第10章:ただの偶然じゃない
第10章:ただの偶然じゃない
付き合い始めたからといって、すべてが魔法のようにうまくいくわけではなかった。
咲も蓮も、変わらず仕事に追われ、疲れた日は無言で帰ることもあった。週末のデートも、寝坊して遅れてしまったり、予定がすれ違って流れることも少なくなかった。
LINEの既読が半日返ってこないと、不安になる気持ちもやっぱり残っていた。
ただ、それでも、ふたりは会うたびに、少しずつ、歩幅を揃えていった。
「なんか、付き合ってもこんな感じなんですね」
ある晩、咲が言ったとき、蓮は笑った。
「うん。俺も、もっと“付き合ったら全部安心できる”と思ってた。でも、実際は……そうでもない」
「ですよね。でも、それでいいのかもって、思います」
「……うん」
その「うん」に、言葉以上の気持ちが込められているのがわかった。
ある日の夜、会社からの帰り道。駅の階段を一緒に降りながら、咲はふと立ち止まった。
「蓮さん」
「うん?」
「もし、あの日カフェで出会ってなかったら……」
「うん」
「きっと、私、今も“ひとりでいいや”って思ったままだったかもしれません」
蓮は少し考えてから、静かに言った。
「俺も。あのとき、ただ時間をつぶすために入っただけだったのにね」
「……ただの偶然、でしたよね」
「うん。でも」
蓮は、咲の手を取った。
「偶然が、一番大切な時間になった」
冷たい夜風が、そっと通り過ぎた。
だけど、咲の手は温かかった。繋がれた掌のなかに、確かに今があると思えた。
人生は、きっとずっと続く。
これからも不安になることがあるだろうし、泣きたくなる夜もあるかもしれない。
でもそれでも、「この人と一緒にいたい」と思う気持ちを、毎日選び続けることができたら、それが“幸せ”なんだと思う。
あの日、カフェで隣に座っただけの人。
ただの偶然だったその出会いが、今、咲にとって何よりも大切なものになった。
そして、それはもう、“偶然”ではなくなっていた。
完