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今宵の月は満月だ。
湯浴みを手伝ってくれた時に侍女がそう教えてくれた。
そのせいか、普段はさっさと就寝するのだが、なんとなく気になって窓際に身体を寄せる。
満月は私にとってあまりいい思い出ではない。
あの日も確か満月だった。
それでもこうしてしまうのは、故郷を訪れる日が近づいているからだろうか。
もう長い間、彼の地を離れていた。
「久しぶりに会えるのね。皆、元気にしているかしら。」
思い出すのは父と妹、そして一人の少年。
「・・・応麟・・・。」
愛おしげな、しかし切ないその顔を月が照らしていたが、彼女、瑩清の目に月が映ることは決してなかった。
「聞いて!今度、お姉様が帰ってくるの!!」
麗華は友人である恵果に嬉しそうに話す。
控えている侍女たちは微笑ましそうに二人を見守っている。
今日は週に一度のお茶会だ。
卓の上には香りの良い茶に、色取り取りの菓子類が並べられている。
昨夜、父から聞かされた朗報を早く教えたかった。
「良かったじゃないの!ずっとお会いできなかったんですものね。・・・でも、貴女の大好きなお姉様は長い間療養中だったのでしょう?もう大丈夫ということ?」
確か麗華が小さい頃に病を得て、静養するために遠い所へ行ってしまったと聞いている。
麗華ももう18歳だ。
随分と年月が経っている。
すると麗華は悲しそうに首を横に振る。
「ううん、病を治すのは難しいみたい。お医者様も匙を投げているみたいなの。」
「まぁ、そうだったの・・・。お若いのにお気の毒ね。」
友人といっても、家族のことなので詳しい事は聞かないようにしている。
麗華本人が話したいのならば、もちろん聞くつもりだ。
その事に関してなんと声をかければいいかわからないが、麗華の悲しい顔は見たくない。
恵果はにこりと笑みを浮かべ、明るく話す。
「久しぶりにお姉様がお戻りとなれば、積薪様もきっと楽しみでしょうね。ご馳走もたくさん用意しなきゃ。」
「ええ、もちろんよ!お姉様が好きな物をたくさん用意するつもりよ。」
ぽんと両手を合わせて嬉しそうに言う。
それを見て恵果はほっとした。
「きっとお綺麗になってるわ。ああ、早く会いたい!!」
「ふふふ、私もお会いしたいわ。」
「もちろんよ!是非会って!!」
「どなたにお会いしたいんだい?」
第三者に声を掛けられ二人が振り向くと、そこには周応麟と郭泉明が立っていた。
応麟は幼馴染で昔から知っていて、麗華にとっては頼れる兄のようなものだ。
一方、声を掛けてきた泉明は、麗華の父である積薪の部下である。
娘である麗華に興味を持ったのか、こうして度々楊家邸を訪ねてくるのである。
積薪はあまりいい顔をしなかったが、同僚の応麟が付いているのならと妥協していようだ。
迷惑なのは応麟のようだが、可愛い幼馴染に悪い虫が付かないよう自発的にやっているらしい。
「応麟!!」
応麟の姿を見て、麗華は駆け出し抱きつく。
侍女たちが止めようとするが、無駄だった。
応麟は驚くが、苦笑し優しく抱き留める。
恵果は呆れ、泉明は傷ついたような顔をする。
「ひどいな、楊姫は。私は無視かい?」
「ごめんなさい、郭様。ようこそお越しくださいました。でも応麟に早く知らせたくて・・・。きっと驚くわ!」
「どうしたんです?」
「お姉様が、瑩清お姉様が帰ってくるの!!」
「・・・瑩清が?」
麗華の腕に添えられていた応麟の手が僅かに震えているのは気のせいだろうか?
思わず応麟の顔を見上げると、どこかぎこちない表情をしている。
「応麟?」
呼びかける声にはっとして、元の穏やかな顔を麗華に向ける。
一体どうしたというのだろう?
「いえ、なんでもないですよ。・・・瑩清が戻ってくる・・・。それで麗華はこんなにも喜んでいるんですね。」
「え、ええ。まだ少し先の話で一時的なものらしいのだけれど。」
「一時的に・・・そうですか・・・。」
何処となく虚ろな目をした彼は、麗華と泉明を恵果が待っている席へと誘導する。
両者とも応麟を気にしているがとりあえず黙っていた。
各々が席に着くと、早速泉明が切り出す。
「ところで瑩清というのは?楊姫がお姉様と呼んでいたようだけど。」
「はい、私の実の姉ですわ。」
「ふむ。そういえばご療養中の姫君がいると聞いていたが・・・。」
「長い間都を離れ、叔父様の所へ行っていたのです。」
「叔父様というと、楊徳仁殿?」
「ええ。よくご存知ですね。」
楊徳仁は父の年の離れた弟で、地方の役人だ。
そこまで位は高くないが優秀で、いずれは都に呼ばれるのではないかと言われている。
それに―――
「あの方は仕事でも優秀らしいが、なんといっても横笛の名手だからね。」
そう、叔父様は横笛の名手で有名だ。
なんでも帝の覚えもいいらしい。
郭様は名門の家柄で、やはりそういうことにも詳しいようだ。
本人も雅事がお好きなようだし・・・。
女性と戯れるのも雅事のひとつなのかしら、なんてふと思ってしまった。
「ん?徳仁殿の所というと、もしかして迦陵頻伽姫のことだろうか?」
迦陵頻伽という言葉に応麟がぴくりと反応した。
麗華は気づいたが、恵果はそんな様子もなく泉明に聞く。
「迦陵頻伽?というと・・・極楽にいるとされる美しい泣き声を持つという鳥のことですか?」
「ああ、張姫はよくご存じだね。まあ、そうでもあるけど、徳仁殿の所にはとても美しい歌声の持ち主がいてね。声は聴こえるのだが、邸からも一歩も出ず滅多に姿も見せないとなって、誰かが迦陵頻伽と呼び始めたらしい。」
「もしかして・・・それがお姉様?」
「さぁ、どうだろうね。姿を拝見したことはないからなんとも言えないが。」
「・・・それはきっと瑩清のことですよ。」
今まで一言も話さなかった応麟に三人の視線が行く。
「麗華は覚えていませんか?彼女はよく歌っていたはずですけど。」
「もちろん覚えているわ。本当に小さい頃からよく聴いていたもの・・・。」
「そうでしたね、私もよく聴いていました。」
懐かしむように遠くを見る応麟にやはり違和感を覚える。
泉明がちらりと応麟を見るが、何も言わず麗華や恵果に向き直る。
「もし迦陵頻伽姫が楊姫の姉君ならば、お会いできるかもしれないね。実に楽しみだ。」
「あら。郭様は油断なりませんから、きっと積薪様がお許しになりませんわ。」
「酷い事をおっしゃる。なんのために応麟がいるとお思いですか。なぁ、応麟。」
「・・・。」
再び視線は応麟へ。
それにも気づかず、泉明が軽く小突く。
「おい、応麟。」
「あぁ、すみません。何か?」
「体調がよろしくないのではありませんか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。」
恵果を始め侍女たちも気遣うが、応麟は苦笑するばかり。
泉明は初めから気づいているのだろうが、何も言わなかった。
やはり今日の応麟はおかしい。