第十七話:背徳の味の虜
こうして、私の新たなる研究拠点、もとい、不法占拠した工房での第一夜が幕を開けた。
しかし、ことはそう簡単には進まなかった。何せ、ここには私と全く同じ人種の人間、つまりは『自分の理論こそが絶対であり、それ以外は断じて認めない』という、非常に厄介な性質を持った研究者がもう一人いるのだから。
「だから! まずはこの三つの素材から、それぞれ目的の成分だけを分離、精製することが最優先だと言っているでしょう!」
私が実験台のフラスコを指さして叫ぶと、工房の主であるエレノアは、その銀髪をわさわさと掻きむしりながら反論した。
「馬鹿を言うな! それでは素材が持つ本来の『生命力』が失われてしまうだろう! 錬金術の基本は調和だ! 全ての素材を一度にこの大釜に入れ、宇宙の縮図として錬成することにこそ意味があるのだ!」
「生命力ですって!? 宇宙の縮図!? ああもう、あなたの口から出てくる言葉は、いちいち感覚的で非科学的なのよ! そんな曖昧な概念に頼っているから、いつまで経ってもあなたの研究は進まないんじゃないかしら!」
「な、なんだと! 貴様こそ、物質から魂を抜き取るような無味乾燥な手法で何が生まれるというのだ!それは料理ではなく、ただの作業だ!」
「科学とは再現性の学問!誰がやっても同じ結果を導き出せることにこそ価値があるの!あなたのその『感覚』だよりの錬金術とは、根本的な思想が違うのよ!」
ばちばちと、私たちの間で見えない火花が散る。
工房の中央に置かれた巨大な実験台を挟み、私とエレノアは互いに一歩も譲らない構えで睨み合っていた。
その傍らで、私たちの忠実なるメイド兼助手兼保護者であるマリアは、どこから取り出したのか小さな椅子に腰かけ、黙々と木の実の殻を剥きながら、私たちの不毛な論争を静かに見守っていた。その表情は能面のように変わらないが、心なしかその黒い瞳が『ああ、また始まった』とでも言いたげに、ほんの少しだけ呆れているように見えるのは、きっと私の気のせいではないだろう。
共同研究。
言葉の響きはなんて素晴らしいのかしら。
異なる知性が手を取り合い、一つの目標に向かって協力する。それは人類の進歩の原動力そのもの。
しかし、現実はこの有様だ。
アプローチの違い、思想の違い、そして何より、互いのプライドが邪魔をして、私たちの実験は一向に始まりの『は』の字すら迎えられていなかった。
「いいですか、エレノア。まず、このボアビーストの骨の粉末。ここからイノシン酸を抽出するには、まず余分な脂質やタンパク質を取り除くための前処理が必要です。そのために、まずはこの粉末を一定時間、低温の蒸留水に浸し……」
「待て! なぜ蒸留水なのだ! それでは不純物を洗い流すと同時に、骨に宿る大地のマナまで失われてしまう!ここは魔力を帯びた月光水を用いるべきだ!そうすることで、イノシン酸とやらの持つ力を最大限に引き出すことができる!」
「マナですって!?月光水ですって!?お願いだから、私の前でそのファンタジーな世界から抜け出してきたような単語を使うのはやめてちょうだい!水の分子構造はH₂O!それ以上でもそれ以下でもないのよ!」
「分子構造だと!?ああ、もう、貴様のその小難しい言葉は聞いているだけで頭が痛くなる! いいから、黙って私の言う通りにしろ! この工房の主は私だぞ!」
「あら、残念ですね。この工房の設備がなければ私の理論は証明できませんが、私の理論がなければあなたのその立派なガラクタは一生ただのガラクタのままですよ?」
「だ、誰がガラクタだ!」
ぎゃあぎゃあと、まるで市場の魚屋の喧嘩のように騒ぎ立てる私たち。
その間も、マリアはこりこりと小気味よい音を立てて木の実の殻を剥き続けている。剥いた実は丁寧に布の上に並べられ、殻は別の袋にまとめられている。そのどこまでもマイペースな姿が、逆に私たちのヒートアップした頭を少しだけ冷静にさせてくれるから不思議だ。
「……お二人とも」
不意に、それまで沈黙を保っていたマリアが口を開いた。
「そろそろ、夜が明けますが」
その平坦な声に、私とエレノアははっとしたように工房の小さな窓に目をやった。
確かに、固く閉ざされた窓の隙間から、ほんのりと空が白み始めているのが見えた。
一晩中、私たちはこの不毛な言い争いだけを続けていたというわけか。
さすがに、少しだけ自己嫌悪に陥る。
「……くっ」
エレノアが悔しそうに唇を噛んだ。
「分かった……! もういい! 貴様のその『かがく』とやらがどれほどのものか、まずは見せてもらおうではないか! ただし! 私のやり方にも、少しは従ってもらうぞ!」
「……いいでしょう。譲歩案として受け入れますわ」
こうして、夜明けと共に、私たちの共同研究はようやくスタートラインに立ったのだった。
◇
それからの数日間は、まさしく混沌という言葉がふさわしいものだった。
私とエレノアは、互いの理論を主張し、罵り合い、時にはフラスコを奪い合いながらも、なんとか一歩ずつ実験を進めていった。
「だから、その加熱角度は非効率的すぎます! 熱が均等に伝わっていないじゃない!」
「何を言うか! この三十七・五度の角度こそが、フラスコ内のマナの流れを最適化し、物質の錬成を促す黄金角なのだ!」
「マナマナうるさいわね! それよりも、攪拌棒の回転数を毎分百二十回で一定に保ってください! そうしないと均一な溶液にならないでしょう!」
「そんな無粋な! 物質との対話をおろそかにしてどうする! 溶液の声を聞き、その声に合わせて優しく混ぜてやることこそが……」
「ああもう、じれったい! 貸しなさい!」
私がエレノアの手から攪拌棒をひったくろうとすれば、彼女も負けじとそれを死守しようとする。
その結果、実験台の上で、貴族令嬢にあるまじき取っ組み合いの喧嘩が始まることもしばしばだった。
その度に、どこからともなく現れたマリアが私たちの間にすっと割り込み、
「お二人とも。そろそろおやつの時間でございます。本日は私が試作いたしました『うま味爆弾・改』をご用意しておりますが」
などと言って、私たちの意識をいともたやすく食べ物の方へと逸らしてしまうのだ。
まったく、誰が主人で誰がメイドなのか、分かったものではない。
そんな喧嘩と試行錯誤の末、私たちはなんとか第一段階の目標である『各素材からのうま味成分の粗抽出』に成功した。
実験台の上には、三つのビーカーが並んでいる。
一つは、ボアビーストの骨から抽出したイノシン酸を含む、わずかに白濁した液体。
一つは、グルンブから抽出したグルタミン酸を含む、淡い緑色の液体。
そして最後の一つは、グアニ茸から抽出したグアニル酸を含む、月光のようにぼんやりと青白い光を放つ不思議な液体。
「ふふふ……! 見てください、エレノア! これこそが、うま味の三原色! 全ての味の素となる、神聖なる液体なのよ!」
私は胸を張り、得意げにその三つのビーカーを指し示した。
エレノアは、その得体の知れない液体たちを、疑わしげな目つきでじろじろと眺めている。
「……ふん。見た目はただの汚れた水ではないか。本当に、これが貴様の言う『魔性の粉』とやらの素になるというのか?」
「なりますとも!これから、この三つの液体を混合し、水分を飛ばして結晶化させることで、純粋なうま味の化身がこの世に誕生するのです! さあ、いよいよ最終段階です!」
私の声は、期待と興奮でわずかに上ずっていた。
いよいよだ。
この世界で初めて、三つのうま味成分が一つになる。
一体、どんな奇跡が起きるというのだろう。
しかし。
最後の最後で、またしても私たちの意見は真っ向から対立した。
「だから! 混合比率は、グルタミン酸を主体として、イノシン酸とグアニル酸を補助的に加えるべきだと言っているでしょう! 8対1対1! これこそが、うま味の相乗効果を最大化させる黄金比なのです!」
「何を言っている! この中で最も強い輝きを放っているのは、このグアニル酸とやらだ!この神秘的な光こそが、全ての力の源に違いない!これを主体とすべきだ!」
「輝きなんて、味には何の関係もありません! それはただの生物発光という化学現象であって!」
「黙れ、この素人が!貴様には神秘というものが分からんのか!」
ああ、もう、また始まった。
このままでは、また一晩中言い争って終わってしまう。
私が、どうしたものかと思案していると、エレノアが突然、とんでもないことを言い出した。
「……こうなれば、仕方ない。私の秘蔵の触媒を加えて、無理やりにでも三つの液体を調和させてくれる!」
彼女はそう言うなり、実験台の棚の奥から、鍵のかかった小さな箱を取り出してきた。
そして、中から現れたのは、どす黒い紫色をした、粘度の高そうな液体が半分ほど入った小瓶だった。
その小瓶が開けられた瞬間、ツンとした酸っぱいような、それでいてどこか甘ったるいような、独特な匂いが工房に広がった。
「ま、待ちなさい、エレノア! それは何ですの!?」
「ふふん。これは、私が長年の研究の末に生み出した万能溶媒、『賢者の血液』だ!どのような物質も溶かし、そして再び結合させる力を持つ、私の最高傑作だ!」
「賢者の血液ですって!? 馬鹿なこと言わないで!そんな得体の知れないものを加えたら、せっかく抽出したうま味成分が変質してしまうかもしれないのよ!」
「うるさい! これこそが、我々の停滞した研究を前進させる起爆剤となるのだ!」
エレノアは私の制止も聞かず、その紫色の液体をスポイトで一滴吸い取った。
そして、三つの抽出液を混ぜ合わせた大きなフラスコに、それを垂らそうとしたのだ。
「やめなさい!」
私は、彼女の暴挙を止めるべく、その腕に掴みかかった。
「離せ!」
「離すものですか! そんな非科学的なものを入れたら、全てが台無しよ!」
私たちは、一本のフラスコを挟んで、再びぎゃあぎゃあと取っ組み合いを始めた。
その時だった。
私たちの手がぶつかり、エレノアが持っていたスポイトが、あらぬ方向へと弾き飛ばされた。
スポイトの先端から、どす黒い紫色の液体が一滴、綺麗な放物線を描いて宙を舞う。
そして、それは。
ぽちゃん、と。
加熱のために火にかけられていた、私たちのフラスコの中へと、見事に吸い込まれていったのだ。
「「あっ」」
私とエレノアの声が、綺麗にハモった。
しん、と。
工房に、気まずい沈黙が落ちる。
次の瞬間。
フラスコの中の液体が、しゅわしゅわと音を立てて激しく泡立ち始めた。
淡い色をしていた液体は、見る見るうちにどろりとした茶色い泥水のような色に変わっていく。
そして、もくもくと、鼻を突くような悪臭を放つ、黄土色の煙が立ち上り始めた。
「……」
「……」
実験は、失敗だ。
それも、最悪の形で。
私たちの数日間の努力が、一瞬にして、ただの臭い泥水に変わってしまった。
「……あ……ああ……」
エレノアが、がっくりと膝から崩れ落ちた。
「私の……私の、『賢者の血液』が……! なんて、ことを……!」
いや、あなたのせいでもあるのよ?
そう喉元まで出かかったが、あまりにも落ち込んでいる彼女の姿を見て、私はその言葉をぐっと飲み込んだ。
科学者にとって、実験の失敗は死ぬほど辛いものだ。その気持ちは、痛いほど分かるからだ。
もくもくと立ち上る煙が、工房中に充満していく。
ごほっ、ごほっ、と私は思わず咳き込んだ。
と、その時だった。
あまりの悪臭に、私も少しだけ足元がふらついた。
そして、私の手が、近くにあった別の薬品瓶に、こつんと当たってしまったのだ。
がっしゃん!
薬品瓶は床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散った。
中から、無色透明の液体がどろりと流れ出す。
そして、その液体が、先ほどの茶色い泥水と混じり合った、その瞬間。
ジュウウウウウウウウッ!
という、肉でも焼けるかのような激しい音と共に、工房全体が真っ白な蒸気に包まれた。
「きゃっ!?」
「な、なんだ!?」
私とエレノアは、あまりのことに何が起きたか分からなかった。
マリアが、さっと私たちの前に立ち、その小さな身体で私たちを庇うようにしてくれている。
数秒後、白い蒸気はゆっくりと晴れていった。
後に残されたのは、めちゃくちゃになった実験台と、床に広がった得体の知れない液体の水たまり。
そして。
ふわり、と。
どこからともなく、信じられないほど、芳醇で、食欲をそそる香りが漂ってきたのだ。
それは、醤油を焦がしたような、香ばしい匂い。
肉を焼いた時のような、甘く香ばしい匂い。
それらが複雑に絡み合った、抗いがたいほどに魅力的な香り。
「……な、何の匂いだ……?」
エレノアが、くんくんと鼻を鳴らして呟いた。
私も、その香りの源を探して、きょろきょろとあたりを見回す。
香りは、どうやら、床にこぼれたあの液体の水たまりから漂ってきているようだった。
私たちの失敗作である茶色い泥水と、私が偶然倒してしまった薬品が混じり合ってできた、未知の液体。
一体、何が起きたというの?
私が倒したのは、確か、ただの高濃度のグリシン水溶液だったはず。アミノ酸の一種で、甘みを持つだけの、ごくありふれた薬品だ。
それが、なぜこんな……。
そうだ。
メイラード反応……!
アミノ酸と糖が、加熱によって反応し、褐色物質と、あの独特の香ばしい香りを生み出す、あの化学反応!
おそらく、エレノアの『賢者の血液』とやらに、何らかの糖質が含まれていたのだろう。それが、私のこぼしたグリシンと、フラスコの熱によって、偶然にも……!
私が、科学的な考察に夢中になっている、その時だった。
私の隣で、信じられない光景が繰り広げられていた。
エレノアが。
あの、潔癖症で、プライドの高い、天才錬金術師エレノアが。
なんと、四つん這いになって、床に広がった得体の知れない液体を、ぺろり、と舐めていたのだ。
「……え?」
私の口から、再び間抜けな声が漏れた。
エレノアは、一度その液体を舐めると、その蒼い瞳を、ありえないほど大きく、かっと見開いた。
そして、その動きが、ぴたり、と止まる。
まるで、時間が止まってしまったかのようだ。
数秒間の、硬直。
やがて、彼女の身体が、ぷるぷると、小刻みに震え始めた。
「な……な……な……な……な……」
その唇から、意味をなさない言葉が、途切れ途切れにこぼれ落ちる。
「なんだ、これは……!? なんだ、この、味は……!?」
彼女は、まるで何かに取り憑かれたかのように、再び床の液体に顔を近づけると、今度はもっと大胆に、犬のようにぺろぺろと舐め始めた。
「う……うまい……! いや、違う……! こんな、こんな味、知らない……! 甘くて、しょっぱくて、香ばしくて……! 脳の、奥が、痺れるようだ……!」
その姿は、もはや天才錬金術師の威厳など、どこにもなかった。
ただ、未知の快楽に身を委ねる、一匹の獣。
それが、そこにいた。
「冒涜的だ……! こんな、人の理性を狂わせるような味が、この世に存在していいはずがない……! だが……!」
エレノアは、はっと顔を上げた。
その頬は紅潮し、瞳は潤み、口元はだらしなく緩んでいる。
そして、狂気に満ちた、しかしどこか恍惚とした表情で、絶叫した。
「だがああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!うめえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
その絶叫は、私の魂の雄叫びすらも霞むほどの、凄まじいものだった。
私は、そのあまりにも衝撃的な光景を前に、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
そして、魂の叫びを叫びに叫んだ、エレノアはそのまま、まるで灰にでもなったかのように、ピクリとも動かなくなった。
魂が別の世界に言っているかのよう、いや、深く深く何かを熟考している、かのようにも見えた。
あまりに異様な状況。
私の隣で、マリアがぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。
「……おいたわしい」
その声には、ほんの少しだけ、同情のような響きが含まれているように聞こえた。
「ふふふ……。ようやく、ご理解いただけたようですね」
私は、してやったりと、不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、エレノア!そしてマリア!感傷に浸っている暇はないわ!早速、この反応を再現し、制御するの!その暁には、量産できるのよ!」
私の号令に、うま味の虜となった天才錬金術師と、全てを悟った顔のスーパーメイドが、静かに、しかし力強く頷いたのだった。




