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第十二話:最後の素材

 私たちは洋館に向かって、意気揚々と戻っていく。

 帰り道、私は何度も何度も、この出来事について熱くマリアに語った。


 何度も、事細かに。

 これは大事なことなので、何度でも話すのだ。


「ねえマリア! さっきのスープ、あの衝撃、もう一度、詳細に話すわね!」


 私はこの興奮を胸にマリアに話しかけ続けていた。


「お嬢様。洋館に戻るまでのこの道中、すでに十五回は同じお話を伺っております」


「十六回目は、もっと詳細に解説できるわ!あのね、グルタミン酸ナトリウムのカルボキシ基がね!」


「お気持ちは大変よく分かりますが、そろそろ息切れなさっておりますよ」


 私の止まらないマシンガントークを、マリアは柳に風と受け流す。しかし私の興奮は、もはや誰にも止められない。

 大事なことなので、何度でも話すべきだし、そうあるべきなのだ。


 そして、ついに洋館の重い扉をばたん!と蹴破るように開けた瞬間、私は持っていたグルンブ入りの麻袋をどさりと床に放り出した。すぐさまマリアの両肩を背後からがしりと掴み、ぶんぶんと揺さぶる。興奮で私の身体は、ぽかぽかと熱い。脳内では、うま味の分子たちが三日三晩ぶっ通しでサンバカーニバルを開催しているかのような、とんでもない騒がしさだ。


「聞いた!? 聞いたわよねマリア! あの崖にこだました私の魂の雄叫び! あの『キタアアアアア!』っていうやつよ!」


「はい、お嬢様。あまりの絶叫に、気絶していたワイバーンが再び目を覚ますかと。肝が冷えました」


「違うわよ! あれは歓喜の歌なのよ! イノシン酸とグルタミン酸、二つの偉大なるうま味が出会った瞬間にだけ奏でられる、味覚への賛歌なの! 脳内の快楽物質が勝手に!」


 私のあまりの熱量に、マリアは一歩だけ、ほんの少しだけ後ろに下がった。その黒い瞳には、暴走する主人を前にした時の、あの独特の諦観、あるいは『ああ、また始まった』という名の悟りの感情が静かに浮かんでいる。


「はあ、左様でございますか。とにかく、無事にご帰還できて何よりです。お怪我もございませんようで」


「無事? とんでもない! これはただの帰還じゃないわ! 人類の食文化における歴史的な大勝利なのよ! もう一度見て、見て、見てちょうだい、この戦利品を!」


 私は床に転がった麻袋を、凱旋将軍のようにビシッと指さす。袋の口からは、ぬめりと輝く深い緑色の海藻がはみ出していた。見ているだけで、あの脳髄を痺れさせるような味が蘇ってきて、口の中にじゅわっと唾液があふれ出して止まらない。


「ボアビーストのイノシン酸と、このグルンブのグルタミン酸!二つの神器は、今や我らの手にある!もう何も恐れるものはないわ!世界は私たちのものよ!ふはははは!」


「お嬢様、少々、声が大きすぎます。それと、世界は誰のものでもございません。まずはその泥だらけのブーツを脱ぐところから始めてはいかがでしょうか」


「細かいことはいいのよ! ああ、でも! まだ足りない! まだなのよ、マリア! この濃厚な味の源を、完全なるものへと昇華させるための、最後のピースが!」


 私は高笑いをぴたりと止めると、今度は悲劇のヒロインのように天を仰ぎ、指を一本、高々と突き上げた。その指先には、まだ見ぬ最後の素材の、神々しいまでの幻影が見えるようだった。


「グアニル酸! うま味の相乗効果を指数関数的に増大させる、魔法の触媒! 幻のきのこ、『グアニ茸』! あれさえ手に入れれば、私たちの『神への反逆』は、完成を見るのよ!」


「はい、理解しております。ですがお嬢様、そのお話は少しお休みになられてからにしてはいかがでしょうか。お顔が茹でダコのように真っ赤でございますし、それに息も上がっております。このままでは、お嬢様の脳の血管が何本か」


「何本か、何よ!?」


「いえ、何でもございません。とにかく、一度冷静になられるべきかと」


 マリアに指摘され、はたと気づく。確かに、興奮のあまり呼吸が浅くなっていた。それに、一日中動き回っていたせいで、身体の芯が少し冷えているような気もする。


「う……。で、でも、この高揚感をどうしてくれというの! 今なら私、新しい『科学魔法』の一つや二つ、編み出せそうな気がするわ! 例えば、空気中の二酸化炭素を固定してダイヤモンドを生成する『錬炭術式超硬化ダイヤモンド・ダスト』とか!」


「その素晴らしい魔法は、明日の冒険のために温存なさってください。すでにお風呂は沸いております。夕食には、温かいスープをご用意いたしますので」


「むぅ……スープですって……? ちなみに、どんな?」


「ボアビーストの骨とグルンブを合わせた、例のスープでございますが」


「入るわ! 今すぐ入るわお風呂!」


 マリアは私の単純な反応に、ほんのかすかに口元を緩ませると、有無を言わせぬ手つきで私の背中を押し、浴室の方へと促した。

 こうなった時のマリア、そしてうま味の誘惑には逆らえないのだ。


 私は少しだけ不満だったが、彼女の言う通り、まずは疲れた身体を休めることにしたのだった。



 翌朝。

 マリアの言う通り、ぐっすりと眠ったおかげで、私の身体はすっかり回復していた。脳もクリアで、思考は冴えわたっている。昨日の興奮は、今や冷静な探求心へと姿を変えていた。


「おはよう、マリア」


「おはようございます、お嬢様。よくお眠りになれたご様子。朝食の準備ができております」


 テーブルに並べられたのは、ボアビーストの干し肉とグルンブの粉末を練り込んだ、素朴なパン。そして、きのこのポタージュ。一口食べると、凝縮されたうま味が口いっぱいに広がり、全身の細胞が喜んでいるのが分かる。


「うん、美味しいわ。私たちの冒険の成果がこうして形になるのは、やっぱり嬉しいものね」


「お気に召して何よりです。それで、本日のご予定ですが」


「決まっているわ」


 私は最後のパンを口に放り込むと、きりりとした表情でマリアを見つめた。


「最後の神器、『グアニ茸』を頂きに参りましょう。目的地は、『賢者の迷宮』よ!」


 私の宣言に、マリアは静かに頷いた。


「かしこまりました。準備はすでに整っております」


 玄関ホールには、昨日と同じように、冒険のための装備一式が申し分ない状態で用意されていた。ロープは新しいものに交換され、携帯食料も補充されている。ナイフの刃は、鋭く研ぎ澄まされていた。

 このメイドの仕事の速さと正確さには、もはや驚きもしない。


「ありがとう、マリア。あなたがいれば、どんな迷宮だって攻略できる気がするわ」


「もったいないお言葉です。ですが、お嬢様。今回の目的地は、これまでとは少し勝手が違います。村の古老の話では、生きて帰ってきた者はいない、とのこと。くれぐれも、油断はなさいませんように」


「分かっているわ。だからこそ、燃えるんじゃない!」


 革鎧を身に着け、背嚢を背負う。その手慣れた動作は、もはや公爵令嬢のそれではない。完全に、辺境の冒険者のものだった。

 私たちは、顔を見合わせると力強く頷き合い、洋館の扉を開けた。

 目指すは、この辺境の地のさらに奥深く。いまだ誰も踏破したことのない、未知なるダンジョン。

 私の胸は、最高の素材への期待と、少しばかりの冒険へのスリルで、わくわくと高鳴っていた。



『賢者の迷宮』の入り口は、巨大な岩が折り重なってできた、天然の洞窟のようだった。ごう、と不気味な風が暗い闇の奥から吹き出してきて、私たちの髪を揺らす。ひんやりとした湿った土と苔の匂い。そして、どこか時間の止まってしまったような、古い石の匂いがした。


「ここが、入り口……」


「はい。この奥に、グアニ茸が眠っている、と」


 マリアはナイフを抜き放ち、警戒を解かない。私も、いつでも『科学魔法』を発動できるよう、意識を集中させた。


「よし、行きましょうか。私たちの、最後の冒険の始まりよ!」


 私の威勢のいい掛け声と共に、私たちは暗い洞窟の中へと、その第一歩を踏み出した。


 洞窟の中は、壁に自生する光ゴケがぼんやりと青白い光を放っており、視界はかろうじて確保できた。道は一本道で、しばらくは特に変わった様子もない。


「なんだか、拍子抜けするくらい普通の洞窟ね」


 私がそう呟いた、その時だった。

 前を歩いていたマリアが、ぴたりと足を止めた。


「お嬢様。お静かに」


「え?」


 彼女の視線の先。

 床の一部が、ほんのわずかに周りの地面よりも色が濃くなっているのが見て取れた。


「……何かあるの?」


「おそらく、感圧式の罠かと。この床を踏めば、天井が落ちてくるか左右の壁から矢が飛んでくるか。そのどちらかでございましょう」


「な……!?」


 マリアのあまりにも冷静な分析に、私は言葉を失った。言われてみれば、確かに不自然だ。


「な、なんで分かるのよ!?」


「メイドとしての経験と勘でございます」


 また、それだ。

 どこの世界に、ダンジョンの罠を見抜く経験を積んだメイドがいるというのだろうか。

 しかし、彼女の言うことは、おそらく正しい。


「なるほどね……。でも、実験と観察によっても、その推測は裏付けられるわ」


 私は懐から小さな石を取り出すと、その色の違う床に向かって、ぽいと投げた。

 石が床に当たった瞬間。


 カシュンッ!


 鋭い音と共に、左右の壁に隠されていた小さな穴から何本もの矢が猛烈な勢いで飛び出してきた。矢は、私たちがいた空間を通り抜け、反対側の壁にずぶずぶと深く突き刺さる。


「ひっ……!」


 もし、何も知らずにあの床を踏んでいたら、今頃私たちはハリネZミのようになっていただろう。


「……見事な分析ね、マリア。でも、どうして分かったの? 何かの根拠でもあったの?」


「その床板の下から、ごくかすかなバネの軋む音が聞こえましたので」


「……耳が良すぎるわよ、あなた」


「それと、この洞窟の空気の流れが、あの床板の周辺だけわずかに乱れておりました。壁に矢を射出するための、巧妙な送風孔が隠されている証拠です」


「……」


 私の出る幕が、全くない。

 マリアは、私の科学知識などなくても、一人でこの迷宮を攻略できてしまうのではないだろうか。

 いや、いけない。そんな弱気では、彼女の主人として威厳が保てない。


「ふ、ふん! その程度の罠、私にかかれば朝飯前よ! さあ、次に行くわよ!」


 私は見栄を張るようにそう言って、マリアを追い越して先に進もうとした。

 しかし、その私の腕を、マリアががしりと掴んで止めた。


「お待ちください、お嬢様」


「な、何よ!」


「一つの罠があれば、必ず連動した第二、第三の罠がございます。それが、この手の迷宮の設計における基本的な思想ですので」


 彼女がそう言った、直後だった。

 先ほど矢が突き刺さった壁の一部が、ごごごと重たい音を立てて動き出し、私たちの背後の通路を完全に塞いでしまったのだ。


「な……!?」


「退路を断つための仕掛けですね。これで、私たちは前に進むしかなくなりました」


 マリアは、どこまでも冷静だった。

 私は、背中にじっとりと冷たい汗が流れるのを感じていた。

 このメイド、あまりにも頼りになりすぎる……!


 私たちはその後も、次々と現れる罠を協力して突破していった。

 床が突然抜け落ちる落とし穴は、私が音の反響を分析して空洞の場所を特定し、マリアがその驚異的な身体能力で数メートルの距離を軽々と飛び越えてみせた。

 巨大な岩が転がってくる通路では、私が斜面の角度と岩の質量から安全な退避スペースを瞬時に計算し、マリアが私を小脇に抱えてその場所まで猛ダッシュした。

 壁に描かれた、一見意味不明な模様が並んだ扉は、私がそれを一種の数列暗号であると見抜き、その法則性を解読して正しいパネルを順番に押すことで開いた。マリアは、その間私の背後で、いつどこから敵が襲ってきてもいいようにナイフを構えて警戒を続けていた。


 私の分析力と、マリアの超人的な身体能力と、謎に満ちた経験則。

 一見ちぐはぐに見える二人の力が、この『賢者の迷宮』の中では不思議なほどうまく噛み合っていた。


「どう、マリア! 私たち、最強のコンビじゃない!?」


「はい。お嬢様のその、常軌を逸した推理能力がなければ、とっくに私もこの迷宮の藻屑と消えておりました」


「あなたも、その人間離れした動きがなければ、私の推理が正しくても実行不可能だったわよ!」


 私たちは互いの能力を認め合い、迷宮のさらに奥深くへと進んでいく。


 やがて、私たちは一つの広大な空間へとたどり着いた。

 ドーム状になった、巨大な空洞。

 そして、その中央に。


「……あった」


 私の口から、かすれた声が漏れた。

 そこには、一本の巨大なきのこが、まるで王のように鎮座していた。

 高さは、私の背丈ほどもある。

 カサの部分は美しい瑠璃色をしており、そこから、ぼうっと月のような幻想的な青白い光が放たれている。

 その光が、ドーム全体を神秘的な色合いで照らし出していた。

 周囲には、その巨大なきのこを守るかのように、同じように光を放つ小さなきのこたちが無数に群生している。


 間違いない。


「『グアニ茸』……!」


 私たちは、しばしそのあまりにも美しい光景に、言葉を失って見入っていた。

 何の罠もない。

 ただ、静かで荘厳な空間が、そこに広がっているだけだった。


「……行きましょう、マリア」


「はい」


 私たちは、まるで神聖な祭壇にでも近づくかのように、ゆっくりと中央の巨大なグアニ茸へと歩み寄った。

 近づくにつれて、きのこが放つ光が私たちの顔を青白く照らし出す。

 ひんやりとした清浄な空気。そして、土とどこか甘い蜜のような、不思議な香りがした。


「すごい……。これは生物発光……。ルシフェリンという発光物質が、ルシフェラーゼっていう酵素によって酸化される時に生じる化学エネルギーを、光エネルギーに変換しているのね……。なんて効率的なシステムなのかしら……」


 私は科学者としての性で、目の前の現象を分析してしまう。

 しかし、そんな無粋な理屈などどうでもよくなってしまうほど、このグアニ茸はただひたすらに美しかった。


 私は、そっとそのカサの部分に手を伸ばした。

 ひんやりとして、すべすべとした感触。まるで、磨き上げられた陶器のようだ。

 私はマリアからナイフを受け取ると、その巨大なグアニ茸の根元にそっと刃を入れた。

 何の抵抗もなく、さくりと。

 心地よい音を立てて、グアニ茸はその台座から切り離された。


 私は、その光り輝くきのこを宝物を扱うようにそっと持ち上げた。

 ずしりと、心地よい重みが腕に伝わってくる。


「やった……やったわ、マリア……!」


 私の声は、感動でわずかに上ずっていた。


「これで、三つの神器が、全て揃ったのよ……!」


 イノシン酸。

 グルタミン酸。

 そして、グアニル酸。


 ボアビーストの骨。グルンブ。そして、このグアニ茸。

 私の新たなる人生の目標。

 そのための全ての材料が、今この手に!


「ふふ、ふふふ……! ああ、早く洋館に帰って実験がしたい! この三つが合わさった時、一体どんな奇跡が起きるのか……! 考えただけで、全身が粟立つようだわ!」


 私が狂喜乱舞していると、マリアが私の肩をぽんと優しく叩いた。


「お喜びのところ、大変申し訳ございません、お嬢様」


「な、何よ、マリア! この歴史的瞬間を、あなたも一緒に祝いなさい!」


「いえ。それよりも、今は一刻も早くここから脱出することをお勧めいたします」


「え?」


 マリアが、静かにドームの入り口の方を指さした。

 私たちがグアニ茸を採取した、その瞬間から。

 今まで静かだった迷宮が、ごごごごごと、地鳴りのような音を立てて崩れ始めているではないか。


「……もしかして、このきのこがこの迷宮の動力源というか、そういうものだったのかしら……?」


「そのようでございますね。いわゆる、『お宝を取ると崩れ始めるダンジョン』の典型的なパターンかと」


「なんで、そんなに詳しいのよ!?」


「さあ、お嬢様! 走りますよ!」


 マリアは、巨大なグアニ茸を抱えた私を再びひょいと小脇に抱え上げると、来た道を猛烈な勢いで引き返し始めたのだった。



 命からがら、崩れ落ちる『賢者の迷宮』から脱出した私たちは、洋館へと帰還した。

 私は少しばかり煤で汚れたものの、小脇に抱えられたおかげでほぼ無傷だった。腕の中のグアニ茸も、マリアがクッションになってくれたおかげで傷一つついていない。


「ふぅ……。まさか、あんな古典的な罠が待っているなんて、思わなかったわ……」


 リビングのソファに、ぐったりと身体を預けながら私は呟いた。


「何はともあれ、これで全ての素材が揃いましたね、お嬢様」


 マリアが、テーブルの上に私たちの冒険の成果を並べていく。

 乾燥させて粉末状にした、ボアビーストの骨の塊。

 同じく、乾燥させて細かく刻んだ、グルンブ。

 そして、今しがた手に入れたばかりの、まだぼんやりと青白い光を放ち続けているグアニ茸。


 三種の神器。

 それを前にして、私の胸は再び熱いもので満たされていった。


「ええ……! ついに、この時が来たのよ! これから、究極の化学調味料、『神への反逆』の精製を始めるわ!」


 私は、ばっと立ち上がると、地下の実験室へと向かおうとした。

 しかし。

 そこで、私の足はぴたりと止まった。


 ある、重大な問題点に気がついてしまったのだ。

 そうだ。

 それぞれの素材からうま味成分を『抽出』することは、この洋館のマリアが改修してくれた、あの素晴らしい実験室でも可能だろう。

 しかし。

 それを、不純物を完全に取り除き純度を高め、最終的に雪のような純粋な『結晶』として取り出す……つまり、『精製』するには?


「……駄目だわ」


 ぽつりと、私の口から絶望的な言葉が漏れた。


「どうかなさいましたか、お嬢様」


「この洋館の設備じゃ、無理よ……。純粋な結晶を精製するには、もっと、もっと高度な設備が必要だわ……。圧力を自在にコントロールできる減圧蒸留装置、微細な不純物まで濾し取れる特殊な濾過器、そして結晶化の過程を精密に管理するための恒温槽……。そんなもの、こんな辺境の錬金術工房を改造しただけの場所にあるはずがない……!」


 私の夢は、最後の最後、ゴールテープの目の前であまりにも現実的な壁にぶち当たってしまった。

 せっかく命がけで最高の素材を集めてきたというのに。

 これでは、宝の持ち腐れではないか。

 私は、がっくりとその場に膝から崩れ落ちそうになった。


 しかし、そんな私の肩を、マリアの小さな手が優しく支えてくれた。


「……お嬢様」


「マリア……。私、どうしたら……」


「ならば、行けばよろしいのではございませんか」


「え?」


 マリアは、その黒い瞳でまっすぐに私を見つめて言った。


「その、『高度な設備』とやらがある場所へ」


 その言葉に、私ははっとした。

 そうだ。

 なにも、この場所で全てを完結させる必要などないのだ。

 この世界で最も技術が進み、最も設備が整っている場所。

 そんな場所は、一つしか思い当たらない。


「……王都……」


「はい。王都には錬金術師ギルドをはじめ、数多くの工房がございます。中には、お嬢様のお眼鏡にかなう設備を持つ場所も、一つや二つあるかもしれません」


「でも……!私は追放された身よ?アシュフォード公爵令嬢として、王都に足を踏み入れることなんて、できるはずが……」


「ならば、『アシュフォード公爵令嬢』としてでなければ、よろしいのでは?」


 マリアは、にこりと。

 本当に、かすかに口元だけで微笑んでみせた。

 その笑みは、何かとんでもない悪戯でも思いついた子供のようだった。


「身分を隠し、別人として王都へ向かうのです。幸い、私たちの顔を知る者は貴族社会の一部に限られます。平民街に紛れてしまえば、誰も、お嬢様があの公爵令嬢であるとは気づきますまい」


「身分を、隠して……」


 その、あまりにも大胆な提案に、私の頭は最初ついていけなかった。

 しかし、すぐにそのアイデアがとてつもない可能性を秘めていることに気がついた。


 そうだ。


 追放された公爵令嬢としての私は、もういないのだ。


 今の私は、ただの食料探求家。

 ならば、その探求家として新たなフロンティアを目指すのは、当然のことではないか。


「……決めたわ」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、もはや迷いはない。


「行きましょう、マリア。王都へ!」


 私の決意に、マリアは満足そうに深く、深く頷いた。


「かしこまりました。して、どのような身分で王都へ?」


「そうね……」


 私は、少しだけ考えると、いたずらっぽくにやりと笑ってみせた。


「腕利きの薬師か、あるいは……」


 ただのラーメン屋、とかね!


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