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第一話:覚醒

 うっすらとした光が見えた。

 目を閉じている。


 私の瞼の裏側に広がるのは、どこまでも続く暗闇だけだった。

 赤黒いような、それでいて温度のない、ただひたすらに深い闇。

 身体の感覚は曖昧で、まるで自分という存在がぬるま湯の中に不定形に広がってしまったかのようだ。


 熱い。


 思考の全てがその一言に集約されては霧散していく。脳が茹だり、骨の髄まで熱が浸透していくような不快感。

 だらだらと流れる汗が気持ち悪く、身じろぎしようにも身体は泥に沈んだように重たくて指一本動かせない。


 ああ、私は、このまま死んでしまうのだろうか。


 そんな他人事のような感想が、ぼんやりと浮かんだ。


 アシュフォード公爵令嬢。それが、今の私の名前。


 そう……だったはずだ。


 きらびやかなシャンデリアの光。硬質な大理石の床。幾重にも重なった豪奢なドレスの感触。私を称賛し、羨望の眼差しを向ける取り巻きたちの顔、顔、顔。

 それら全てが、遠い昔の出来事のようだった。


 断罪。

 婚約破棄。

 追放。


 まるで出来の悪い三文芝居の台本をなぞるように、次々と脳裏に単語が明滅する。

 腹違いの妹、イザベラ。天使のような貌を涙で濡らし、か細い声で私の『罪』を告発していた。婚約者であった殿下はその涙を真に受けて、正義の執行者気取りで私を指さした。周囲の貴族たちは蜘蛛の子を散らすように私から離れていき、代わりに侮蔑と嘲笑の視線を投げつけてきた。

 全てを失った私が、一頭立ての粗末な馬車に押し込められ王都から追いやられたのは、もうどれくらい前のことだったか。

 がたがたと揺れる馬車の中、私は何を考えていたのだろう。

 不思議と、思い出せない。ただ、身体の芯がどんどん冷えていくような、そんな感覚だけが記憶の澱の底に残っている。


 辺境。

 そう、ここは追放先の辺境の地。


 古びた洋館に到着するなり私は崩れ落ちて……それからの記憶がない。


 今のこの状態は、その続き。


 つまり私は、みっともなく熱に浮かされ生死の境をさまよっているというわけだ。


 公爵令嬢としての矜持も何もない、無様な姿。

 それでも、もうどうでもいいと思ってしまう自分がいた。

 もう、疲れてしまった。

 このまま意識の海に沈んで、全てを終わらせてしまうのも一つの救いなのかもしれない。


 そう、諦めかけた、その時だった。


「……様……お嬢様……」


 誰かが、私を呼んでいる。

 硬質で抑揚のない、けれどどこか聞き慣れた声。

 その声が、深く沈みかけていた私の意識に一本の錨を打ち込んだかのようだった。


「お嬢様、お分かりになりますか」


 ひやりとした心地よい冷たさが額に触れる。濡れた布の感触。誰かが、私を看病してくれている。

 ああ、そうだ。この声は。


「……マリア……?」


 かすれきった、自分のものではないような声が喉から絞り出された。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、鉛のように重たい瞼を押し上げる。

 ぼやけた視界が徐々に焦点を結んでいく。

 天井の染み。年季の入った木製の天蓋。そして、ベッドの傍らから感情の読めない黒い瞳でこちらを見下ろす、メイド服姿の女性。

 艶やかな黒髪をきっちりとまとめ、一糸の乱れもないその姿は、私が幼い頃からずっとそばにいた専属メイドのマリアその人だった。


「お目覚めになられましたか、お嬢様」

「……はい……」


 安堵したのだろうか。自分でもよく分からない。ただ、見知った顔がそこにあるという事実が、荒れ狂う思考の海に投げ込まれた小さな浮き輪のように感じられた。

 マリアは表情一つ変えずに、てきぱきと新しい濡れ布を準備している。


「三日三晩、高熱にうなされておりました。お命に別状はないかと心配いたしました」

「……そうなのね。私、そんなに寝込んでいたのね……」


 道理で身体の節々が痛むわけだ。まるで、誰かに全身を打ち据えられたかのよう。

 マリアは私の額の布を交換しながら、淡々と続ける。


「お水をお持ちします。何か他に望むものはございますか」


 望むもの。


 その言葉が、私の意識の奥深く、固く閉ざされていたはずの扉をこじ開けた。


 それは衝動だった。

 唐突で理不尽で、あまりにも場違いな抑えようのない欲求。

 熱に浮かされた脳が、正常な判断力を失わせているのかもしれない。


 アシュフォード公爵令嬢として、絶対に口にしてはならない言葉。


 けれど、その欲求は追放の絶望も病の苦痛も、全てを塗りつぶすほどに強烈で鮮明だった。


 そうだ。

 私が、心の底から求めているもの。


 人生の最後に、もし許されるのならばどうしても口にしたいもの。


 私の唇が、勝手に動いた。

 そして、紡ぎ出した言葉は。


「……ラーメンが、食べたい」


 しん、と。


 部屋の空気が凍りついた。

 いや、凍りついたように感じたのは私だけかもしれない。

 マリアは濡れ布を絞る手をぴたりと止め、その黒い瞳をわずかに、ほんのわずかに見開いて私の顔をじっと見つめている。

 その無表情の奥に『困惑』という二文字が透けて見えたのは、きっと気のせいではないだろう。


「……らぁ、めん……にございますか?」


 オウム返しに尋ねるマリアの声はいつも通り平坦だった。けれど、その単語をどう発音していいのか分からない、という戸惑いが感じられる。

 当然だ。

 この世界のどこの誰も、そんな言葉を知るはずがないのだから。

 自分の口から飛び出した言葉に、私自身が一番驚いていた。


 ラーメン?


 なんだ、それは。

 私としたことが、何を……。


 その瞬間だった。


 パチン、と。

 頭の中で何かが弾ける音がした。


 その膨大な、あまりにも膨大な情報の奔流が、私の脳髄に叩きつけられたのだ。


 白衣。

 フラスコとビーカーが並ぶ実験室。

 ガスクロマトグラフィーの分析データ。

 深夜まで続く試作品の官能評価。

 コンビニエンスストアの蛍光灯の光。

 自動販売機の無機質な音。

 スマートフォンの画面を指でなぞる感触。


 そして――。


 豚骨のむせ返るような匂い。

 鶏ガラの芳醇な香り。

 煮干しや昆布が織りなす滋味深い出汁の風味。

 ちぢれた麺がスープを絡め取り口の中に飛び込んでくる、あの幸福な食感。

 とろりとした煮卵。

 ほろりと崩れるチャーシュー。

 どっさりと盛られた茹で野菜。

 それら全てが渾然一体となって味覚の中枢を暴力的に揺さぶる、あの背徳的なまでのうま味の洪水。


 ああ、そうだ。

 思い出した。

 私は、アシュフォード公爵令嬢である前に、日本の食品開発研究員だった。


 三十年間。


 大学で応用化学を学び大手食品メーカーに就職し、ひたすらに『食』を探求し続けた三十年間。


 その記憶の全てが、鮮やかな色彩と共に完全に蘇ったのだ。

 過労で意識を失ったのが最後の記憶。

 おそらく、私は……前世の私は、あの実験室で死んだのだろう。そして気が付いたらこの世界の公爵令嬢として、二度目の生を受けていた。


 いわゆる転生というやつだ。


 なるほど、なるほど。

 全て合点がいった。


「お嬢様? 大丈夫でございますか。やはり、熱が……」


 心配そうに顔をのぞき込むマリアを制するように、私はゆっくりと身を起こした。まだ少し頭がくらりとするが、先ほどまでの死の淵をさまよっていた感覚は嘘のように消え去っている。

 代わりに全身を駆け巡っているのは、猛烈な空腹感。

 そして前世で愛してやまなかった、あの味への渇望だった。


「マリア」

「はい」

「私は至って正常です。熱に浮かされているわけではありません」

「……はあ」


 納得していない、という色がマリアの顔に浮かんでいる。

 まあ無理もない。三日三晩うなされていた主人が、いきなり起き上がって意味不明な単語を口にしたのだから。

 私は、ごほんと一つ咳払いをして貴族令嬢らしい優雅な微笑みを意識して作ってみせた。内面では豚骨醤油ラーメンのことしか考えていなかったが。


「それでマリア、先ほどの言葉ですけど」

「らぁめん、にございますか」

「ええ。私、今、猛烈にそれが食べたいの」


 私はきっぱりと言い切った。

 マリアは、その黒い瞳でまるで未知の生物を観察するかのように、私の顔を数秒間無言で見つめていた。彼女の思考を読み取ることは昔から至難の業だ。

 やがて、彼女は静かに口を開いた。


「……かしこまりました。して、その『らぁめん』とはどのようなお料理なのでしょうか。このマリア、寡聞にして存じ上げません。作り方をご教示いただければ、可能な限り再現してみせますが」


 おお。

 おお、なんと素晴らしい!


 さすがはスーパーメイド、マリアだ。

 普通なら錯乱した主人の戯言として聞き流すか、医者を呼ぼうと大騒ぎするところだろう。それをこの状況で作り方を聞いてくるとは。その職務への忠実さ、冷静な判断力、そして何より主人の突飛な要求に応えようとするその姿勢!

 私は感動のあまり、思わず彼女の手を取りそうになった。まあ、寸前で公爵令嬢としての矜持が働いて思いとどまったが。


「説明するわよ、マリア。よく聞いてね!!」


 私はベッドの上に座り直すと、まるで学会で新しい研究成果を発表する研究者のような口調で語り始めた。


「まず必要なのはスープ。これは『ラーメン』の魂とも言うべき、最も重要な要素なのよ」

「スープ、でございますね」

「ええ。そのスープの根幹をなすのが『うま味』という概念なの!」

「うまみ……?」


 初めて聞く単語にマリアの眉がわずかに動く。

 だろう、だろう!

 この世界にその概念が存在しないことは、これまでの食生活で嫌というほど思い知らされていたからだ。

 王宮の料理でさえ塩と香辛料と、あとは素材の味頼り。深みもコクも、後を引くような余韻もない平坦な味付け。思えば前世の記憶がなくても、私は心のどこかで物足りなさを感じていたのかもしれない。

 それが今、はっきりと分かった。

 この世界には『うま味』が足りない!


「うま味とは、甘味、塩味、酸味、苦味に続く第五の基本味。その正体はグルタミン酸やイノシン酸、グアニル酸といった成分に由来するのよ!」

「……ぐるたみん……さん?」


 マリアの顔に明確な『?』が浮かんでいる。彼女の処理能力を超え始めたようだ。無理もない。これは化学の領域なのだから。


「まあ難しい話は追々するとして、要するにとてつもなく美味しい味の素になるものと考えてくだされば、大丈夫。例えば、獣の骨や海藻、きのこなどにその成分は豊富に含まれているでしょう」

「獣の骨、海藻、きのこ……」


 マリアは主人の突拍子もない講義を、それでも真摯に記憶しようと反芻している。本当にできたメイドだ。


「次に麺。これは小麦粉を水と『かんすい』で練り、細く伸ばしたものよ」

「かんすい、でございますか」

「ええ。炭酸ナトリウムや炭酸カリウムを主成分とするアルカリ塩水溶液のこと。これがないと独特のコシと風味が出ないの。最悪、木灰を水に溶かした上澄み液でも代用できるかも。pH8から9くらいが理想的かなぁ……」

「……はあ」

「そして具材です! これはもう創造性の見せどころよ、マリア! 豚の肉を甘辛く煮込んだ『チャーシュー』! 鶏の卵を半熟に茹で、醤油ベースのタレに漬け込んだ『味玉』! 発酵させた竹の子を塩抜きして味付けした『メンマ』! ああ、それから刻んだネギや海苔も欲しい!」


 語っているうちに興奮が頂点に達してしまった。

 口の中にはありもしないラーメンの味が、幻のように広がる。

 じゅわっと溢れるチャーシューの脂。とろりとした黄身がスープに溶け出すあの瞬間。麺をすする音。

 ああ、もう我慢できない!


「……お嬢様」


 はっと我に返ると、マリアが心なしか青ざめた顔でこちらを見ていた。

 いけない、いけない。あまりの熱弁に、はしたなくもよだれが垂れるところだった。公爵令嬢としてあるまじき失態だ。


「……というわけで、マリア。ご理解いただけたかしら?」


 私はすました顔でそう締めくくった。

 マリアは数秒間何かを考え込むように黙り込んだ後、静かに、そして深く頭を下げた。


「……申し訳ございません、お嬢様」

「え?」

「お嬢様のおっしゃることは、その、あまりにも高度すぎて今の私にはその九割九分が理解不能でございました」


 正直でよろしい。


「しかし」と、マリアは顔を上げた。その黒い瞳にはいつもの冷静さに加え、どこか職人魂に火がついたかのような、かすかな熱が灯っているように見えた。「お嬢様がそれほどまでに渇望なさるお料理である、ということは十分に伝わりました。このマリア、全身全霊をかけてその『らぁめん』なるものを再現すべく努力させていただきます」


 おお……!


 私は心の底から打ち震えた。

 これほどの忠誠心、これほどの有能さ。

 辺境へ追放され全てを失ったと思っていたが、私にはまだマリアという最高のメイドが残っていた。

 それだけで、もう一度立ち上がれるような気がしてきた。

 いや、立ち上がるどころではない。

 新たな野望がむくむくとマグマのように湧き上がってくるのを感じる。


 そうだ。

 婚約破棄? 追放? そんなもの些細なことだ。

 前世の知識とこの世界にある未知の食材。

 そして、スーパーメイドのマリア。

 これだけのものが揃っていて、できないことがあるだろうか?


 いや、ない!


 私は、この何もない辺境の地で自らの手で最高の『ラーメン』を作り上げてみせる!

 豚骨も鶏ガラも煮干しも、この世界にあるもので再現するのだ!

 グルタミン酸もイノシン酸も、この手で抽出してみせる!

 これは私に与えられた、第二の人生の命題。

 アシュフォード公爵令嬢改め、ラーメン探求家としての新たなる人生の幕あけなのだ!


「マリア!」

「はい、お嬢様」

「まずは水をお願いします! 喉が渇きました! それと何か食べられるものを。病み上がりですから消化の良いものがいいですね。それから、この館にある書物を全て私の部屋に集めてください。特にこの辺境の地に生息する動植物や鉱物に関するものが最優先です! ああ、それから……」


 私が次々と矢継ぎ早に指示を出すのを、マリアは表情一つ変えずに聞いていた。

 そして私が一度言葉を切ったタイミングで、静かに一礼した。


「かしこまりました。まずはお水と、消化の良いお食事を。すぐにお持ちいたします」


 そう言って彼女は静かに、そして迅速に部屋を出ていった。

 ぱたん、と扉が閉まる音を聞きながら、私は一人、まだ熱っぽさの残るベッドの上で不敵な笑みを浮かべていた。


 待っていてね、愛しのジャンクフードたち。

 ラーメン、餃子、からあげ、ポテトチップスにハンバーガー!

 私がこの異世界で、貴方たち全てを再現してみせる!


 私の新たなる野望が産声を上げた、記念すべき一日。

 それが、この追放生活の始まりの日となったのだ。


 絶望に染まるはずだった私の世界は今、豚骨スープのように濃厚で欲望に満ちた色合いに輝いていた。


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