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「・・・泉明様・・・。」
瑩清の口から辛うじて出たのは泉明の名だった。
思うもよらぬ発言に驚いて何と言ったらいいかわからなかった。
侍女たちが息をのんで様子をうかがっているのがひしひしと伝わってくる。
しばらくそのままでいたが、ふと泉明が瑩清の手を軽く叩いた。
大きく温かい手が小さく細い手を覆い隠してしまう。
それをきっかけに空気が動く。
「突然のことですみません。しかし私が貴女に好意を持っていたことはわかっていたでしょう?」
「え、ええ。でもこう言ってはなんですけど、泉明様は大層女性に慣れておいでだからそういうものだとばかり・・・。噂も、ねぇ?」
眉を八の字にして言う瑩清に泉明は苦笑した。
自分の今までの女性に対する行動を顧みれば致し方ないのだが、ここであきらめるわけにはいかないと気を引き締める。
「お恥ずかしい限りです・・・。ですがこの気持ちに決して嘘偽りはありません。郭泉明、真の想いです。」
「あ・・・。」
目には見えないが、彼が真摯な表情で想いを告げているのだろうと瑩清にもわかる。
徳仁の所にいた時にも瑩清に愛を語る者がいた。
しかし戯れに思われてどうしても受け入れる事は出来なかったのだ。
もちろん目が見えないという事に負い目を感じていたせいもあるが、やはり応麟への想いがあったからだ。
長い間そういう感情は封じていたはずの瑩清に泉明のそれはなぜか大きく胸に響く。
常なら軽くあしらえるのに狼狽えてしまっていた。
泉明の事は都から離れていても噂を聞いていた。
名門郭家、しかし四男坊というせいか24にもなって未だに妻を迎えておらず数々の女性と浮名を流していると。
端整な顔立ちに優雅な立ち振る舞い、文武両道で将来高官に就くのは想像に難くない。
そんな彼が本当に瑩清を想っていると言われても信じられないはずなのに。
みるみる顔を赤く染めていく瑩清を愛おしそうに見つめる泉明。
焦がれていた相手が自分の言葉で恥ずかしそうにしていることを嬉しく思っていた。
なんと可愛らしいことか。
できることならこのまま強引にでも邸に連れ込んでしまいたかったが、理性でそれを押し込む。
家の者を遣って瑩清の身辺を時々探らせていたが、話を聞く限り彼女は泉明のような者には全く見向きもしていなかった。
泉明にはわかっていた。
その最大の要因は応麟であろうと。
2人の、というか応麟の露骨な様子を見ていると過去になにかあったのは容易にわかる。
しかしその応麟はもうすぐ―――
「・・・応麟が麗華を妻に?」
「ああ。少し前から話は出ていたんだが、ようやく決まりそうだ。」
「そうですか。」
瑩清は言葉少なにそう応えるしかなかった、いやそうすることしか出来なかった。
薄々とわかっていたことだが、実際その話を聞かされると衝撃的だった。
なにかで頭をがんと殴られたような感覚に陥る。
しばらく呆然と積薪の嬉しそうな顔を眺めていた。
応麟は積薪の昔からのお気に入りだ。
将来は瑩清か麗華の婿にと常々考えていたようで、応麟が麗華を妻にと望んでいるとこを知ると嬉々として手回しを始めていたという。
応麟は側室の子で周家には他にも男子がいるため、応麟が楊家に婿入りするという形をとったらしい。
「ますますこちらには帰ってこれないわね。」
ぽつりと呟いた瑩清の声は積薪に届かなかったのだろう、聞き返されたが何でもないと首を横に振った。
どこかでまだ淡い期待を抱いていた瑩清はそんな自分を嘲笑う。
盲目になったことで自分の方を向いてくれるのではないか。
都を離れたことで寂しく思ってくれるのではないか。
・・・―――いつか自分を迎えに来てくれるのではないか。
しかし応麟は昔から大事にしていた瑩清の妹麗華を妻にするという。
瑩清が盲目になろうと都を離れようと全く関係ないのだ。
自分が彼にとって取るに足らない存在なのだと改めて思い知らされた。
暗い重い思考に沈み込みそうな所を叱咤し、積薪に向かい合う。
「それはおめでたいことですね。・・・しかし麗華の様子はあまり・・・。」
「うむ。どうも麗華は乗り気ではないようでなぁ。誰か他に想う相手がいるとは思えんのだが。」
わからないと首を傾げる積薪の言葉に瑩清は反応し、自分が浅ましく思う。
麗華がそのまま拒めみ続ければいいと思ってしまったからだ。
もし積薪の言うように他に想い人がいるのなら、応麟にも自分と同じ想いをさせられるというどうしようもない考え。
瑩清の苦しみを味わえばいいのだと。
都を離れ心は落ち着いたと思っていたのに、またぶり返したように仄暗い思考に陥っていくのを感じやりきれなさを感じずにはいられない。
このままでは到底応麟と話が出来そうになかった。
彼が心に引っかかっているであろう枷を外さなければと思って戻ってきたというのに。
それさえも応麟にとってはどうでもよかったのだと悔しくなる。
簡単に解放してやるものか。
そんなことはもう考えずわだかまりを無くしたいという瑩清もいるのは確かなのだ。
一体どうすれば解放されるのか。
瑩清はまた雁字搦めにされることを恐ろしく思った。
そんな彼女の心の支えとなってくれたのは泉明だった。
相変わらずまめに顔を出し、同じ時間を楽しむ。
ただ以前と変わったことがあった。
控えている者は誰もおらず、2人きりで共に過ごすのだ。
泉明は瑩清が応麟への気持ちを持て余していることに気付いていて、話を聞き慰めてくれる。
それは瑩清にとって大きな救いだった。
誰にも話せずにいた思い―――応麟への恋情、麗華への嫉妬心―――を吐き出した。
欲に塗れたそれを泉明は蔑みもせず、黙って受け止めてくれる。
「つらかったろう」と優しく抱きしめ、幼子を宥めるかのように背中をなでてくれる。
初めての日は大きな声を上げて泣いた。
泉明のそれはやはり徳仁によく似ていたが、彼ではここまで洗いざらい話せなかっただろう。
麗華も徳仁にとってよく知る可愛い姪であり、そんな妹に対してよからぬ気持ちを抱いているなどと慕っている彼には知られたくなかった。
―――瑩清は姉なのだから、妹である麗華を慈しみ守らなければならない―――
幼い頃から自分に言い聞かせてきたことだ。
周りも当然のようにそういうので当たり前のことのように受け入れ実行していた。
それが苦痛に思うようになったのは一体いつからだっただろうか。
それを吐き出すことは許されないこととわかっていてずっとせき止めていた。
一度だけ、そう一度だけ我慢できずに吐き出した。
満月が美しく輝く夜に応麟へ。