第十四話:天才と変人
数日後、私たちの目の前に、ついにその威容が姿を現した。
天を突くようにそびえ立ついくつもの塔。どこまでも続く高い城壁。その巨大さは、辺境の地で見てきたどんな山よりも、どんな崖よりも、圧倒的な存在感を放っている。
「……王都」
幌馬車の荷台からその光景を眺めながら、私の口からぽつりとかすれた声が漏れた。
追放されて以来、二度と見ることはないと思っていた場所。アシュフォード公爵令嬢としての私の全てが始まり、そして終わった場所。
複雑な気持ちが胸のあたりでもやもやとする……かと思いきや、私の思考はすぐに別の方向へと飛んでいた。
(見て、あの人の数! これだけの人口がいれば、ラーメン屋を開くには最高の立地じゃないかしら! 市場規模が辺境の村とは比べ物にならないわ!)
感傷よりも先に商売人としてのそろばんを弾いてしまうあたり、私も随分とたくましくなったものだ。
がたごとと馬車が石畳の道へと乗り入れる。城門をくぐった瞬間、辺境の静けさに慣れきっていた私の五感を、情報の洪水が叩きのめした。
人、人、人。行き交う人々の喧騒。客引きの威勢のいい声。どこかの工房から聞こえてくる規則正しい金槌の音。パン屋の店先からは香ばしい匂いがし、路地裏からは生活排水の酸っぱい匂いが微かに鼻をつく。それら全てが一緒になって、私の脳をぐらぐらと揺さぶった。
「うわぁ……」
思わず、といった感じで声が出た。
これが、王都。この国の中心。あらゆるものが集まり、あらゆる欲望がうごめく巨大な生命体。
「お嬢様。お疲れのようですので、まずは宿を取りましょう」
私の隣で、マリアは周囲の喧騒などまるで意に介していないかのように、いつも通りの平坦な声で言った。彼女だけ時間の流れ方が違うのではないかと、時々本気で思う。
「そうね……。親方さん、お世話になりました。ここで降ろしていただいて結構です」
「おう、嬢ちゃん! いや、先生! もう行っちまうのかい? よかったら、俺たちのいきつけの宿に……」
「いえ、お気持ちだけで。私たちにはこれからやらなければならないことがありますので」
私がにっこりと微笑むと、親方は残念そうな顔をしながらも大きく頷いた。
「そうかい! 先生の邪魔はできねえな! そうだ、これを持ってってくれ!」
親方がそう言って、ずしりと重い革袋を私に手渡してきた。中からは、ちゃりんと硬貨が触れ合う音がする。
「こ、これは……!?」
「先生に分けてもらった、あの携帯食の代金だ! それに、俺たちからのほんの気持ちだ! 王都での研究の足しにしてくれ!」
「いけません! こんな大金、受け取れません!」
「いいから、いいから! 先生には膝の痛みも治してもらったしな! なあ、お前ら!」
親方が振り返って言うと、他の商人たちも、おう!と力強く頷いた。
「先生、達者でな!」
「また、あのうめえもん、食わせてくれよな!」
商人たちの温かい声援に送られ、私たちは荷馬車を降りた。
ずしりと重い革袋。これが私たちの最初の活動資金。そして、私の生み出した『うま味』が、この世界で初めて生んだ確かな価値だった。
「さて、と」
私は革袋をぎゅっと握りしめると、マリアに向き直った。
「感傷に浸っている暇はないわ。早速、私たちの目的地へと向かいましょう!」
「かしこまりました。して、どちらへ?」
「決まっているわ。この王都で最高の頭脳と最高の設備を持つと言われる場所。錬金術師たちが集う職人街よ!」
私の瞳は、新たな研究フィールドを前にしてきらきらと輝いていた。
目指すは、若き天才と名高い女性錬金術師、エレノアの工房。
私の『科学』と彼女の『錬金術』。
二つの異なる知性が合わさる時、一体どんな化学反応が起きるのか。
考えただけで、わくわくが止まらなかった。
◇
職人街は、王都の中でも特に活気に満ちた一角だった。
石畳の道の両脇には鍛冶屋、革なめし工房、ガラス工房などが軒を連ね、それぞれの工房から様々な音が途切れることなく聞こえてくる。空気中には熱せられた鉄の匂いや薬品のツンとした匂いがただよい、独特の雰囲気を作り出していた。
「ここは、すごい熱気ね」
「はい。この国の産業を支える心臓部、といったところでございましょう」
マリアは周囲を油断なく観察しながら、私の半歩後ろを歩いている。
私たちは道行く人に聞き込みをしながら、目的の工房を探した。
『エレノア』という名前を出すと、職人たちの反応は皆似通っていた。
「ああ、あの天才様かい?それなら、この道をまっすぐ行った突き当りだよ。けど、やめといた方がいいぜ。あの人はちっとばかし、変わってるからな」
「エレノアさんの工房ねぇ……。腕は確かだけど、気難しくて有名よ。滅多に人と顔を合わせようとしないから」
どうやら、かなりの変わり者としてこの界隈では有名なようだ。
研究一筋で、人付き合いが苦手。
ふふふ、いいじゃない。私と気が合いそうで。
私たちは教えられた通りに道を進み、やがて一つの建物の前へとたどり着いた。
周囲の工房が職人たちの生活感で溢れているのに対し、その建物だけはまるで外界との接触を拒絶するかのように静まり返っていた。
壁は黒ずんだレンガで覆われ、窓は固く閉ざされている。煙突からは時折、黄色や紫といった、およそ自然界には存在しないであろう色の煙がもくもくと立ち上っては空気に消えていく。
工房の入り口には重厚な木の扉。そこには一枚の金属板が打ち付けられていた。
『研究中につき、面会謝絶。緊急の要件は、扉の横の受け皿に要件を記した羊皮紙を置くこと。三日以内に返信なければ、要件は拒否されたものと見なすべし』
「……三日以内ですって? 随分と悠長な話だこと」
私はそのあまりにも非社交的な注意書きに、思わず呆れてしまった。
これでは交渉どころか、顔を合わせることすままならないではないか。
「どうしますか、お嬢様。言われた通りに手紙を?」
「いいえ、待っていられないわ。私たちの研究には一刻の猶予もないのよ!」
私はふんと鼻を鳴らすと、その重厚な扉に向かってずんずんと歩み寄った。
そして、備え付けられていた真鍮のドアノッカーを手に取り、遠慮なく叩きつけた。
がん、がん、がん!
静かな路地に、けたたましい音が鳴り渡る。
「ごめんください! エレノア先生! お話があってまいりました!」
私の呼びかけに、しかし扉の向こうからは何の反応もない。
しんと静まり返っている。
居留守を使っているのか、それとも本当に研究に没頭していて聞こえていないのか。
「もう一度よ!」
がん、がん、がん、がん!
先ほどよりもさらに強く扉を叩く。
「エレノア先生! あなたにとって有益な情報を持ってまいりました! 聞かなければ、必ずや後悔なさいますよ!」
少しだけ脅し文句を付け加えてみる。
すると。
ぎぃ、と錆びついた蝶番が軋むような鈍い音を立てて、重い扉がほんのわずかに、数センチだけ内側へと開いた。
そして、その隙間から一つの目がじろりとこちらを覗いていた。
細く、知性を感じさせる蒼い瞳。
その瞳の持ち主は、扉の隙間から私たちを品定めするように無言で見つめている。
やがて、低く不機嫌さを隠そうともしない女性の声がした。
「……何の用だ。私は忙しい」
声の主は、扉を完全に開ける気はさらさらないようだった。
これが、若き天才錬金術師、エレノア。
なるほど、噂に違わぬ偏屈さといったところね。
しかし、私はここで引き下がるわけにはいかない。
「突然の訪問、お許しください、エレノア先生。私はしがない薬師の卵。先生のその素晴らしい工房の設備を、ぜひお借りしたくまいりました」
「設備を貸せ、だと? ふざけるな。私の工房は見世物ではない。それに、見ず知らずの者に私の研究の心臓部を易々と見せるわけがなかろう」
「もちろん、ただでとは申しません。対価として、先生の研究に必ずや役立つであろう新しい理論をご提供いたします」
「……新しい理論?」
エレノアの蒼い瞳が、ほんのわずかに興味を示したように細められた。
よし、食いついてきたわ!
「ええ。先生は長年『賢者の石』の生成を研究されていると伺いました。その研究、おそらくある一点で壁にぶつかってはおりませんか?」
「……何が言いたい」
「四大元素を完全な比率で調和させ、万物を金に変える究極の触媒を生み出す……それが伝統的な錬金術の理論。しかし、その『調和』というあまりにも曖昧な概念に頼りすぎてはいませんか? 物質の変容とは、もっと明確で、もっと数学的な法則に基づいて行われるべきものなのです!」
私が前世の化学の知識をこの世界の言葉に翻訳しながら熱弁すると、扉の向こうのエレノアの気配が明らかに変わった。
先ほどまでの不機嫌さは消え、代わりにぴりぴりとした緊張感が伝わってくる。
「……お前は一体、何者だ。その思想は、万物の調和を重んじる錬金術の根幹を否定するものだ。冒涜的ですらある!」
「冒涜、大いに結構です! 真理の探求にタブーなど存在しません! 私が提唱するのは『化学』! 全ての物質は目に見えないほど小さな『原子』という粒子から構成されており、その組み合わせと結合のパターンを解明し制御することで、あらゆる物質を自在に生み出すことができるという、全く新しい学問です!」
私の、あまりにも革新的な、いや、この世界の常識からすれば異端としか言いようのない理論。
それを聞いたエレノアは数秒間、完全に沈黙した。
扉の隙間から覗く蒼い瞳が、まるで未知の生物を観察するかのように私をじっと見つめている。
やがて、彼女の口から氷のように冷たい声が放たれた。
「……帰れ」
「え?」
「その戯言には付き合っておれん。私の研究の邪魔をするな。二度とこの扉を叩くな」
ばたん!
その言葉と共に、扉は無慈悲に私の目の前で固く閉ざされた。
がちゃん、と内側からいくつもの閂がかけられる音がする。
「……」
私はしばし、その固く閉ざされた扉を前に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
交渉は、決裂。
それも、最悪の形で。
「……どうしましょうか、マリア。完全に嫌われてしまったみたいね」
私ががっくりと肩を落として振り返ると、マリアはいつも通りの無表情で静かに首を横に振った。
「いいえ、お嬢様」
「え?」
「あの目は、ただの拒絶の目ではございませんでした」
「と、言うと?」
「あれは……自分と全く同じ種類の人間を初めて見つけた時の……」
マリアはそこで一旦言葉を切った。
そして、その黒い瞳にほんのかすかな、楽しんでいるかのような光を浮かべて続けた。
「『同族嫌悪』と『強烈な好奇心』。その二つが入り交じった目でございました」
「……」
マリアのあまりにも的確な分析に、私は何も言い返すことができなかった。
確かにそうなのかもしれない。
私も彼女のあの、研究以外の全てを切り捨てたような純粋な探求者の目に、同じ種類の匂いを感じていたのだから。
研究者とは、時に誰よりも傲慢で誰よりも頑固で、そして誰よりも新しい知識に飢えている厄介な生き物なのだ。
「……まあ、いいわ」
私は気を取り直して、ぱんと手を叩いた。
「正面からの交渉が駄目なら、別の手を考えるまでよ。幸い、私たちの手にはまだ最強の切り札が残っているのだから」
「と、申しますと?」
「ふふふ。理論で駄目なら現物で示すまでよ」
私はにやりと不敵な笑みを浮かべた。




