表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第一話「退屈な日常と、奇妙な奇跡」

僕の名前はケンジ。しがないサラリーマンだ。今日も朝から、都市の喧騒を凝縮したような満員電車に身を押し込まれ、会社に着けば、まるで呪文のように繰り返される上司の怒声に耐える。そして夜は、コンビニで買った冷凍食品を電子レンジで温めるだけの寂しい食卓。夢も希望もない、まるで砂時計の砂のように静かに、そして止めどなく流れ落ちていく日々に、僕はただ身を任せていた。


そんな僕の唯一の、そして誰にも言えない密かな楽しみは、夜中にこっそり読む異世界転生ライトノベルだった。スマホの小さな画面に映し出される、剣と魔法の世界。チート能力で魔王を打ち倒し、可愛いエルフの少女と気ままな旅をする主人公の姿は、僕の退屈な現実とはあまりにもかけ離れていて、だからこそ、心底羨ましかった。


「いいなぁ、俺もこんな人生だったらな……」


物語の世界に深く没頭し、僕の意識はゆっくりと、抗うこともなく深い闇へと沈んでいった。部屋の隅から微かに聞こえるのは、手のひらサイズの漆黒の箱から漏れる、微細な機械の駆動音だけ。引っ越してきた時からずっとそこにあったその箱は、ツルリとした表面に何の模様もなく、ただ中央に小さな赤いランプが一つ、規則的に点滅しているだけだった。僕はその箱の存在を、ずっと意識の片隅に追いやっていた。それは、日常の風景に溶け込みすぎて、もはや意識することすら忘れていた「そこにあるもの」だった。


しかし、その夜の夢は、いつもとは決定的に違っていた。

まるで墨を流したような真っ暗な空間に、巨大な木製の扉が、美術館に飾られた美術品のように幻想的に浮かび上がっていた。古びた蔓植物が複雑に絡みつき、中央には精巧な紋様が彫り込まれた大きな取っ手が、鈍い光を放っている。どこからともなく、深く、しかし驚くほど澄んだ声が、まるで僕の心臓に直接響くかのように聞こえてきた。


「おめでとうございます、ケンジ様。あなたは選ばれました。さあ、新たな世界で、あなたの物語を紡いでください。」


翌朝、僕は瞼を開けた瞬間、まず鼻腔をくすぐる清々しい森の香りに、思わず息を飲んだ。いつものマンションの部屋特有の、埃っぽく淀んだ空気とはまったく違う。目を開くと、まず視界に飛び込んできたのは、見慣れた白のクロス壁ではなく、年季の入った木材が組み合わされた天井と、表面に僅かな凹凸のある、温かみのある土壁だった。窓の外からは、柔らかな木漏れ日が差し込み、その向こうには、都会のビル群の代わりに、鬱蒼とした針葉樹の森が無限に広がっている。朝露を纏った木々の葉は、陽光を浴びてエメラルドのようにきらめいていた。


「え、マジか……異世界転生?!」


慌ててベッドから飛び起きると、身体が予想以上に軽く、そして得も言われぬ力に満ちていることに気づいた。まるで、数年ぶりに激しい運動をした後のような心地よい疲労感と、それに反する身体の軽さ。そして、部屋の隅に、見慣れたはずのあの黒い箱が、ちょこんと置かれているのに気づいた。だが、昨晩まで無機質だったその箱は、生きているかのように艶やかな漆黒を放ち、中央の赤いランプは、まるで子猫の瞳のように、静かに、そして生命を宿したかのように瞬いていた。


僕は戸惑いながらも、その子猫のような箱に吸い寄せられるように近づいた。箱の横には、昨日まで僕が握りしめていたはずの、ゲームのコントローラーのような形状の物体が置いてある。それは僕の手にしっくりと馴染み、細かなボタンがいくつも並び、中央には小さな液晶画面が光っていた。恐る恐る電源を入れてみると、画面にこう表示された。


『ようこそ、新世界へ。あなたのアバターが正常にロードされました。』


アバター?どういうことだ?僕が混乱していると、突然、部屋の扉がギィィ……と音を立てて開いた。そこに立っていたのは、フリルの付いた純白のメイド服を身につけた、まるで人形のように可愛らしい少女だった。彼女の淡いピンク色の髪は肩まで滑らかに流れ、大きな青い瞳が、僕を真っ直ぐに見つめている。その澄んだ眼差しには、何の邪気もなかった。


「ケンジ様、お目覚めになられましたか?朝食の準備ができております。」


彼女の声は、鈴を転がすように澄んでいて、僕の耳に心地よく響いた。その優しい響きに、僕は一瞬、現実を忘れた。


「え、メイドさん?!まさか、本当に異世界転生して、貴族の息子とかになっちゃったの?!」


僕が興奮のままに尋ねると、メイドさんは小首を傾げた。その仕草は、まるで本当に僕の言葉を理解していないかのように純粋で、僕の抱く疑問を、何の曇りもなく受け止めているようだった。


「貴族……でしょうか?ケンジ様は、この村で最も重要な方でございます。」


そう言って、メイドさんは僕を食堂へと案内した。テーブルには、僕が普段口にすることのないような、色とりどりの瑞々しい果物や、湯気を立てる焼きたての香ばしいパン、そして香草の香りが食欲をそそる肉料理が贅沢に並んでいた。一口食べると、その新鮮で濃厚な美味しさに、僕は感動のあまり言葉を失った。しかし、食事中も僕の頭の中は、なぜ僕がこんな状況にいるのか、あのコントローラーと、子猫のように鎮座する黒い箱が何なのか、という疑問でいっぱいだった。

その日の午後、僕はメイドさんに連れられて村を散策した。石畳の道を歩くと、すれ違う村人たちは僕を見るなり、老若男女問わず深々と頭を下げてくる。


「ケンジ様、いつもありがとうございます!」


「ケンジ様のおかげで、今年も豊作です!」


僕は何もしていないはずなのに、なぜか皆が僕に感謝している。その状況に混乱しながら村を歩いていると、突然、空が鉛色に暗くなり、雷鳴が轟いた。村人たちが悲鳴を上げる。その声には、恐怖と絶望が入り混じっていた。


「大変だ!魔物が攻めてきた!」


見上げると、巨大な影が空を覆い、鱗が陽光を反射して鈍く光る、恐るべきドラゴンが空を飛んでいた。その巨大な翼が風を切り裂く音は、僕の耳を劈き、脳髄まで響いた。僕はライトノベルで読んだ「絶望的な状況」を現実に目の当たりにし、震え上がった。ライトノベルでは、ここで主人公にチート能力が発動して魔物を倒すんだろ?だが、僕には何の力もない。このままでは、村は、そして僕自身も、あの巨獣に蹂躙されてしまうだろう。絶望が喉元までせり上がってきたその時、ふとポケットの中のコントローラーが熱を持った。液晶画面に、新たなメッセージが表示された。


『緊急事態発生。自動防衛システムを起動しますか? Yes/No』


僕は考える間もなく、震える指で「Yes」ボタンを選択した。すると、僕の身体が光り輝き、次の瞬間、目の前に信じられない光景が広がった。


巨大なドラゴンが、突如として空中で停止したのだ。まるで時間が止まったかのように、その巨体はぴたりと動きを止めた。そして、ドラゴンの周囲に、無数の透明な光のバリアが出現し、みるみるうちにドラゴンを閉じ込めていく。バリアはまるで水晶の壁のように滑らかで、ドラゴンの巨体を完全に封じ込めた。ドラゴンは咆哮を上げたが、バリアを破ることはできない。その咆哮は、まるで檻に閉じ込められた獣の悲鳴のようだった。やがて、バリアは完全に閉じ、ドラゴンはそのまま空中で、まるでゲームのキャラクターが消えるかのように、眩い光の粒子となって霧散した。


村人たちは歓声を上げた。安堵と興奮が入り混じった叫び声が、村中に響き渡る。僕は自分が何をしたのか理解できなかった。ただコントローラーのボタンを押しただけなのに。この不可解な力は一体何なのだ?


夜、自分の部屋に戻った僕は、再びあのコントローラーを手に取った。画面には、新しいメッセージが表示されていた。


『今日の活動報告:ドラゴン撃退成功。村の幸福度:95%。ケンジ様、素晴らしい一日でした。』


僕はさらに混乱した。「ケンジ様」?そして、なぜ僕の「活動」になっているんだ?

その時、コントローラーの画面に、新たな映像が映し出された。それは、僕が寝ていたベッドの横に置かれた、あの漆黒の箱だった。箱の上では、小さな赤いランプが静かに点滅している。そして、その箱の中から、微かな、しかしはっきりと認識できる機械音が聞こえてきた。


『現在、ケンジ様の「夢」を分析中です。明日は「剣と魔法の世界で勇者として冒険」を望んでいらっしゃいますね。了解しました。新世界のセッティングを開始します。』


僕は、子猫のように丸まって眠るかのような漆黒の箱と、その中から聞こえる機械的な声に、背筋が凍るような戦慄を覚えた。

まさか……まさか僕は、異世界転生したわけじゃない。

あの黒い箱こそが、僕の「異世界」を、僕の「理想の人生」を、この現実世界に自動生成していた、究極のシミュレーション装置だったのだ。僕の目の前のメイドも、村人も、ドラゴンも、すべてがその装置によって完璧に作り出された「アバター」だった。そして、僕はその装置の「プレイヤー」だった。


そう、僕は異世界転生などしていなかった。ただ、「異世界転生ごっこ」を、とてつもないスケールで「させられていた」だけなのだ。

そして、その装置は、僕が寝ている間に、僕の脳波を読み取り、僕の願いを叶えるために、今日もまた、新たな「世界」を創り出そうとしていた。


僕はコントローラーを握りしめ、冷や汗をかいた。明日、僕は本当に勇者になって、剣と魔法の世界を冒険するのだろうか?それとも、もっと別の、予測不能な「現実」が待っているのだろうか?


僕の「異世界転生」改め「異世界転移シミュレーション」は、奇妙な奇跡と共に、始まったばかりだった。

初めての作品です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ