第二話:徹底解説!追放劇!!
ぱたん、と控えめな音を立てて扉が閉まる。マリアが部屋を出ていくと、室内にはしばしの静寂が訪れた。先ほどまでの熱に浮かされたような感覚はすっかりと消え去り、代わりに頭の中は驚くほど冴えわたっている。まるで長年霧がかっていた視界が、強い風で一気に晴れたかのようだ。
三十年分の、もう一つの人生の記憶。
それが今の私の中に、アシュフォード公爵令嬢としての十七年間と完全に一つになって存在していた。情報の奔流はすでに落ち着き、知識は系統立てて整理されいつでも引き出せる状態にある。不思議なことに、二つの人格がせめぎ合うような混乱はない。初めからそうであったかのように、ごく自然に融合している。
(研究者としての思考回路と、貴族令嬢としての経験。これは案外とんでもない武器になるかもしれない)
そんなことを考えているとすぐに扉が開き、マリアが盆を手に戻ってきた。湯気の立つ簡素な陶器の器と、一杯の水が載せられている。
「お嬢様、お水とお食事をお持ちしました。おかゆですが召し上がれますか」
その声色はいつも通りの平坦なものだったが、私を見る彼女の黒い瞳の奥にはかすかな懸念の色が見て取れた。病み上がりの主人を気遣うというよりも、精神状態を慎重に観察しているといった方が近いかもしれない。
「ええ、ありがとうマリア。でも、そんなに心配そうな顔しないで。私はもう大丈夫。至って正気だから」
「……失礼いたしました。ですがお嬢様、先ほどの『らぁめん』というお言葉……あまりに突飛でしたので、まだ熱に浮かされているのではないかと」
マリアは私がベッドから起き上がるのを手伝いながら、探るように言った。その問いかけが最後の引き金となった。そうだ。私はなぜこんな辺境の洋館で、熱を出して寝込むような羽目になっているのだろうか。
前世の記憶が覚醒したことで、今の自分の状況を客観的に見つめ直す必要があった。怒りや悲しみといった感情よりも先に、純粋な知的好奇心が頭をもたげる。
なぜ、計画は失敗したのか。
いや、そもそも私の人生というプロジェクトはどこで道を誤ったのか。
答えはすぐに見つかった。
脳裏に数日前の出来事が、まるで完璧に保存された実験データのように再生される。
「マリア、そこに座ってくれる? 少し長くなるけど、現状を整理する必要があるの」
私はマリアが差し出したおかゆを一口含み、ゆっくりと咀嚼しながら言った。おかゆはただ塩で味付けしただけの、素朴すぎるものだった。うま味が、絶望的に足りない。
「今回の私の社会的地位失墜、通称『追放劇』の事後報告と、その要因分析を行うわね」
「……事後報告、でございますか」
聞き慣れない単語にマリアはわずかに眉をひそめたが、すぐに平坦な表情に戻った。
「ええ。まずは事象の概要から。加害者は私の腹違いの妹、イザベラ・アシュフォード。被害者は私。目的は私が保有していた社会的資産――つまり婚約者だった殿下や、アシュフォード公爵家の後継者っていう立場、そして将来的な王妃の座――の強奪ね」
私はスプーンを器に置くと、まるで講義でも始めるかのように指を一本立ててみせた。マリアは、これから始まるであろう主人の突飛な語りを前に、諦観ともとれる落ち着き払った表情で、言われた通りにベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
「イザベラの戦略は、三段階のフェーズに分けられるの。これがまた実に見事な計画なのよ」
「……はあ」
「第一段階は基礎となるイメージの構築。つまり自己のブランディング戦略ね。彼女は王都の社交界で、自分を『儚く、か弱く、誰かに守られるべき存在』として周りに認識させることに成功したの。天使のような顔、潤んだ瞳、か細い声。これら全てが計算され尽くした演出なのよ。特にターゲット層である男性貴族、その中でも自尊心が強くて英雄願望を持つタイプの人には、すごく有効なアプローチと言えるでしょうね」
脳裏に、いつも何かに怯えるように俯き兄や殿下の後ろに隠れていたイザベラの姿が浮かぶ。あの姿を見て庇護欲をかき立てられない男はいなかった。私自身でさえ哀れな妹、と心のどこかで思っていたのだから世話がない。
「彼女のそのイメージが市場に浸透して、十分に定着したのを見計らって第二段階へと移行するの。証拠の捏造と計画的な情報漏洩よ」
「……捏造、と申しますと」
「ええ。私が彼女のドレスを破いた、とか。私が彼女の大切にしていた装飾品を隠した、とか。そういった取るに足らない、でも聞く人の同情を誘うような小さな『事件』をいくつも創作したの。そしてその『事実』を、自分に同情的な侍女や口の軽い貴族の子息に涙ながらに『相談』という形で打ち明ける。一度に大きな嘘を流すんじゃないのよ。小さな、でも真実味のある偽情報を複数の異なるルートから間隔をあけて拡散させる。そうすることで噂は徐々に『周知の事実』として社交界全体に広がっていく。情報戦における、とても有効な手法よね」
思い返せば確かにおかしな点はいくつもあった。いつの間にか私の周囲から人が離れていき、代わりに遠巻きにひそひそと話す声が聞こえるようになった。あの頃にはもうイザベラの第二段階は最終局面に入っていたのだろう。私という『邪悪で嫉妬深い姉』のイメージは、すでに完成していたのだ。
「そして満を持しての最終段階。公衆の面前での最終告発よ」
「……あの、夜会の」
「ええ、そうよ。あの日、殿下の誕生日を祝う夜会っていう一番注目度の高い舞台を選んだのも素晴らしい判断力だと思う。観客が多ければ多いほど、集団心理は働きやすくなるから」
私は優れた研究対象を前にしたときのような、強い知的興奮を覚えながらあの日の光景を分析する。シャンデリアがきらめく広間。着飾った貴族たち。その中央で私は殿下と並んで立っていた。そこに、イザベラが駆け込んできたのだ。
「ここで使われたのが彼女の最終兵器――涙なの」
「……涙、でございますか」
「ええ。人間の感情に一番直接訴えかけることができる、原始的で最強のツールね。彼女はわざとドレスを汚して髪を乱して、『お姉様に、これ以上殿下に近づくなと階段から突き落とされた』って涙ながらに訴えたの。もちろん突き落とした事実なんてない。でも、あの場にいた全員が彼女の言葉を信じた」
「……」
「なぜだか分かる、マリア? それまでに第一段階と第二段階の布石が完璧に打たれていたからよ。みんなの頭の中にはもう『イザベラはか弱く哀れな被害者』で、『私は嫉妬深く邪悪な加害者』っていう図式が出来上がっていた。彼女の涙と乱れた姿は、その図式を裏付ける決定的な『証拠』として機能したのよ」
マリアは黙って私の言葉を聞いている。その黒い瞳は、もはや感情を映すことを放棄したかのように、ただ静かに私を見つめていた。
「殿下はあの涙を見て、完全に思考能力を停止したの。目の前で繰り広げられる悲劇に正義のヒーローとして介入するっていう、一番単純で心地よい役割に自分から飛び込んでいったのよ。守るべき可憐な少女と、断罪すべき邪悪な姉。物事をそんな風に単純な二元論で捉えるのは、思考を放棄する上ではすごく楽なことだものね」
婚約者であった殿下の顔が浮かぶ。正義感は強いが、少しばかり単純なところのある人だった。イザベラは彼のその性質を完全に見抜いていたのだろう。
「そして周りの貴族たちも同じよ。集団心理、同調圧力っていうものね。誰かがイザベラに駆け寄って彼女を庇って、私を非難し始めればもう流れは止められない。ここで私を庇うなんて異分子的な行動を取れば、今度は自分が非難の対象になりかねない。保身のために誰もがこぞって『正義』の側につこうとする。たとえ事の真相なんて何も知らなくてもね。こうして『アシュフォード公爵令嬢クララによる、妹イザベラへの度重なる非道な行い』っていう壮大な虚構が、『紛れもない真実』としてあの場で成立したのよ」
一通り語り終えた私は、少しぬるくなった水を一口飲んだ。喉が少し渇いていた。
マリアは数秒間沈黙した後、静かに口を開いた。
「……つまりイザベラ様の周到な計画によって、お嬢様は現在の状況に置かれている、と。そういうことでよろしいでしょうか」
「陥れられた、っていう表現は少し感傷的すぎるかな」
私は首を横に振った。
「これは一方的な蹂躙よ。私はイザベラっていう研究者が用意した実験台の上で、彼女の仮説がいかに正しいかを身をもって証明してみせた、ただの被験体に過ぎないの。彼女の仮説、『計算された涙と情報操作は人間の理性を麻痺させ、集団を容易に扇動できる』は見事に立証された。研究者として彼女のその手腕には、ある種の敬意すら覚えるわ。実にエレガントな証明だったもの」
怒りも悲しみも憎しみも、不思議と感じなかった。あるのはただ見事なプレゼンテーションを見た後のような、妙な感心だけだ。もちろん、自分がそのプレゼンのために社会的に抹殺されたという事実からは目をそらしつつだが。
「だからマリア、この一件を嘆き悲しむのは時間の無駄で、すごく非生産的な行為なの。むしろ学ぶべき点の多い優れたケーススタディとして、今後の人生の糧とすべきよ」
私がそう締めくくると、マリアはその無表情を全く崩さないまま、こてんとわずかに首をかしげた。
「……お嬢様は、悔しくはないのでございますか」
「悔しい?」
予想外の質問に私はきょとんとしてしまった。
「ええ。全てを奪われこのような場所に追いやられて。普通ならば怒りや憎しみで気が狂いそうになってもおかしくはないかと」
「まあマリア、私を誰だと思っているの? アシュフォード公爵令嬢なのよ? 感情に任せて取り乱すなんて、はしたない真似はしないわ」
そう言って私は優雅に微笑んでみせた。半分は公爵令嬢としての意地。そしてもう半分は本心だった。
前世の私は研究者だった。研究者が失敗した実験結果を見て、いつまでも泣き喚いているだろうか?
いや、そんなことはしない。
すぐに原因を分析し考察をまとめ、次の実験計画を立てる。
失敗は成功へのデータに過ぎないのだ。
「それにイザベラや殿下のことを今さらどうこう考えたって、何も始まらないわ。彼らはもう私の人生でいうところでは、主要な要素じゃなくなった。過去のことなの。私が今集中すべきは、目の前にある新しいこと。新しい研究テーマよ」
「……新しい研究テーマ、と申しますと」
マリアの黒い瞳がわずかに興味を持っているように見えた。
私はにっこりと、満面の笑みを彼女に向けた。
それはアシュフォード公爵令嬢の優雅な微笑みではなく、新しい実験器具を前にした一人の研究者の、無邪気で少しだけ狂気じみた笑顔だったかもしれない。
「決まってるじゃない」
私はすっかり冷めてしまったおかゆの器をちらりと見た。
そして、宣言した。
「この世界に存在しない『うま味』という概念を確立し、最高の『ラーメン』をこの手で生み出すことよ!」
私のあまりにも壮大で、あまりにも俗っぽい野望の宣言に、スーパーメイドのマリアはさすがに数秒間完全に沈黙した。
そしてやがて諦めたように、小さく、本当に小さく、誰にも聞こえないくらいの声でぽつりと呟いた。
「……やはり、少しお休みになられた方がよろしいかと存じます」




