7
夜もすっかり更け、頭上には見事な満月が輝いている。
楊邸の庭に小さな影が二つあった。
一つはまだ幼さを残す顔立ちの少女・瑩清、もう一つは同じ年頃の少年・応麟。
周りには誰もおらずただ虫の音がかすかに聞こえるだけ。
「応麟ひどいわ。」
「ごめんって言ってるじゃないか。仕方がないだろう?麗華が熱を出したんだから。」
「だからって応麟がずっとあの子に付いてあげなくてもいいじゃない。」
「瑩清、麗華は君の妹なんだよ?心配じゃないの?」
「お医者様は大丈夫とおっしゃっていたし、侍女がちゃんと看てくれたはずよ。」
応麟は大きく息を吐いた。
それに瑩清は敏感に反応し唇を噛み締める。
今日は応麟が瑩清を今都で評判の劇へ連れて行くことになっていた。
自身も歌が好きなためそういう芸能に興味がある瑩清はとても楽しみにしていたのだ。
おまけにいつも一緒である妹の麗華はそれには全く興味がないようで、2人だけ(正確には2人きりではないが)で出かけることが出来ると数日前から待ちわびていた。
しかし朝から麗華の調子が良くなく、しまいには熱が出てしまい寝込んでしまった。
昔から麗華に過保護に接していた応麟は彼女の枕元から離れようとしない。
ゆえに瑩清との約束はなかったことにされた。
「いつも応麟は麗華ばかり。私のことは大事ではないの?」
「そんなこと言ってないだろう?」
「口では言ってないけれど態度で示しているわ!」
「麗華は体が弱いし、かまってしまいがちになるのは仕方がないよ。君はお姉さんなんだからもっと聞き分けないと。」
「・・・応麟も皆と同じことを言うのね・・・。」
震えるような声で言った瑩清をさすがに哀れに思ったのか、応麟は瑩清の肩を手で慰める。
「皆、瑩清が思いやりがありしっかりしている子だとわかっているからだよ。ね?」
「・・・なによそれ。」
「玉光様がお亡くなりになってから瑩清は率先して麗華の面倒を看ているじゃないか。頼りにしているんだ。」
「周りがそう仕向けているんじゃない!せざるを得なくしているんじゃない!!」
「瑩清?」
大きな声で抗議する瑩清に応麟は驚き、思わず肩から手を離してしまった。
目を見開き瑩清を見ると、彼女は顔を真っ赤に染めて肩を震わせている。
「はっきり言ってうんざりよ!いつでも麗華、麗華、麗華・・・皆がそう言うわ!なに、私はやりたいことをしてはいけないの!?あの子ばかりを優先しなければいけないの!?たまに私が希望を言っても後回しにされる・・・貴女は姉なのだからと言って。いつまで我慢すればいいの?ねぇ、応麟?」
「・・・瑩清・・・。」
「ふん。何も言えないわよね?結局、応麟もあの子が一番大事なんですもの。・・・あの子ばかりを庇って・・・。」
「・・・麗華は弱いんだ。それに比べて瑩清は強いだろ?僕が別についていなくても―――」
ぱんっと高い音が響いた。
応麟は一瞬何をされたのかわからなかった。
左頬に熱が帯び、次第にじわじわと痛みがやってくると同時に怒りもこみあげてきた。
きっと瑩清を睨むと彼女も同じような顔をしている。
ただし彼女の目は潤んでいたが、応麟は気が付いていない。
「なにするんだよ!?」
「私が強いですって!?」
「そうさ、十分すぎるほどな!!現に僕を引っ叩いているじゃないか!?ああ、もうなんなんだよ・・・。誰だって麗華の方が良いに決まってるよ。」
「!!」
「積薪様から将来瑩清の婿に来いって言われているけど、君なんてごめんだね。こんな暴力女たまらないよ。」
そこまで言って応麟は言い過ぎたと口を閉じた。
瑩清は震える肩はそのままにすっかり項垂れてしまっている。
どう声を掛けようかと言葉を選んでいると、瑩清がか細い声を出す。
「・・・応麟は麗華が好きなの?・・・私より?」
「はぁ・・・なんだよそれ。」
「・・・。」
それきりすっかり黙ってしまった瑩清に応麟は麗華を思い浮かべる。
未熟児で産まれたせいか同じ年頃の子どもに比べて小柄で病がちな麗華。
しかしそんなことを悲観せずいつもにこにこと純真な笑顔を振りまく彼女は応麟にとって安らげる場所だった。
もちろん瑩清もそうではあるが、彼女はなにかと口うるさく少々喧しい存在。
この頃家族との仲があまり上手くいっていなく苛立ちが多いなか、ちょこんと応麟の隣にただいてくれる麗華の方がはっきり言って良い。
そう結論付けた応麟はあまり深く考えず伝える。
「そうだよ。麗華の方が好きだ。」
「っ・・・。」
瑩清は一度大きく肩を跳ねさせるとのろのろと顔を上げた。
目はどこか虚ろである。
「なんであの子ばかり・・・応麟まで?・・・あんな子いなければよかったのよ。そうよ、そうすればお母様だって死なずにすんだのに・・・麗華さえいなければ。」
「瑩清!!」
今度は瑩清の頬が赤くなる。
瑩清は叩かれたままで少しずれた顔の位置を戻そうとしない。
「瑩清いい加減にしろ!言っていい事と悪い事があるぞ!!」
「・・・―――い。」
「なんだって?」
瑩清の声が小さすぎて応麟は聞き返す。
それに反応したのか、瑩清は顔を応麟の方に向けたが目が合う事はなかった。
瑩清の目はぞっとするほど暗い。
そこから一筋の涙がこぼれる。
「貴方たちの顔なんて見たくないって言ったのよ。消えてよ、私の目の前からっ!!」
「えい―――」
「早く!!」
応麟は何も言えず、顔を強張せながらその場を離れた。
時々後ろを振り返り瑩清の様子を窺うが彼女が動く気配はない。
内心溜息を吐くと、応麟は再び麗華の部屋を訪れようと足を動かした。
瑩清は決して応麟の背中を見ようとはせず、去っていく音だけを静かに聴いていた。
嫌だと思うのに、瑩清の脳裏に勝手に浮かぶのは応麟と麗華の並んだ姿。
昔は応麟の隣には瑩清がいたのにいつの間にかそこは妹の場所になっていた。
愛しそうな目で麗華を見つめる応麟に愕然とした。
応麟だけは瑩清のそばにいて理解してくれるものだと信じていた。
しかし実際はどうだろう、何もわかってくれていなかった。
瑩清は強いのではない、強くあろうと必死に努力していたのだ。
周りはそれを当たり前とし、徐々に自分を塗り固めていくしかなかった。
ふとした瞬間、その一部が剥がれ苦しく思う。
最近とみに剥がれていく回数が増えているような気がしてならない。
特にあの2人が一緒にいる時。
今はまだよい、麗華はまだ11だ。
しかしいずれ大人の女性へと成長し、その姿で同じように成長した応麟の隣に立つ姿を想像するだけでぞっとする。
その時瑩清はどうしているのか?
まだ偽りで塗り固められたまま2人を見ているのだろうか?
「そんなの嫌よ。見たくない、あの2人が並ぶ姿なんて・・・2度と見たくない・・・。」
―――瑩清の願いは果たして?―――