第十話:崖の上の決戦
ボアビーストの骨から抽出した、あの純白のスープ。舌の上でなめらかに広がるコラーゲンと、脳を直接揺さぶるようなイノシン酸の強烈なうま味。あの感動を思い出すたび、私の口の中にはじゅわっと唾液があふれ出してくる。あれはまさしく、私が追い求めていた『ラーメンの魂』への、輝かしい第一の足跡だった。
しかし、まだだ。まだ足りない。イノシン酸という力強い主役だけでは、最高の味は完成しない。彼と共演することで魅力を何十倍にも増幅させる、もう一人の主役が必要不可欠なのだ。
グルタミン酸。
海のうま味の王様。
その王様が眠るという次なる目的地へと、私たちの足は自然と向いていた。
「しかし、すごい名前よね。『セイレーンの涙』だなんて」
道なき道を進みながら、私は隣を歩くマリアに話しかけた。ボアビーストの皮をなめして作ってもらった新しい革鎧は、驚くほど身体に馴染み以前のものよりずっと動きやすい。これもマリアが村の職人に『お願い』して、一晩で仕上げさせた特注品だ。彼女の交渉術、いや、脅迫術は、もはや神の領域に達しているのかもしれない。
「海の魔物セイレーンが叶わぬ恋に嘆き悲しみ、その身を投げて流した涙が崖の岩肌に染みついてできた場所。そのような伝承がこの地方には残っているそうでございます」
マリアは周囲への警戒を少しも怠ることなく、淡々と答えた。その手には、ボアビーストの牙を削り出して作った新しいナイフが握られている。これもまた、マリアが一晩で(以下略)。
「あら、ロマンチックじゃない。でも実際はただの地名で、そんな美しい話とは無縁の危険な場所なんでしょう?」
「はい。村の漁師によれば、その崖に近づいた船は必ず翼を持つ竜に襲われ、海の藻屑と消える、と。セイレーンの涙とは、魔物に食われた船乗りたちの無念の涙なのかもしれません」
「……急に話が物騒になったわね」
私たちはしばらく無言で歩き続けた。森を抜け、岩がちな荒野を越え、やがて、ごう、と地鳴りのような音が前方から聞こえ始めた。それと同時に、鼻腔をくすぐるしょっぱい潮の香り。
「見えてきたわね……!」
視界が開けた先に広がっていたのは、まさしく絶景だった。どこまでも続く紺碧の海。しかしその穏やかな表情とは裏腹に、海岸線は巨大な獣が大地を食いちぎったかのような、荒々しい断崖絶壁がどこまでも続いていた。
ごおおおおっ、と。巨大な波が牙のように尖った黒い岩肌に叩きつけられ、真っ白な飛沫となって砕け散る。その音は腹の底に届くほど重たく、そして強烈だ。
「ここが、『セイレーンの涙』……」
私はその圧倒的な自然の造形美と、同時にそこに潜む抗いがたい暴力の気配に、ごくりと唾を飲んだ。マリアが崖の縁から慎重に下を覗き込み、静かに指をさした。
「お嬢様。あれが、我々の目標物、『グルンブ』かと」
私も彼女の隣で、こわごわと崖下を見下ろした。高さは五十メートル以上はあるだろうか。ほぼ垂直に切り立った崖の中腹あたり、ちょうど波しぶきが絶え間なくかかる場所に、ぬめりとした光沢を放つ巨大な海藻が、びっしりと張り付くように群生していた。
色は深い緑色。長さは一枚だけでも数メートルはありそうだ。
あれがグルンブ。海のグルタミン酸の塊。間違いない。あのぬめり、あの色、あの形状。私の研究者としての勘が、あれこそが最高の素材だと高らかに告げていた。
「素晴らしいわ……! まさしく、うま味の絨毯じゃない!」
しかし、私の興奮とは裏腹に、事態はそう簡単ではなかった。グルンブが生えているのは崖の中腹。上からロープを垂らして降りるにしても足場がほとんどなく、常に荒波に晒され続けることになる。並大抵の技術では、採取どころか命を落としかねない。
「そして……あちらが、この場所の主でございますね」
マリアが今度は崖の少し上方を指さした。見ると、崖にぽっかりと空いた巨大な洞穴。その入り口付近の岩棚に、一頭の魔物が翼を休めていた。
全長は五メートルほどだろうか。爬虫類のような硬質で青みがかった鱗に覆われた身体。鞭のようにしなやかな長い尾。そして背中には、蝙蝠のそれによく似た巨大な皮膜の翼。鋭い鉤爪のついた足で器用に岩肌を掴み、時折、鷲のように鋭い嘴で自らの羽繕いをしている。
間違いない。あれがこの『セイレーンの涙』を縄張りとする、海竜種の魔物、ワイバーン。その姿は一種の機能美に満ちており、恐ろしいというより、むしろ美しいとさえ感じられた。もっとも、あれがこちらに敵意を向けた瞬間、その感想は悲鳴に変わることになるのだろうけれど。
「……さて、どうしましょうか、マリア」
私は腕を組んで、眼下の状況を分析する。
「目標は崖の中腹。障害は高低差、荒波、そして空のハンター。普通に考えれば攻略は不可能に近いわね」
「私があちらの注意を引きつけます。その隙にお嬢様が……」
「駄目よ」
私はマリアの提案をきっぱりと遮った。
「あなたの戦闘能力が人間離れしていることは、もう嫌というほど分かったわ。でも相手は空を飛ぶのよ。地上での戦いとはわけが違う。三次元的な動きに対応するのは、いくらあなたでも至難の業でしょう」
ボアビーストの時のように、マリア一人に全てを押し付けるつもりはもうなかった。前回の失敗は、私の計画があまりにも現実を無視した『机上の空論』であったからだ。だが、今回は違う。目の前にある現実。地形、天候、敵の能力。それら全ての要素を私の科学知識というフィルターを通して再構築し、勝利への最も確実な方程式を導き出す。それこそが、私の研究者としての戦い方なのだから。
「それに、あなたにはもっと重要な役目があるわ、マリア」
「と、申しますと」
「ふふふ。これから私の立てる作戦を聞けば分かるわよ」
私はにやりと不敵な笑みを浮かべると、マリアが用意してくれた地図を地面に広げた。
「いい、マリア? これから私たちの取るべき作戦を説明するわ。名付けて、『ベルヌーイの定理と作用・反作用の法則を利用した、対飛行物体用超高高度捕縛作戦』よ!」
「……前回よりもさらに長くなりましたね」
「科学的な正しさを追求した結果よ! まず、この地形を見てちょうだい」
私は崖の断面図を指さした。
「この崖はただの壁じゃないわ。よく見ると海面に近い部分が少しだけ内側に抉れているの。そしてその上は逆に少しだけ海側に突き出している。このわずかなくびれが、今回の作戦の最も重要な鍵になるのよ」
「はあ」
「次に、風。この崖には海から陸に向かって常に強い風が吹き付けているわ。そしてその風がこの崖にぶつかることで、何が起きるか分かる?」
「……上昇気流、でございますか」
「その通りよ! さすがね、マリア! 空気の流れが障害物にぶつかることで、行き場を失った空気は上へと押し上げられる。この崖は、いわば自然が作り出した巨大な上昇気流発生装置なのよ!」
私の説明に、マリアはこくりと静かに頷いた。彼女がどこでそんな航空力学の知識を身につけたのかという疑問は、もはや私の頭には浮かんでこなかった。彼女なら知っていて当然。そんな風に、私の思考も徐々にマリア色に染まりつつあるのかもしれない。
「ワイバーンは、この上昇気流を巧みに利用して体力を消耗することなく、この崖の上空を滑空しているはずよ。つまり、この風こそが彼の力の源。ならばその力を、逆に利用してやればいいのよ!」
私の瞳は新しい実験器具を前にした子供のように、好奇心に満ちていたに違いない。
「作戦の概要を説明するわ。まず、マリア。あなたにはこの崖のくびれた部分、ちょうどグルンブが生えているあたりまでロープを使って降りてもらうわ」
「かしこまりました」
「そしてそこでわざとワイバーンを挑発するの。グルンブを採取するふりでも何でもいいわ。とにかく彼の怒りを買って、あなたに向かって一直線に突っ込ませるのよ」
「……私が囮、ですね。了解いたしました」
「もちろん、ただの囮じゃないわ。ワイバーンがあなたを捕らえようと、その鉤爪を伸ばして崖に最接近した、その瞬間!」
私は地図の上に一本の線を引いた。
「この崖の上にいる私が、これを崖下に向かって投下する!」
私が背嚢から取り出して見せたのは、ボアビーストの皮を細く裂いて作った丈夫な革紐と、予備のマントを解体して作った巨大な布だった。
「これは……?」
「巨大な凧、とでも言えば分かるかしら。私がこの革紐と布を組み合わせて即席で作った、『対ワイバーン用捕縛ネット兼、パラアンカー』よ!」
それは巨大な網のようでもあり、落下傘のようでもある、不思議な代物だった。
「これを突っ込んでくるワイバーンの頭上から被せるのよ。網が彼の動きを封じ、そしてこの巨大な布が風を孕むことでブレーキの役割を果たす。ベルヌーイの定理によれば、翼の上面と下面の空気の流速差によって揚力、つまり上に持ち上がろうとする力が発生するわ。この巨大な布はその揚力を意図的に乱し、失速させるためのもの。つまり飛ぶ力を根こそぎ奪ってやるのよ!」
「なるほど」
「飛ぶ力を失い、網に絡め取られたワイバーンはどうなると思う?」
「……自重で落下する、と」
「その通り! そして落下した先にあるのは、この崖の抉れた部分! 作用・反作用の法則よ! 彼が落下しようとする力は、そのまま彼自身を崖の岩肌にものすごい勢いで叩きつける力へと変わる! まともに喰らえば、いくらワイバーンでもただでは済まないはずよ!」
どうだ、と言わんばかりに胸を張る私に、マリアは数秒間何かを考えるように黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「……お嬢様。その作戦には、いくつかの致命的な問題点があるかと」
「な、なんですって!?」
「第一に、その即席の凧がワイバーンの力に耐えきれるという保証がございません。第二に、ワイバーンがお嬢様の計算通りにまっすぐ突っ込んできてくれるとは限りません。第三に、もしワイバーンが落下した際、そのすぐ下にいる私が巻き添えを食う可能性が非常に高いのですが」
マリアのあまりに冷静で的確な指摘に、私の自信は急速に失われていった。確かに彼女の言う通りだ。私の計画は、あまりにも前提条件が楽観的すぎる。前回の失敗から、何も学んでいないではないか……!
「う……。で、でも、他に方法が……」
私がしどろもどろになっていると、マリアはふっとかすかに息を吐いた。
「……ですが」
「え?」
「やってみる価値は、あるかと」
「ほ、本当!?」
「はい。お嬢様のその、常人には理解しがたい発想は、時として常識では考えられない結果を生み出すことがございますので。それに」
マリアはそこで一旦言葉を切ると、私の目をまっすぐに見て言った。
「お嬢様がただ私に全てを任せるのではなく、ご自身の頭で考え、共に戦おうとしてくださる。そのお気持ちが私にとっては、何より嬉しいので」
その黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ春の日差しのような穏やかな温かみが感じられたのは、きっと気のせいではないだろう。私の顔がかあっと熱くなるのを感じた。
「な、何を言ってるのよマリア! べ、別にあなたのためなんかじゃないんだから! 全ては最高のグルタミン酸のためよ!」
私はぷいっとそっぽを向いて早口でそう言った。そんな私の様子を、マリアはどこか楽しむような雰囲気で静かに見つめていた。
「さあ! ぐずぐずしている暇はないわ! 早速、準備に取り掛かるわよ!」
私は照れ隠しのようにそう叫ぶと、捕縛用の凧の最終調整に取り掛かったのだった。
◇
作戦準備は滞りなく進んだ。マリアはまるで重力など存在しないかのように、ロープ一本ですいすいと崖を降りていく。その姿はもはや見慣れた光景となりつつあった。
やがて彼女が目的のポイントに到達し、下から合図を送ってくる。私も崖の縁、風上に立ち、巨大な凧を抱えてその時を待った。
ごう、と海風が私の髪を激しく揺らす。ずしりと重い凧が風を受けて、ばたばたと暴れるように音を立てた。
下を見ると、マリアがわざと大きな音を立ててグルンブをナイフで削り始めた。その行為が、崖の主の逆鱗に触れたらしい。
キシャアアアアアアアッ!
甲高い、耳をつんざくような咆哮が崖全体にこだました。
巣から飛び立ったワイバーンが翼を大きく広げ、空中で一度大きく旋回する。
そして、その鋭い瞳が崖の中腹にいる小さな侵入者、マリアを確かに捉えた。
来た。
太陽を背に、巨大なシルエットがマリアめがけて一直線に降下を開始する。
速い!
その速度はボアビーストの突進の比ではない。
まるで黒い矢のようだ。
私の額にじっとりと冷たい汗がにじむ。
計算、計算、計算。ワイバーンの速度、角度、風の強さ、凧の重さ、空気抵抗。私の脳内で無数のパラメータが高速で計算されていく。
タイミングを誤れば全てが水の泡だ。
マリアがやられてしまう。
まだだ。
まだ早い。
引きつけて、引きつけて……。
ワイバーンの鉤爪がマリアに届くまで、あと十メートル。
五メートル。
三メートル。
「――今よッ!」
私はありったけの力で抱えていた巨大な凧を、崖下へと投げ放った。
巨大な布がばさりと音を立てて風を孕む。
そして私の計算通り、それはワイバーンの頭上を覆い尽くすように広がっていった。
グエッ!?
不意打ちにワイバーンが間抜けな声を上げる。
視界を奪われ、巨大な網に翼を絡め取られた彼は、急ブレーキをかけようと必死に翼をばたつかせた。
しかしその動きが、逆に網をより深く体に食い込ませる結果となる。
ぶわっと凧が巨大な風船のように膨らみ、ワイバーンの飛翔を無理やりその場に縫い止める。
「かかった……!」
しかし、まだだ。
ワイバーンはもがき暴れ、必死に空へと逃れようとしている。
その力は凄まじく、凧を繋ぐ革紐がぎちぎちと悲鳴を上げていた。
このままでは引きちぎられてしまう!
「マリアッ!」
私が叫ぶのとマリアが動くのは、ほぼ同時だった。
彼女は暴れるワイバーンのすぐ下にいたにもかかわらず、少しも慌てる様子を見せず崖の岩肌を蹴った。
そして信じられないことに、網から垂れ下がっていた革紐の一本を空中で正確に掴み取ったのだ。
「な……!?」
彼女はその革紐を近くの鋭く尖った岩に、ぐるぐるとものすごい速さで巻き付けていく。
即席のウインチだ。
これで凧は崖に完全に固定された。
もはやワイバーンに逃れる術はない。
ギシャアアアアアッ!
怒り狂ったワイバーンが最後の抵抗とばかりに、その長い首を伸ばしマリアに噛みつこうとする。
しかし、それももう遅い。
「これで、終わりよ! 『高圧水流』!」
私が崖の上から放った見えない水の刃が、シュッという鋭い音と共にワイバーンの翼の付け根、皮膜の最も薄い部分を正確に貫いた。
ブシャアアアッ!
緑色の体液が噴水のように派手に噴き出す。
翼の揚力を完全に失ったワイバーンの巨体は、もはや自らの重さを支えることができず、ぐらりと大きく傾いた。
そして。
私の計算通り。
その巨体は、崖の抉れた部分に激しく叩きつけられた。
ゴガアアアアアアアンッ!
崖全体がぐらりと揺れるほどの凄まじい衝撃音がした。
岩が砕け、土煙がもうもうと舞い上がる。
数秒後、煙が晴れた先にあったのは、ぐったりと動かなくなったワイバーンの姿だった。
頭からだらだらと体液を流し、気絶しているようだ。
「……」
「……」
私とマリアは、しばしその光景を無言で見つめていた。
崖には静寂が戻る。
聞こえるのは、ざあ、ざあ、という波の音だけだ。
「……やった……」
ぽつり、と私の口からかすれた声が漏れた。
「やったわマリア! 作戦、大成功よ!」
私はその場にへなへなと座り込みながら、崖の下にいるマリアに向かって力いっぱい手を振った。
マリアはそんな私を見上げると、そのいつも通りの無表情の中にほんの少しだけ安堵のようなものを滲ませ、小さく頷き返してくれた。
その瞬間、今までの緊張がどっと解けていくのが自分でも分かった。
ボアビーストの時とは違う。今回は私の知識と計画が勝利へと繋がったのだ。その事実が、何よりも嬉しかった。
「さて、と。それじゃあ、気絶しているうちにさっさと目的のものを、いただいてしまいましょうか!」
私は気を取り直して立ち上がった。そう。私たちの戦いはまだ終わっていない。これからメインディッシュである、グルンブの採取が待っているのだから。
崖の下では、マリアがすでにナイフを片手に、ぬめぬめと輝く巨大な海藻の壁へと取り付こうとしていた。