第6章:恋をしても変われない
第6章:恋をしても変われない
日曜の午後、咲は実家の近くにある喫茶店で母と会っていた。二人きりで会うのは、半年ぶりだった。
「で、最近はどうなの? 誰か紹介した人と会ったりした?」
アイスティーに手を伸ばしながら、母は何気なくそう尋ねてきた。柔らかい笑顔。悪気はないのだと、咲もわかっている。けれど、その無邪気な期待が、時々刺のように胸に残る。
「うーん、忙しくて……特には、ないかな」
「咲ももう二十六だしね。別に急かすわけじゃないけど、やっぱり一人って心配よ」
咲は曖昧に笑った。何度も聞いた言葉。聞き流すことにも、もう慣れていた。
だけど、家に帰って一人になると、心の中に澱のように残る。
「私、ちゃんと恋愛してるのかな?」
蓮と会わなくなって、二週間が過ぎていた。
LINEも止まり、どちらからも何の連絡もない。
それでも、毎日彼のことを思い出していた。
けれど、自分から一歩を踏み出す勇気も、まだ出ないままだった。
――私って、こういう人間なんだろうな。
恋をしたって、自信が湧いてくるわけでもない。
誰かを好きになったからって、自分の弱さが消えるわけじゃない。
むしろ、もっと不安になる。
大切に思えば思うほど、「嫌われたらどうしよう」が先に立つ。
その夜、ベッドの中でふと、由梨の言葉を思い出した。
「ちゃんと自分を出せるかどうか、だよ」
――でも、出したら、嫌われるかもしれない。
そんな当たり前の不安が、咲の心を縛っていた。
月曜。
午後、社内で担当していた備品の発注に手違いがあり、営業部から軽いクレームが入った。数量を間違え、納期もずれていた。咲は上司から詰問され、胃がきりきりと痛んだ。
「申し訳ありません。すぐ確認して、発注し直します」
電話を切った直後、後ろから声がかかった。
「もしかして……〇〇の書類、営業側にも届いてなかったやつ?」
振り返ると、そこに立っていたのは、蓮だった。
数週間ぶりの再会だった。
「……蓮さん」
「さっき、その件でこっちにも問い合わせきてたんです。僕、代わりに取引先に連絡しておいたんで、大丈夫です。ちょっとバタついたけど、向こうもわかってくれてました」
蓮の言葉は静かで、優しかった。
咲は思わず、小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。
「いえ……大丈夫ですか? 咲さん」
その一言が、咲の胸をじんわりと温めた。
「……すみません、私、うまくやれてなかったですね」
「誰だってミスはありますよ。僕なんて、毎月やらかしてます」
「嘘。そんなふうに見えません」
「そう見せてるだけ、かもしれません」
二人の間に、久しぶりに柔らかい空気が流れた。
目が合い、少しだけ笑い合った。
その笑顔は、あの雨の日以来だった。
その日の夜、咲のスマホに蓮からメッセージが届いた。
「今日、会えてよかったです。無理しすぎないでくださいね」
咲は、スマホを持つ手が震えるのを感じた。
そして、ゆっくりと指を動かした。
「ありがとうございます。私も……会えて、よかったです」
送信ボタンを押したあと、咲は深く息を吐いた。
恋をしても、不安は消えない。
でも、不安のままでも、誰かと向き合っていけるのかもしれない――
そう、少しだけ思えた。