第十六話:理論武装
しんと、私の宣言を最後に工房の中は水を打ったような静寂に包まれた。
薬品のツンとした匂いと埃の乾いた匂いが入り交じった空気が、やけに重たく肌にまとわりつく。実験台の上に並べられた三種の神器――ボアビーストの骨の粉末、グルンブの破片、そして今なお青白い光を放ち続けるグアニ茸――が、この場の尋常ならざる緊張感をさらに高めているようだった。
対峙するは、天才錬金術師、エレノア。
彼女は手に握りしめたほうきの柄がみしりと音を立てるのも構わず、わなわなと肩を上下させていた。大きな丸眼鏡の奥にある蒼い瞳は、怒りとほんの少しの研究者特有の好奇心とがせめぎ合い、複雑な光を放っている。
「……ふざ、けるな……!」
やがて、彼女の唇から絞り出されたのは拒絶の言葉だった。
「私の工房を土足で踏みにじっておきながら……! その得体の知れないガラクタを並べて、私の錬金術を凌駕する、だと……? 冒涜にもほどがあるぞ!」
「あら、ガラクタではございません。これらは私の理論を証明するための、いわば『聖遺物』。この世界の誰もまだ知らない真理の欠片です」
私が、あくまで優雅に、しかし挑発的に微笑んでみせると、エレノアの顔がさらに赤みを増した。今にもそのほうきで殴りかかってきそうな勢いだ。
「戯言を! 貴様の言う『かがく』とやらが何だというのだ! 全ての物質が目に見えぬ粒子からできているだと? 馬鹿馬鹿しい! 万物は火、水、土、風の四大元素の調和によって成り立っている! それがこの世界を構成する絶対の法則だ!」
「その『調和』という言葉こそが、錬金術の限界を示しているとは思いませんか?」
私は彼女の言葉を待たずに畳みかけるように続けた。
「『調和』とは、あまりにも曖昧かつ感覚的で、そして非科学的な言葉です。それは術者の感覚やその日の気分によっていくらでも解釈が変わってしまう。それでは厳密な意味での『再現性』は永遠に得られません。昨日成功した錬成が今日はなぜか失敗する。そんな経験、あなたにもおありでしょう?」
「ぐっ……!」
図星だったのだろう。エレノアが、一瞬言葉に詰まった。
その隙を私は見逃さない。
「私の提唱する『化学』は違います。そこにあるのは冷徹なまでの数学的な法則性だけ。Aという物質とBという物質を特定の条件下で反応させれば、必ずCという物質が生まれる。何度やっても、誰がやってもその結果は変わらない。それこそが、真理を探求する上で最も重要な土台となるべき考え方なのです!」
「……」
エレノアはほうきを握りしめたまま押し黙ってしまった。
彼女の頭の中で今、必死の思考が巡らされているのが手に取るように分かる。
プライドと知的好奇心。その二つが激しい綱引きを演じているのだ。
「先生は長年『賢者の石』の生成を研究されている。その目標は素晴らしいものです。しかし、そのアプローチに根本的な誤りがあるのです」
私はゆっくりと実験台に近づくと、壁に貼られたびっしりと数式が書き込まれた羊皮紙の一枚を指さした。それは、おそらく彼女が現在取り組んでいるであろう『賢者の石』の生成に関する中心的な理論図のようだった。
「この図を見てください。四大元素を表す記号が複雑な線で結ばれている。そして、その中央に究極の物質である『賢者の石』が描かれている。美しい図ですね。しかし、これはただの願望を描いた一枚の絵画に過ぎません」
「な……! 何を、言うか……!」
「例えば、この『水』の元素記号と『土』の元素記号。これを『調和』させることで新たな性質を持つ物質が生まれる、と。そう書かれていますね? ではお尋ねしますが、その『水』と『土』の比率は? 1対1ですか? それとも2対3? その比率がほんのわずかにでも変わった時、生まれる物質にどのような変化が起きるのか。それを、あなたは明確に説明できますか?」
「そ、それは……! 長年の経験と研ぎ澄まされた感覚によって見出すものだ!貴様のような素人に錬金術の神髄が分かってたまるか!」
「感覚、ですって? ふふ、それこそが錬金術が『術』の領域から抜け出せない最大の理由です」
私は懐から小さな炭の芯を取り出すと、エレノアの神聖な理論図の上に大胆にもするすると数式を書き加え始めた。
「いいですか? 『水』という物質は私の理論ではH₂Oという分子式で表されます。これは『水素』という原子が二つと『酸素』という原子が一つ決まった角度で結合した、極めて安定した構造体です。そして『土』の主成分である珪酸塩はSiO₂。これは……」
私が前世の記憶を頼りに化学の基礎をとうとうと語り始めると、エレノアの顔はみるみるうちに蒼白になっていく。
「や、やめろ……!私の研究に得体の知れない記号を書き加えるな……!」
「得体も知れないですって? とんでもない。これこそがこの世界の物質の本当の姿を記述した、万国共通の『言語』です。あなたの言う『調和』などという曖昧な言葉ではなく、この『化学式』こそが物質同士の対話を可能にするのですよ」
私は彼女の理論図に書かれていたある錬成プロセスを指さした。
「ここを見てください。鉛を金に変える、その最終段階。あなたはここに『硫黄』と『水銀』を特定の比率で加え、アゾートの炎で熱する、と記している。しかし、そのプロセスでは決して金は生まれません!」
「な……!? 何を根拠に……!」
「根拠は原子番号です。鉛の原子核には82個の陽子が存在する。対して、金の原子核にある陽子は79個。この、原子核の内部にある陽子の数を変化させることは通常の化学反応、つまりあなたの言う錬金術の範疇では絶対に不可能なのです。これは核物理学の領域。太陽の中心部で起きているような途方もないエネルギーを加えなければ、決して起こりえない現象なのです!」
「ようし……? かくぶつりがく……?」
エレノアの口から初めて聞く単語がオウム返しのようにこぼれ落ちた。
その蒼い瞳から先ほどまでの怒りの気配はすっかりと消え失せていた。
代わりにそこに浮かんでいるのは、自らの信じてきた世界の法則が根底から覆されるのを目の当たりにした研究者の純粋な『混乱』と『恐怖』。
そして、その奥底にほんのかすかに芽生え始めた抗いがたい『好奇心』だった。
かたり、と小さな音がして彼女の手からほうきが滑り落ちた。
そのことにも気づかず、彼女はまるで何かに引かれるように、ふらふらと壁の理論図へと歩み寄っていく。
そして、私が書き加えた見慣れない化学式と原子の図を、その指先でゆっくりとなぞった。
「……ありえない」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟きが漏れる。
「こんな……こんな法則が、本当にこの世界に……? 四大元素は……万物の調和は……では、私が今まで信じてきたものは、全て……」
彼女の肩が小さく、小刻みに動いている。
長年、人生の全てを捧げて積み上げてきた研究が、土台から音を立てて崩れ去っていく。
その絶望は察するに余りある。
しかし、私はここで手を緩めるつもりは毛頭なかった。
「全てが無駄だったわけではございません」
静かな、しかし凛とした声で私は言った。
「あなたのその類まれなる探求心、そして長年の実験によって培われた卓越した技術。それらは決して無駄にはなりません。むしろ、正しい『理論』さえ手に入れればあなたの研究は今よりも遥かに、飛躍的に進展することでしょう」
「……正しい理論……?」
「ええ。それが私の提唱する『化学』です!」
私は実験台の上に置いた三種の神器を、すっと彼女の前に差し出した。
「言葉だけでは信じられないのも無理はありません。ですから、見せて差し上げます。私の理論のほんの入り口を」
エレノアはゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳はもはや怒りにも恐怖にも染まってはいなかった。
ただ、ひたすらに純粋な、飢えたような光を放ち、私の手の中にある未知の素材たちを射抜くように見つめていた。
それは、新しい玩具を前にした子供の目。
あるいは、解明すべき謎を前にした探求者の目。
私と全く同じ種類の目だった。
「……何を、するつもりだ」
「簡単な実験です。この三つの素材からそれぞれ、特定の『うま味成分』と呼ばれる物質を抽出する。そして、それらを特定の比率で混合する。ただそれだけです」
「……うまみ、せいぶん……?」
「ええ。あなたの錬金術が目指すのが万物を変容させる『賢者の石』だとするならば。私の化学が今ここで生み出すのは、人の味覚を根底から支配する『魔性の粉』とでも言っておきましょうか」
私はにやりと笑った。
その笑みはもはや公爵令嬢のものではなく、これから始まる最高にエキサイティングな実験を前にした、一人のマッドサイエンティストのそれだった。
「……いいだろう」
エレノアの口から、ようやくその言葉が絞り出された。
「やってみせろ。お前の言う『かがく』とやらを。そして、私の信じてきたこの錬金術が本当にただの戯言であったのかどうかを……この私の目の前で証明してみせろ!」
その声はまだわずかに揺れていた。
しかし、その瞳にはもはや迷いはない。
真理を、知りたい。
ただその一点において、私たちの心は完全に一つになっていた。
「ただし!」
エレノアはびしりと指を一本立てた。
「もし、お前の言うことがただのはったりであったと分かったその時は……! この私が直々にお前たちを縛り上げて衛兵に突き出してやる! 覚悟はいいな!」
「ええ、もちろん。望むところです」
私は優雅に一礼してみせた。
こうして危険な共同研究の契約が、固く閉ざされたはずの天才錬金術師の工房で、今成立したのだった。
「では、早速始めましょうか」
私は白衣代わりの外套の袖をぐいとまくり上げた。
隣では、いつの間にかマリアがどこから取り出したのか、実験の準備を淡々と始めている。
「お嬢様。こちらの高純度蒸留水をお使いになりますか?それとも、こちらの普通の水の方がよろしいでしょうか?」
「……普通の水でお願いするわ、マリア」
私たちのあまりにも自然なやり取りを、エレノアはただ呆然と見つめているだけだった。




