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第5章:過去との距離

第5章:過去との距離


 その日は、静かな雨が降っていた。

 蓮と咲は、川崎から少し離れた街のカフェで待ち合わせていた。特別な日ではなかった。雨宿りのような時間。ただの「会おうか」の一言で、二人は自然と集まるようになっていた。


 窓の外を雨粒がすべり落ちるのを眺めながら、咲はカップのふちを指でなぞっていた。蓮は、いつものように丁寧にコーヒーを口に含み、少しの間を置いてから、ふいに言った。


「ここ、昔、よく来てたんです」

 咲は、顔を上げた。

「……そうなんですか?」

「うん。三年くらい前かな。付き合ってた人がいて、その人がこの近くに住んでたんです」


 言葉の重さに気づいたのは、それがテーブルに落ちてからだった。蓮は、特に照れたり、悲しんだりしている様子はなかった。ただ、淡々と話すその声が、どこか遠くを見ているようで、咲の胸にざらりとした風が吹いた。


「……長く、付き合ってたんですか?」

 咲の声は少し硬かった。

「うん。五年くらい。結婚も、するつもりだった。でも……急に終わった」

 蓮はそう言って、カップを見つめたまま言葉を止めた。咲はそれ以上、何も聞けなかった。


 その話が嫌だったわけじゃない。嫉妬というのとも少し違った。

 ただ、咲は思ったのだ。

 ――自分は、まだ彼の過去に踏み込めるほどの存在じゃない。

 それを思い知らされた気がして、そっと背筋を伸ばした。


 別れ際も、どこかぎこちなかった。


「今日は、ありがとう。また……」

 「うん。また」

 次の約束を、どちらからも口にしなかった。


 そして、数日後。

 咲のLINEには、何の通知も来なかった。


 咲も、何も送らなかった。

 スマホを何度も開き、会話の履歴を見返しながら、指が宙で止まる。送ってしまえばいい。ただ一言、「元気ですか?」と。それだけで、いつもの空気に戻れるかもしれない。

 でも――送れなかった。


 “今、送ったら、また彼の過去に触れてしまうかもしれない”

 そんな漠然とした不安が、咲の胸を塞いでいた。


 週末。洗濯物を取り込みながら、咲はぼんやりとベランダの外を見つめた。空は、何の感情も持たないような青さだった。


 咲には、あまり“過去”というものがない。特別な恋愛も、大きな傷もない。ただ、無難に、静かに、生きてきただけだった。

 だからこそ、蓮の持つ“濃さ”が、どこか遠いものに思えたのかもしれない。


 距離を置いているのは、彼ではなく、自分の方だ――

 そのことに、気づいてしまった。


 それでも、咲はそのままスマホを伏せて、そっと目を閉じた。

 この沈黙の先に何があるのか、わからない。

 けれど今は、少しだけ、立ち止まりたかった。


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