭さで察したようだった。王のてのひらは彼女の首筋を幾度も優しくなでた。
「本当は、俺は穏やかな時間を過ごしたかったのだ。おまえと共に、何処までも遠くへ行きたかった。いつかそんな生活をすることにあこがれて、戦を繰り返したのだ。……志半ばで倒れるというのは、なかなか辛いものだな」
彼女は鼻面を王の頬に押し付けた。
<いいえ。あなたは与えられた時間の中で精一杯生きました。あなたは立派です>
想いは王の心に届いていた。王の魂は最期に救われたのだ。
「新たな主を求めて走れ」
王はそう言うと目を閉じた。彼の手の動きは、いつの間にか停まってしまっていた。
彼女は随分と長い間、王の亡骸から離れなかった。
それから何年か後、彼女は主を連れてあの泉に向かう機会を得た。
彼女に跨るのは懐かしい紫の瞳に白金の髪の乙女だった。
「ここが、おまえが私を連れて来たかった場所……我が父が最期の時を迎えた場所だな」
偉大なる王の娘、姫は言葉を話せない彼女の意を良く解した。
感慨深げに姫は泉の周りを散策した。もしかすると、父の痕跡が何か残っているかもしれない。そんな在り得ない期待も少しはあったのかもしれない。
ふと気が付くと、姫の視界にうずくまった愛馬の姿が入る。姫はあわてて駆け寄ると彼女の首に触れ、はっとした。
「最期を迎える場所を選んだのか」
馬の寿命は人間に比べて短い。忘れていたわけではないが、こんなにも唐突にその時が訪れるものとは考えもしなかった。
「私は、おまえが父との間に持ったような絆を、私とおまえの間にも築きたかったのだ。あこがれていたのだ。だが、とうとう叶わなかったな」
姫は彼女の首を抱く。それが、姫が今の彼女にしてやれる唯一のことだったからだ。
終