きっと、ただの偶然だった。
きっと、ただの偶然だった。
第1章:月曜の午後、駅前のカフェで
月曜の午後三時過ぎ。川崎駅前のカフェは、平日の微妙な時間帯のせいか、にぎやかすぎず、かといって静寂というほどでもない、ぼんやりした空気に包まれていた。スーツ姿のビジネスマンと、買い物帰りらしい主婦、それにノートパソコンを広げて何かを書いている若い女性。咲はその中の一人として、窓際の二人掛けのテーブル席に座っていた。
カフェラテを片手に、仕事の資料をめくるふりをしてはいたが、内容は頭に入ってこなかった。外を行き交う人々の姿を、ぼんやりと眺めている方がずっと気が楽だった。店内にはスピーカーからジャズが流れていたが、その音さえ、今日はどこか遠く感じた。
ふと、彼女の目の前の椅子に、スーツ姿の男性が腰を下ろした。混み合ってきたため、店員に勧められたのだろうか。彼は小さく会釈して、「すみません」と声をかけた。咲も驚きはしたが、反射的に微笑み返して、「大丈夫です」と応じた。よくある相席だった。ただ、それだけのはずだった。
彼の名は、伊藤 蓮。名刺交換をしたわけでも、挨拶を交わしたわけでもない。だが、その姿勢の正しさや、どこか不器用な手つきでスマホを扱う様子に、咲は何となく「まじめそうな人だな」と思った。
「今日、暑いですね」
蓮がぽつりと言った。
「そうですね。梅雨明け、したんでしたっけ」
「たしか、昨日か一昨日だったと思います」
「じゃあ、これから本格的に夏ですね」
会話はそれだけ。気まずさを和らげるための小さな言葉の往復だった。けれど咲は、どこかそれを心地よく感じていた。
日常は、たいてい同じように過ぎていく。朝、電車に乗って会社に行き、上司に気を遣い、同僚との空気を読み合いながら昼休みを過ごし、定時に近づくとそわそわとした時間が始まる。総務部という部署は、「誰とも深く関わらない」ことが求められる、不思議な立ち位置だった。だからか、咲はいつも“無難”を選び続けていた。
仕事帰りに同僚とごはんに行くこともあるが、それはどこか“社交”であり、“気晴らし”ではなかった。彼女の中で「このまま30歳になって、40歳になって、誰かの奥さんになって、子どもを産んで……それって、正しいことなのかな?」という小さな違和感が、ずっと静かに息をしていた。
最近、母親からの電話が増えてきた。
「またお見合いの話があるんだけど、会ってみるだけでも……」
その声は悪気があるわけでもなく、むしろ心配しているだけなのはわかっていた。だが、どこか“正解を押しつけてくる”ような語調に、咲は少しずつ疲れてきていた。
そんな時だったからこそ、この何気ない午後に、蓮という知らない人と隣り合ったことが、咲にとっては“予定外”であり、でも“心地よいずれ”だったのかもしれない。
「いつもこのカフェ、使われるんですか?」と咲が尋ねた。
「いや、今日はたまたま……取引先とのアポの時間を間違えて、時間つぶし中です」
「……奇遇ですね。私も、午後半休とって、ただぼーっとしてるだけです」
「そういうの、いいですね」
蓮が少し笑った。目尻にできたしわが、彼の表情を一気に柔らかく見せた。咲は、なんとなくドキリとした。
奇妙な安心感だった。過去も知らない、未来も知らない、たった今この一瞬だけ共有している相手。名前も、仕事も、何もわからない。けれど、妙に居心地が良い。そういうこともあるのだと、咲はその日初めて知った。
やがて、蓮が腕時計に目をやった。
「そろそろ行かなきゃ」
「……お仕事、がんばってください」
「ありがとうございます」
立ち上がった蓮が、一度こちらを振り返り、少しだけためらったあと、言った。
「えっと……また、どこかで」
咲はうなずいた。言葉では「はい」と言わなかった。でも、それで十分だった。
彼の背中がカフェの自動ドアに吸い込まれていくのを見届けたあと、咲はまだ温かいカフェラテを一口すすった。甘さは、変わらずにそこにあった。
きっと、ただの偶然だった。
でも、その“偶然”を、咲はそっと、胸の内側にしまいこんだ。