捨てられた子ども
母親に捨てられたのか、と聞いたクライヴは、ユージェニーが子どもを置いて逃げたと考えたのだろう。
けれどユージェニーの脳裏には、離宮を発つ前日のことが次々と浮かび上がってきた。
用件だけ一方的に告げた父。
これまで一切顧みなかったというのに、最後に要求ばかりを突きつけた母。
不幸な未来を笑った二つ上の姉。他の兄姉は顔も見せなかった。
捨てられた、と言われれば、そうなのだろう。
考えたくなかっただけで、離宮に住まうことになった時には既に、ユージェニーは捨てられたも同然だった。
泣いても状況は変わらないから。
かわいそうに、という声を聞かないようにして。幸せ者だ、という声を信じて、そう思うようにしていた。
喋れないならではなくて、ユージェニーはクライヴの問いに、答えることができなかった。
心が体に引っ張られたように、迷子の幼子にでもなったような気分だったのだ。
俯いて黙り込んでしまったユーナの横で、ブルーノは慌てた様子を見せながらクライヴの方へ車椅子を動かした。
「ちょっ……ちょっといいですか、クライヴ様!」
「何です?」
ブルーノが、クライヴの耳元へ口を寄せる。
「実はですね、僕、奥様……いえ、ユージェニー王女について、事前に調べてたんですけど」
「は? なんのために?」
「クライヴ様のためですよ! 主が結婚なさるんですよ? お相手の素性を調べるのは当然じゃないですか」
「はぁ……。それで?」
「めちゃくちゃ評判が悪かったです」
「でしょうね。あの態度」
「そもそもユージェニー王女が公の場に出て来ることは、これまで一度もありませんでした」
「そうですね。俺も妻を寄越すと言われたつい先日、はじめて第三王女の存在を知りました。何をしてたんですか、あの人は? 病弱そうにも見えませんでしたけど」
「勉強も公務もせず、離宮にこもって毎日遊び呆けていたと」
「………………」
「離宮には決まった侍女しか立ち入らせず、ユージェニー王女の姿を見たという者はほとんどいません。…………ただ、その…………」
「深刻そうに言い淀むのはやめてください。どうせろくな話じゃないんでしょうが、気になるので続けてください」
「ええと…………王宮内でも身分の低い、下働きの男たちは、皆口を揃えてユージェニー王女の姿を見た、とても美しかったと褒めたたえていたとか」
「………………。聞くんじゃなかった」
クライヴとブルーノは、揃ってユーナに目を向けた。
「つまりこの子どもは、王女様が下男相手に遊んだ末にできた……と。そしてそれを隠してここへ連れてきた……?」
「はっきり言うのやめてくださいよ!! とんでもなくまずい話ですよ!」
「あなたがそう誘導したんでしょう、ブルーノ。大体口に出そうが出すまいが、事実は変わりません。事実が何かもわかりませんけど、王女様もいない今、状況的には最悪です」
「…………どうしますか? 王家に黙ってはおけませんし、報告するしかありませんよね……」
少しの間、考え込んでいたクライヴは、顔を上げるときっぱりと言った。
「いえ、黙っておきましょう」
「ええ!? クライヴ様!?」
「王家に知られれば、この子どもは死を賜わる可能性が高いです。さすがに哀れでしょう。子どもに非はありません」
「それは……そうですけど……。絶対後々面倒なことになりますよ!」
「既に王家に面倒事を押し付けられているんですよ。ブルーノの調べたことが本当なら、王女様がここへ来たのは厄介払いといった意味合いが強いのでしょう。まぁ納得です。高貴な方がこんな呪われた屋敷に、それもつい最近まで平民だった俺に嫁ぐなんておかしいと思ってたんですよ」
「そ…………れは…………まぁ、おっしゃることはわかります。クライヴ様が正当に評価されていないことは確かですので」
「王女様が自分の足でここを出て行ったのは、間違いないはずです。外からは、誰も侵入した形跡がないんでしょう? うまく森を抜けられれば、あの人は好きに生きるでしょう。それがあの人の選んだ道であるならば、放っておけばいいんです」
「クライヴ様……。わかりました、クライヴ様がそうおっしゃるなら。ユージェニー王女は見逃すとして、この子はどうするつもりですか?」
ブルーノがユージェニーへと視線を向けたのと同じように、クライヴもわずかにこちらを向いた。
いまいち目線は合わないけれど、たぶんユージェニーを見ようとしている。
そして淡々と告げた。
「決めてください。あなたが」
「クライヴ様! 子どもですよ?」
「子どもでも、一人の人間です。自分の未来は、自分で決めるべきでしょう」
ブルーノの戸惑いと驚きなど意にも介さず、クライヴは丁寧に未来の可能性を提示する。
「ここにいる限り、呪いのせいでずっと話すことはできません。贅沢もできません。王宮に行けば、王族の血をひく者として丁重に扱われるかもしれません。父親の身元次第では、逆に虐げられるかもしれません。何よりも、邪魔な存在として死を賜る可能性が最も高いことは伝えておきます」
ちょっと丁寧すぎて、内容が不穏だ。中身は五歳の子どもでもないのに、ユージェニーは恐ろしくて体が震えた。
それなのに容赦のないクライヴは、猶予を与えず選択を迫る。
「決めてください。この屋敷に留まるか、王宮に戻るか」
クライヴという男は、よくわからない。
全く気遣いもなく、無神経に言いたいことばかり言うと思ったら、面倒事だとわかっていながらユージェニーを責めもせず、簡単に逃がしてしまったり。そんな女の子どもを押し付けられた形になっても、助けようとしたり。更には子ども相手に真剣に未来を選択させようとしたり。
見当違いな思い込みで、話はどんどん進んでしまった。
けれどユージェニーはそれを否定したり、事実を説明する術を持たない。
だったら今この場でできることは、自分の意思を示すことだけだ。
姿が変わっても。悪竜に脅されていてもいなくても。ユージェニーの居場所など、ここを追い出されたらどこにもない。
すぐそばで心配そうにこちらを見ているマリアの服の裾を、小さな手でぎゅっと握る。そうして縋るような視線を向ければ、ユージェニーの思いは容易に伝わった。
「…………ここに、残りたい?」
聞こえないマリアのかわりにブルーノが聞いて、ユージェニーはこくりと頷いた。
その仕草に、ブルーノの瞳に決意の色が宿る。
「クライヴ様。この子は屋敷に残ることを選択しました。保護しましょう」
善良で心優しいブルーノは、他に頼るものもいない哀れなユージェニーに同情したようだった。マリアも同じく、賛同するように頷いている。
クライヴは、ユージェニーに語りかけることでそれに応えた。
「あなたの決断と覚悟を尊重します。決して贅沢な暮らしはできませんが、衣食住は保証します。あなたがもう少し成長して、いつかここを出て行く日まで、面倒をみることを約束します」
それは堅苦しいけど、真摯で優しい言葉だった。
怠惰な素振りを見せながら、実は案外面倒見がいいのかもしれない。
その後名前を聞かれたが、話せない上に字も書けないユージェニーが、正しく伝えられるはずもなく……。
「ユー」だけはかろうじてわかってもらえたものの、その先は全員が諦めた。かわりにと、新しい名を与えてくれた。
「とりあえず呼び名がないと困るし、当面はユーナって呼んでもいいかな?」
そんなブルーノの一声により、その日から、ユージェニーはユーナとなった。