プロローグ「三雲しおりは、減らない唐揚げを説明できない」
古針時計店の壁掛け時計が、5分だけ遅れている。
他の時計は、すべて同じ時刻を指している。
秒単位で揃っている。
店内は静かだった。
針の音が重なって、揃っていることだけを主張している。
その中で、一つだけ遅れている。
わずか5分。
だが、揃っている中の5分は、揃っていないより目立つ。
三雲は椅子に座ったまま、時計を見ていた。
黒い上着。やけに直線的なシルエット。
腕を組んだ姿勢も含めて、妙に“それっぽい”。
「……現象としては単純です」
低い声で言う。
「全体は一致している。例外が一つだけ存在する」
奏がふと顔を上げる。
三雲の方を見て、一瞬だけ止まる。
——あ、なんか三雲ちゃん、語り出した。
特に気にせず、また視線を落とす。
「この場合、“例外”の方が正しい可能性があります」
雄一は壁を見る。
5分遅れ。
誤差と言えば、それまでの差。
「時間が連続しているという前提を置くから、異常に見える」
三雲は続ける。
「連続していないと仮定すれば——“抜けた時間の帳尻合わせ”として説明できます」
カチ、と針が進む。
「例えば」
一拍。
「結果が先に存在し、それに合わせて原因が後から成立する構造です」
雄一は眉を寄せる。
「撃たれたから撃つのではなく、撃ったから撃たれる」
さらに一言。
「フィリップ・K・ディックの短編に見られるような、因果の反転です」
「SF作品だろ」
短く切る。
三雲は一瞬だけ黙る。
「……ですが、現象は近い」
「“近い”で片付けるな」
「では——」
三雲が言い直す。
「H・G・ウェルズ的な時間移動とも異なります。移動ではなく、結果の先行です」
「だからSF作品だろ」
「……理論としては」
一拍。
「アルベルト・アインシュタインの相対性理論でも、時間の進み方は観測条件によって変化します」
雄一は即座に返す。
「それ、遅くなる話だろ」
「はい」
あっさり肯定する。
「今回のように“結果だけが先行する現象”は説明できません」
「じゃあ関係ないだろ」
「……ですが、方向性は近い」
「だから“近い”で片付けるな」
雄一は一瞬だけ、三雲の格好に目をやる。
「……その格好、なんだ」
三雲は視線を時計から外さないまま答える。
「借り物です」
「誰の」
「姉の」
一拍。
「……お姉ちゃんから借りた」
言い直す。
雄一は少しだけ黙る。
「なんでそれを選んだ」
「説得力が増すと判断しました」
「増えてない」
短く切る。
「……ですが、観測には影響しません」
「そこじゃない」
「観測されない時間は、存在しないのと同じです」
「さっきから全部後付けだろ」
言い切る。
理屈は積まれているが、どこにも固定されていない。
その時だった。
パカっ。
軽い音がした。
視線がそちらに向く。
奏が、懐中時計を開いている。
秒針を一瞬だけ見て、
「……あ、ちょっとズレてる」
カチン。
閉じる。
雄一は、わずかに目を細める。
「今の、戻したのか」
奏は首を傾げる。
「戻したっていうか、ちょっと前のやつ使っただけ」
「どれくらい前だ」
「そんな長くないよ」
三雲がわずかに視線を動かす。
「長時間の逆行であれば説明は可能ですが——」
そこで止まる。
「……今回の現象とは一致しません」
三雲は一度だけ息を整える。
「……欲求がトリガーになっている可能性があります」
雄一がすぐに返す。
「食べたいから増えてるってことか」
三雲はわずかに首を振る。
「断定はできません」
奏は、唐揚げをつまんだまま言う。
「そんなつもりないよ」
テーブルの皿に視線が落ちる。
唐揚げが三つ。
——さっき見たときも、三つだった。
奏が一つ、口に運ぶ。
雄一は皿を見る。
「……今、何個目だ」
「ん?」
「二つ目くらい?」
「さっき三つあった」
「うん」
「で、今三つある」
「うん」
「……減ってないぞ」
「減ってるよ」
あっさり言う。
「それ、さっき食べたやつだもん」
意味は通らない。
だが、言葉としては成立している。
雄一は皿を見る。
三つ。
減っていない。
だが、確実に一つは消費されている。
そのはずだった。
視線を上げる。
壁の時計。
5分遅れていた針が——
ぴたりと、他と揃っていた。
最初からそうだったかのように。
「……なるほど」
三雲が小さく呟く。
だがその声には、先ほどまでの確信がない。
「これは……」
続かない。
整理されない。
三雲は一度だけ息を整える。
「つまり——」
一拍。
「居候看板娘の瀬尾奏が、時間を雑に扱う——」
「そんなつもりないよ」
奏が割り込む。
カチ、と音が鳴る。
雄一は皿を見る。
唐揚げは、まだ三つある。
さっきと同じ位置に。
同じ形で。
いや。
さっきより、少しだけ形が違う気がした。
まるで——
まだ“終わっていない”みたいに。




