第4章:ゆっくりでもいいですか
第4章:ゆっくりでもいいですか
「土曜日、もし時間あれば少しだけ会いませんか?」
金曜の午後、定時すぎにスマホに届いていたそのメッセージを見た瞬間、咲の心臓は、喉の奥で何度も跳ねた。
“会いたい”――
その言葉が入っていたわけではない。けれど、言外にそう書かれている気がした。いや、きっと蓮はそれを意識して書いたのだろう。そういうタイプの人だと、咲はもう感じ取っていた。
迷うふりなんて、できなかった。
「はい。嬉しいです」
その返信を送ったのは、五分と経たないうちだった。
土曜日、午後二時。
待ち合わせは、川崎駅の中央改札。あのカフェではなかった。けれど、またこの街で、というのが咲には少し嬉しかった。
「こんにちは」
「こんにちは」
二人の声が重なる。互いに少し照れたように笑う。それだけで、今日が穏やかな一日になるとわかる。
「どこか行きたいところありますか?」
「いえ、特には……蓮さんは?」
「僕もないです。……だから、ぶらぶらしましょうか」
「はい、ぜひ」
それは、きっと“特別ではない”時間だった。
商店街を歩いて、古本屋を覗き、靴屋のショーウィンドウを指さして「これ、かわいいですね」と言ってみたり、近くの公園でベンチに座って、アイスコーヒーをすすったり。
どこにでもあるような、平凡な午後。
でも、咲にはずっとずっと、こんな時間が必要だった。
静かで、気取らず、頑張らなくても良くて――「自分のままでいられる」時間。
「なんだか、思ってたよりも……」
蓮がぽつりと言った。
「もっと緊張するかと思ってたんですけど。咲さんとこうして歩いてると、自然っていうか……」
「私も……です。あの、前より、ちゃんと話せてる気がします」
「それ、嬉しいです」
日が傾き始めた頃、蓮がふと足を止めた。
前方に、古い映画館が見える。看板には、誰もが知っている洋画の再上映のタイトルが掲げられていた。
「……観ます?」
「今からですか?」
「うん。特に意味はないけど、時間、まだあるなら」
咲は少し迷ってから、笑ってうなずいた。
館内はすいていて、二人並んで座っても、周囲に誰もいない。スクリーンに映る古い映像、懐かしい音楽。ふと、蓮の腕が近くにあることに気づいて、咲はほんの少しだけ、体の向きを変えた。
触れたわけではない。何も起きなかった。
それでも、彼の体温がそこにあることを、確かに感じた。
映画が終わったあと、駅までの道のりは、ほとんど言葉がなかった。けれどそれは、気まずさではなく、静かな満足のようなものだった。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。……なんか、すごくいい時間でした」
「私も、そう思いました」
改札前で、二人は一瞬立ち止まった。
「また、会ってもいいですか?」
その言葉を口にしたのは、咲だった。
蓮は、少し目を丸くしたあと、頷いた。
「はい。……ゆっくりでも、いいですか?」
咲は微笑んだ。
「ゆっくりが、いいです」
電車に揺られながら咲は思った。
ずっと、こういう時間がほしかった。誰かと並んで歩ける時間。肩肘張らずに、言葉を交わせる時間。
それはまだ「恋」ではないかもしれない。
でも、その一歩手前で、確かに何かが育ちはじめていた。