ダイジェスト版
きっと、ただの偶然だった。
月曜の午後、川崎駅前のカフェ。
咲は一人、窓際の席でカフェラテを飲んでいた。都内企業の総務部に勤めて三年。人との距離をほどほどに保ちながら、無難に、穏やかに過ごす日々。けれど最近、「このままでいいのかな」と、言葉にならない違和感を抱えていた。
その日も、午後半休をとって街に出てきたものの、目的もなく、ただぼんやりと時間をつぶしていた。そんなときだった。
「すみません、ここ、空いてますか?」
声の主は、スーツ姿の男性だった。
混み合う店内、相席は珍しくなかった。咲は軽くうなずいて、彼を迎え入れた。
名前も知らない。会話もほんの数分。
けれど、不思議と心に残った。背筋の伸びた姿勢と、まじめそうな瞳。どこか不器用そうで、それでも静かな安心感をもたらす雰囲気。彼の名は、伊藤 蓮――そのときは、知らなかった。
数週間後。社外研修で、咲は再び彼と出会う。
「カフェのときの……」
「やっぱり、覚えてましたか」
偶然だった。でも、二度目の偶然が続けば、それはもう偶然とは呼ばないのかもしれない。少しずつ、咲と蓮は言葉を交わすようになった。
やがて、メッセージをやり取りするようになり、休日に会って食事をするようになった。
けれど、関係はすぐには進まなかった。
咲は常に「嫌われたくない」と気を張り、蓮もまた、過去の恋人との別れを心の奥に抱えていた。
「支えてくれる人がいたら、って最近よく思うんです」
ある日、蓮がつぶやいた。
その弱さに、咲は初めて触れた気がした。
誰もが抱える不安と、孤独と、過去。
「すぐにうまく支えられないかもしれない。でも、そばにいたい」
そう伝えた咲に、蓮は静かに微笑んだ。
恋は、何かを変えてくれる魔法じゃない。
不安も、すれ違いも、日常の疲れも、消えるわけじゃない。
それでもふたりは、「一緒にいたい」と思う気持ちを、毎日選び続けた。
そして、ある春の午後。
「私たち、付き合ってから変わったよね」
咲がつぶやくと、蓮は少し考えて答えた。
「変わったっていうより、やっと自分らしくなれた気がする」
咲は笑って、そっと彼の肩に寄り添った。
あの日、カフェで隣に座ったこと。
それは、きっと、ただの偶然だった。
でもその偶然が、ふたりにとって何よりも大切な時間のはじまりだった。