夜の道路と君の声
〈chapter1・春香〉
その日私は冒険の旅に出ようとしていた。
と、言っても別に王族の血をひく伝説の勇者なんかじゃない。
その日の二週間前、運転免許を取得した。
運動神経のニブい私は、普通の人よりも時間もお金も余分に使って、ようやく手にした免許証だった。
それまでは、移動は電車か他人の車。
ずっと不便はなかったけれど、保と付き合うようになって気持ちが変わった。
保と書いて「たもつ」と読ませる私の恋人は、名前の通り気持ちを保つのが上手くて、あまり不機嫌な姿を見た事がない。
実家暮らしの私の家と一人暮らしの保の家は、少しだけ遠い。電車で二時間強。車だと夜なら一時間位だが、都内を東から西へほぼ横断する事になるので、渋滞している時は二時間で着かない。
でも二人とも保の家で過ごすのが好きなので、私が保の家を訪れる回数は比較的多い。
行きは私が電車で行くか、保が車で迎えに来てくれる事もある。
帰りはほぼ毎回、送ってくれる。
「一人で運転してる時もそんなに苦じゃないから大丈夫だよ」
保は笑顔でそういうが、疲れて眠そうな時などに往復させるのはとても申し訳ないし、何より私を降ろした後で彼が家に着くまでが心配だ。
往復電車でも構わないのだが、駅から私の実家までが遠いので、帰りが遅くなると今度は彼の方が心配らしい。そこで私は決心したのだ。免許を取ろうと。
有り難い事に、職場の上司も同僚も協力的で、残業を減らしてくれたりした。
教習所では10代の若者に混ざって講習を受けて、「怒鳴り教官」にも「セクハラ教官」にも耐え、何度も縁石に乗り上げ、半年かかって、ようやく免許証を手にしたというわけだ。
車は、程度はいいけどスタイリッシュという言葉とは縁遠い中古車。
世間はバブルで浮き足立っていて、若者は外車や国産スポーツカーや4WDの車に競って乗り、それがステータス……。そんな時代の中で私の愛車は無骨でおよそ若い女の子が乗るような車ではなかった。
でも私にはそんな事はどうでもよかった。1日も早く保の家まで車で行けるようになりたい、それだけだった。
その車は、父の友人が私に譲ってくれた。
小さな会社を営んでいるその人は、会社で使っていた営業車をまとめて何台か買い替えるので一台譲ってあげようか?と声をかけてくれたのだ。幼い頃から私を娘のように可愛がってくれていたその人は、比較的走行距離も少なく、今までトラブルもなく、綺麗好きな営業マンが乗っていた車を選んでくれた。
かくして職場の人達の温かい見守りと、父の友人の有り難いプレゼントのお陰でようやく準備が整った。
そしてその日、初めて保の家まで車で向かう事にしたのだった。保には内緒で。
今まで何度も助手席に乗って通った道。きっと、大丈夫!と自分を励ました。
いつも通り電話をかけて、「今から行くね」と保に告げる。
どうやって行くかは言わない。
さあ!出発よ!
〈chapter2・保〉
驚いた、もの凄く驚いた。
玄関を開けると、春香が強張った顔で立っていて俺の顔を見るなり笑って泣き出した。
「どうしたの?」
彼女を軽く抱きしめて、背中をポンポンしながら尋ねる。
「あのね……、わかんなくて……、車、駐車場、どこがいい?」
「?」
まるで何を言っているかわからない。
「春香、落ち着いて説明してくれる?とりあえずこれ飲んで。」両手を胸の前で握り締めたままの春香を家に上がらせ、ソファーに座らせ、水を一杯差し出して、言った。
春香は、握り締めた両手を俺に差し出した。その手の上に皮の洒落たキーホルダーのついた鍵が載せてある。俺がその鍵を受け取ると、水を一口飲んだ。よく見ると鍵には自動車メーカーのマークがついている。
「!!」
俺は悟った。
「春香、車で来たの!?」
春香は涙目で微笑みながらうなずく。
「免許取ったの!?」
いや、そんな馬鹿な。
春香は、信号のない道をタイミングを計って横断する事すら、もの凄く時間がかかるような子だ。
まして、最近は仕事が忙しく残業が多くて……、
ああ、そういう事だったのか。決算期でもないのに残業が増え始めて、それがもう随分と続いていたっけ。日常的になっていて気に留めなくなっていたけど、教習所に通っていたんだ。思い起こせば相当前からだから、どれだけ規定時間をオーバーしたんだろう?
俺が状況を頭の中で整理している内に、春香もようやく落ち着きを取り戻してきたようだ。
再び鍵に目をやりハッと気付く。
「春香、あの、車はどうしたの?」
「うん、お父さんの友達が譲ってくれて……」
「そうじゃなくて、どこに置いたの!?」
春香もアッという顔をして「駐車場が見つからなくてどうしていいかわからなくて……」と、また蒼い顔をして言った。
俺のマンションは比較的交通量の多い幹線道路沿いに立っている。
周りにコインパーキングがあまり無い上に、道を曲がってしまうとクネクネした一方通行の道が多いのだ。きっと春香はそのクネクネ地獄にハマってパニックになってしまったんだろう。
……と、そんな事は言っていられない。玄関を出て通路から下を見下ろすと、マンションの前に少し斜めに駐車している白い車が見える。かなり他の車の通行の妨げになり、クラクションを鳴らす車も居て、渋滞がおこりかけている。
俺は慌てて階段を駆け降りた。春香も鍵を持って後に続く。
春香から鍵を受け取り、後ろの車に頭を下げながら運転席に乗り込む。春香も助手席に乗った。
ウィンカーを出し車を発進させ、少し奥まった所にある、地元の人しかしらないようなコインパーキングに駐車した。
漸く一息ついた。
パーキングからマンションまで歩きながら
「ごめんなさい……。」
と春香が俯いて言った。
俺にはわかっていた。
いつも車で家まで送ってもらう度に、春香が俺を気遣って申し訳なく思っていた事を。
自分がどんなに疲れていても、助手席で居眠りをする事もなく、あくびをしただけで謝っていた。
春香を降ろして、俺が家に帰り着いて「無事に帰ったよ」と電話するまで必ず起きて待っている。
俺としては、車の運転が好きだし、少しでも長く一緒に居たいと思っていたから送り迎えは全く苦じゃなかった。
春香を送り届けて1人になった後も、夜の空いた都内の道を好きな音楽をかけて、その日の事を思い返したり次のデートを想像したりしながら帰るのは楽しかった。
「いつ免許とったの?」
「二週間前。驚かせたくて内緒にしてたの。」
「驚いたよ、ここ何年かで一番驚いた。」
「ごめんね。駐車場の事まで考えてなくて。本当はもっと格好よく御披露目しようと思ってたのに、結局迷惑かけちゃったね。」俺は苦笑した。
この程度の迷惑ならなんて事ないが、そもそも春香が車を運転する事自体が心配でたまらない。
春香に足りない所は自分に自信を持つ事だと、俺は常日頃思っていた。
何か成し遂げた時もいつも誰かのお陰だと言い、自分が努力した証だと胸を張る事もない。
その奥ゆかしさが美点でもあるのだが、春香は自身が思っている以上に「やれば出来る子」なのだ。
それなのに自分の考えに自信が持てず、俺に相談して漸く一歩前に踏み出せるのだ。
そんな春香が、今日に至るまで俺に相談もせずに、様々な関門をクリアしてきた事は賞賛に値すると思う。
「よく頑張って免許取ったね。大変だっただろう?」俺がそう言うと、春香は漸く安堵の表情を見せた。
「エヘヘ、お金も時間も人の倍くらいかかっちゃった。会社の人に協力して貰えなかったら、無理だったと思う。」
やっぱりそんな事を言っている。
「春香が諦めずに通ってたから協力してくれてたんだよ。努力した証だよ。自信持て。」
俺がそう言うと照れ臭そうに笑った。
マンションに戻ると、その日ここに来るまでの様々なトラブルを春香は興奮した様子で報告した。
右折が出来なくて信号が変わってしまい後ろのタクシーに怒鳴られた事。
前方の渋滞に気付かず前の車に着いて行って交差点の真ん中で信号が変わり、四方八方からクラクションの嵐をあびて歩行者にも注目された事。俺がいつも使っている、道幅の狭いすれ違いが難しい抜け道をそのまま通ろうとして、危うく車をぶつけそうになった事。
聞けば聞くほど、ここまで無事に辿り着いたことを神様仏様そして世間様に感謝したくなった。
その数々のトラブルの時に隣に自分が居なかった事が悔しくてならない。
さっき玄関を開けた時のただ事ではない様子と、小刻みに震えた、薄く、頼りない、儚げな肩の感触を思い出した。
そもそも免許を取得したばかりの初心者が、たった1人で都心を横断してくるなんて無謀にも程がある。
叱ろうと思ったが、達成感に満ち溢れた顔で、難しいクエストの数々を語る春香に否定的な事は言えなかった。きっと彼女の経験値は著しく上がっただろう。
しかし事故やトラブルに合い怪我でもされたら、俺を気に入ってくれている親御さんにも申し訳ないので、俺が隣に乗って練習して経験値が上がるまで、一人旅はお預けという事にした。
春香は少し残念そうだが、毎回これでは俺の心臓がもたない。
こんな無謀な事をする春香が今まで以上に愛おしかった。
今日はいつもより少し豪華な食事でお祝いしてあげよう。
ところで、帰りはどうするか……?
〈chapter3・春香〉
「とっても美味しかったです。ごちそうさまでした。」
お店の人にお礼を言った。今日のディナーは凄く美味しかった。
電車で保の家まで来る時に、いつも素敵なお店だなあと思っていて、でもなんとなく敷居が高くて今まで行った事がなかった少し有名なレストランに、保が連れて行ってくれた。
人気店なのに、今日は偶々キャンセルがあって予約が取れたのだ。キャンセルしてくれた人に感謝!
何も言わなかったけど、これは保からのご褒美、もしくは労いの気持ちなのだろう。
車だからお酒は飲めないけど上機嫌だった。
「保は車じゃないんだからワイン飲んでいいよ。」
私がそう言うと、
「今日はいいや。またにするよ。」と断った。お酒好きな保が車でもないのに飲まないなんて……。
私に気を遣っているのかな申し訳ないな、と思っていると、
「別に気を遣ってるわけじゃないから。今日は食事を楽しみたいの」
と見透かしたように微笑んだ。
保はこの人超能力者?と思う位に、私が考えているとサラッと答えを出す事がある。本当に不思議な人だ。
美味しい食事を堪能し、保の優しさを感じ、とても満ち足りた気分になった。でも、あの道のりを運転して帰る事を考えると不安な気持ちになってきた。
「俺も今日、実家帰る事にした」
店からの帰り道、保がそう言った。
保の実家は、私の実家よりも少し遠い。
「俺、明日も休みだし、最近顔見せてないから」突然そう言い出す保を私は驚いた顔で見上げた。
今までこんな事はほとんどなかった。保は親と仲が悪いとかそういう訳ではないけれど、帰ろうと思えばいつでも帰れる距離のせいか、盆暮れ正月以外、呼ばれない限りはあまり実家に顔を出していなかった。
私は保のお母さんとは仲良くしてもらってるので、偶に「忙しいって言って話にならないから」と保への伝言を私が預かる程だ。
「そうだね、偶には顔見せてあげないと。」
私がそう言うと
「だから、車二台で帰ろう。春香の家まで俺の後ろに着いてくればいいよ」
ああ、そういう事か。
保はずっとどうやって私を無事に家まで帰そうか考えていたんだ。
心配性の保が、そう思う事位よく考えればわかる事だった。私が気にしないようにわざわざ、実家に帰るついでを装ってくれたんだ。
正直、私は落ち込んだ。
免許を取得して、自分で車を運転して保の家に行けるようになれば保の負担も減るし、電車の時間を気にせずいつでも気軽に逢いにいけると、勝手に舞い上がっていた。
でも、保は負担が減っても心配しないわけがない。
勝手に来て、勝手に帰れなんて思える人ではないじゃない!
結果的に今まで以上に迷惑をかけてしまう事になり、自分の思慮不足に呆れた。
「なんかツーリングみたいで、ワクワクするな。」落ち込む私に気付いてか気付かずかはわからないが、保は楽しそうに言った。
少なくとも嫌ではなさそうだ。もちろん私も嫌な訳はなく、申し訳なさはあるけれど純粋に嬉しいし心強い。
行きは勢いでなんとか辿り着いたけど、またたくさんクラクションを鳴らされてしまうかもと思うと帰り道は少し恐怖だった。
「うん、なんか楽しみ。それに保がそばにいれば私も安心。ありがとう。」
素直にそう言った。保は私の頭をくしゃっとして
「心配無用」
と言った。
マンションに帰ると、保はクローゼットから何か引っ張り出してきた。
FM無線だった。
保は冬になると、友達とよくスノボに出掛ける。何台かの車で行く時に使っているものだ。
まだ携帯電話など持っている人は少なく、大きいし高いし私達が持てる程一般的ではない。途中で何かあった時の為にと無線を思いついたのだろう、
でも、
「ごめん、保……、私の車AMラジオしか聞けないみたい」
「マジで!?」
私の愛車は元が営業車だから、最低限のモノしか付いていなかった。
保は少し考えて、
「よし、俺の声は春香に聞こえなくても春香の声は俺に聞こえるんだから、春香は困ったら俺に話しかければいい。俺はウインカーやハザードやブレーキランプで返事をする。何かあったら車を止めるから、そしたら春香も後ろに止まれよ」
とナイスアイディアという顔をして言った。
私も何か楽しそうでワクワクしてきた。
そして保は
「あの車さ、お洒落じゃないけど、春香っぽくていいな。」とニヤニヤしながら言った。
「春香っぽくて、ってどういう意味よ!」
と怒るふりをしたけど、保が楽しそうなので私も笑った。
〈chapter4・保〉
それにしても、後ろを意識しながら運転するのは、思っていた以上に気を遣う。
運転慣れしている人間ならともかく、後ろに居るのは春香だ。
予想以上に危なっかしい運転だった。
あのまま1人で帰さなくて本当によかったと心から思う。
時間はもう深夜に近くて、都内とはいえ車は多くはなかった。流れている道で必要以上にゆっくり走ると逆に危ないので、少しだけスピードを上げる。しかしついてこれない春香との間にすかさず他の車が入ってしまう。ラジオから
「だ、大丈夫、大丈夫だよ、まだずっと真っ直ぐだよね?このまま行くから。」とおよそ大丈夫とは思えない焦った声が聞こえる。
俺がスピードを落とすと間に入った車は車線を変えて俺を抜いて行った。
「ふー、よかったあ。やっぱり見えないと不安だね」
安堵の声が聞こえる。
都心の最も混み合う辺りを抜け、更に車は少なくなった。
春香も少し余裕が出てきたようで、
「ねえ、あそこの看板変だよね。」とか
「あ、あの店、無くなっちゃったのかな?」
とか運転に関係ない事も話しかけてきた。
その度に俺はブレーキランプを軽く点灯させたり、左右のウインカーを動かしたりして返事をしていた。そんなにキョロキョロしていて、運転は大丈夫なのか?と気が気ではないが、いつもよりもっと近くに春香がいるような感じがして、嬉しかった。
「私さあ、保がしてくれるみたいに、何か保の為になる事をしてあげたかったんだよね。でも、結局いつも最後には保に迷惑ばっかりかけてる。本当にいつもごめんね。」
突然、今までの下らない話しのトーンとは違う春香の声が聞こえてきた。
……俺は答えなかった。
春香は構わず続ける。
「保はお日様みたいで、つい居るのが当たり前に思えちゃって、甘えてばかりになってるから、私、もっと頑張ろうと思ってるの」
……いいよ、別に無理しなくて。だって俺は迷惑なんて思った事はないし、不器用で一生懸命で、お店の人にちゃんと「ごちそうさまでした」って言えて、考えてる事がすぐに表情に出る、今の素直な春香が可愛くて愛おしくて大好きなんだから。
そんな春香だから、本当は短気な俺が腹を立てずに居られるんだから。
「だから、もう少しだけ待っててね。私もっと大人になるから。私が送り迎えしてあげるから。なーんてね。」
目の前が滲んできた。たまらなく春香を抱きしめたくなった。そういえば今日は慌ただしくて、抱き合う事すらしていない。
気持ちが収まらなかったので、ハザードランプをつけて車道の端に車を寄せた。「どうしたの?停まるの?何かあった?トイレ?」
春香の困惑する声を聞きながら、ドアを開けて車から降りた。幸い対向車も、後続車も途切れていた。
春香の車の運転席の窓をノックする。真顔の俺の顔を見て慌てて窓を開けた春香が
「どうしたの?なにかあっ……」
春香が何か言おうとしていたが我慢出来なくて、言葉が終わる前に窓から顔を入れてキスをした。
驚いた目で俺を見つめる春香に、
「ちょっとも待ってられないから、結婚しよう。そうすれば同じ家に2人で帰れるから」
そう言って、走って自分の車に戻った。
運転席に座るとラジオから
「えーっと、あの、私でいいなら喜んで」という春香の声が聞こえてきた。
バーカ、おまえ「が」いいんだよ。と心で返事をして後ろを振り返ると両手で大きな丸を作った。それを見た春香も同じように丸を作った。
……しまった、あいつこの後の運転大丈夫かな?一抹の不安が頭をよぎった。
「大丈夫、家に着くまでが遠足だから。それまでは運転に集中する!」
春香の声がラジオから聞こえた。
おー、頼もしい。
ブレーキランプを三回踏んだ。
正直、今まで結婚なんてちゃんと考えた事はなかった。もちろん漠然と将来的にはそうなるかもなあと、その相手は春香だろうなあとは思っていたけど、プロポーズしようなんて思った事もなかった。
本当に思いつき、というかその場の勢いでしかなかった。
それをサラッとOKした春香は、俺が思っているより度胸があるのかもしれない。
実家に帰るのは春香を送る為の口実だったけど、ちゃんとした理由が出来た。
……あれから20年、今もたまにあの場所を通ると照れ臭いような、甘酸っぱい気持ちが蘇る。
隣には、相変わらず春香が居る。
しっかり者の奥さんだけど、運転はまだ上達していない。