新しい生活
新しい姿と名を得て始まった呪われた屋敷での生活は、ユーナにとっては天国だった。
クライヴの指示で、服と部屋はすぐさま準備された。
子どもサイズの服は、手配しても届くまでに時間がかかるため、それまでは、とマリアが自身の服を数着、魔法でユーナの体に合うよう繕ってくれた。
部屋だって、ユージェニーの自室の半分ほどの広さではあるが、ちゃんと個室を与えてくれた。
またマリアは、ユーナのために字を教えてくれるようになった。
耳の聞こえないマリアよりも、ブルーノの方が先生役としては適任かもしれないが、マリアは絵がとても上手なのだ。
ユーナ、クライヴ、ブルーノ、マリアの四人をそれぞれ一枚ずつ紙にサラサラと描きあげたその絵は、素晴らしいものだった。
本物そっくりだし、何なら一割増し程素敵に描かれていた。絵の下には、わかりやすいよう大きな字で名前が書かれている。
ユーナはマリアの絵をとても気に入って、部屋の壁に貼った。
そして絵は真似できなくても、字は繰り返し真似して練習している。
マリアは毎日何枚も絵を描いてくれた。
ダイニングの大きなテーブル。
瑞々しいフルーツ。
ブルーノの焼いた香ばしいパン。
マリアの、フリルがついた可愛いエプロン。
屋敷の前に咲く小さな花。
もちろん全てに、ちゃんと文字を添えて。
ユーナの部屋の壁一面がマリアの絵でいっぱいになった頃、きっと文字の読み書きには困らなくなっていることだろう。
生活魔法が得意なマリアは、屋敷内の掃除や汚れた食器の片付け、洗濯なども、いとも簡単に片付けてしまう。
しかし、魔法では賄いきれない仕事もある。
ブルーノが担っているのは、食材や日用品などの手配、そして食事の準備だ。
ブルーノは、ユーナに調理するところを見せ、簡単なお手伝いもさせてくれた。いつかこの屋敷を出て行った時、市井で生活することになったとしても大丈夫なように、という配慮だった。
それだけでなく、幼いユーナが喜ぶようにと、毎日甘いおやつもつくってくれるようになった。
おやつなど、離宮では一度も出たことがなかったため、その甘さに、贅沢さに、ユーナはすっかり酔いしれた。おやつの時間が、何よりの楽しみとなったのだった。
ユーナは幸せだった。
自分は幸せだと言い聞かせるようにしていた時とはまるで違う、本当の幸せを知った。
閉じ込められる場所が、離宮から屋敷へと変わっただけだとしても。美しいと言われた容姿を失い、言葉を発することができなくても。
ユーナは、王女だったユージェニーよりもよっぽど自由だ。
好きなだけ笑い、食べ、学び、そしてそれを受け入れてもらえる。
だから、すっかり忘れてしまっていたのだった。
悪竜に言われた、
「クライヴを殺せ」という言葉など。
マリアやブルーノと親しくなっていく一方で、クライヴとの交流はほとんどないままだったせいもある。
クライヴは、いつも自室に閉じこもっている。
ユージェニーが屋敷にやって来たあの日こそ夕食を共にしたが、普段は食事も一人きり。ちなみにユーナは、マリアやブルーノと一緒に食事を楽しんでいる。
主と使用人の関係というのはそういうものだよ、とブルーノは言うが、孤独な食事がいかに寂しいものか、かつてユージェニーだったユーナはよく知っている。
部屋にこもりきりのクライヴは、たまに見かけるといつも顔色が悪い。
クライヴにユーナの姿は見えないし、ユーナも声を出せないので、互いに関わり合うことは一切ない。
けれどブルーノは事ある毎に、クライヴがユーナを気遣っている様子を伝えてくれる。
「今日の夕食は辛くなかった? クライヴ様が、子どもにはスパイスが効きすぎなんじゃないかって、気にするものだからさ」
「クライヴ様が、子どもは成長が早いから、大きめの服も仕立てておくようにと言うんだけど、数日でいきなり大きくなるはずがないのにね」
「玩具を用意するようにってクライヴ様の指示なんだけど、どんなのがいい?」
クライヴにとって、ユーナなどいてもいなくても、彼の生活には全く影響はない。
それどころか彼からしてみれば、気に入らない女が置いていった厄介者のはずだ。
それなのに、どうしてこんなにもユーナを気にかけるのか。
国の英雄であり、現在進行形で自らを犠牲にして国を守っているクライヴ。
本来ならば、とうに夫となっていたはずの男だ。ユーナとて、気にならないはずがなかった。
「今日のおやつは、クッキーだよ!」
ブルーノの言葉に合わせてマリアが運んで来たのは、ホットミルクと色とりどりのクッキーが乗ったお皿。
午後の麗らかな陽射しでいっぱいのダイニングルーム…………の隣の狭い家事室で、こうして三人でおやつの時間を楽しむのは、いつしか日課となっていた。
砕いたナッツがたっぷり入ったクッキー、チョコチップクッキーに、紅茶の茶葉入りクッキー、うずまき模様が可愛いクッキー……。
もとは幼児と思われているユーナのためだけに始まったおやつ作りは、手先が器用で凝り性のブルーノのこだわりから、日に日に手の込んだものになっている。
主であるクライヴの口には入らないにも関わらず、だ。
宝石よりも輝いて見える数々のクッキーの中から、つやつや光る赤いジャムがのったものを一つ選び、ユーナは口に運ぶ。
さくっと噛み砕けば、途端に口の中でほろほろと崩れ、優しい甘みで満たされた。
(おいしい! 幸せだな…………)
甘いものを食べるたびに、ユーナは幸福を噛みしめる。
「ユーナは本当においしそうに、幸せそうに食べてくれるよね。その顔を見ると、明日はもっと喜んでもらえるものをつくろうって気持ちになるよ」
ブルーノが嬉しそうに言い、その横でマリアが、微笑みながらユーナのカップにミルクのおかわりを注いでくれる。
こんな毎日が、当たり前に明日も続く。それはなんて贅沢なことだろうか。
それは他でもない、この屋敷の主であるクライヴのおかげなのだ。この輪の中にいなくても、それだけは忘れてはいけない。
ブルーノが焼いてくれたクッキーは、とてもたくさんあったので、一度に食べきれそうになかった。残ったクッキーはマリアが綺麗に包んで、ユーナに持たせてくれる。
おやつは余るほどあっても、クライヴが食べることはない。ブルーノが勧めても、いらないと言うそうだ。
こんなにおいしいのに、甘いものが苦手なわけではないというのに、どうして、と聞きたくなる。
いないものとされていた経験があるユーナは、クライヴ抜きにしてどんどん幸せになっているこの現状に、少しだけ居心地の悪さを感じている。
『能なし』の自分と才能溢れるクライヴを並べるのはおこがましいけど、どこか自分と通じるところがあるようにも思う。
落ち着かない気持ちで、ユーナは何度もダイニングルームに視線を移した。クライヴが現れることはないと、わかっているのに。