婚姻契約書とディナーと
広めのダイニングルームには、大きなテーブルが置かれていた。
そのテーブルを前にクライヴが一人、座っている。フードを被った顔は俯きがちで、表情がよく見えない。
ブルーノに促され、ユージェニーも彼の正面に腰掛ける。
「お食事の前に、こちらをご確認ください」
ユージェニーの前に、ブルーノが1枚の紙を差し出した。それから、羽ペンも。
「…………これは?」
「ご覧の通り、婚姻契約書です。奥様の輿入れの荷物と共に預かりました。王家の証明印は既に押されています。奥様とクライヴ様がサインをすれば、お二人は正式に夫婦となりますね。魔法がかかっていますので、即時王家にも知らせがいくでしょう」
「本当にすぐ結婚させるつもりだったんですか」
クライヴが顔を上げ、呆れたように呟いた。
「王女様。サインをすれば、後戻りはできませんよ。結婚式を盛大にするような予定もありませんし、どんな呪いがあなたの身にふりかかるかもわかりません。よく考えてからの方がいいと思いますけど。俺は王家の命令とあれば、逆らわずにサインするしかありませんしね」
「考える必要もないわ」
クライヴが拒否できないというのであれば、むしろ都合がいい。一刻も早くサインをして、後戻りなどできなくしてやる。
急いでペンを手にして、ユージェニーはそのまま固まった。
(……………………あれ? 名前って…………どう書くんだった?)
書面に目を落としても、内容が全く理解できない。字が読めないのだ。
昔は、自分の名くらい書けた。文字の読み書きなど、簡単にできたはずだ。
けれど十年も読み書きする機会を失ったままのユージェニーは、それをすっかり忘れてしまっていた。
(どうしようっ……!! 自分の名前も書けないなんて、絶対言えない……!)
背中に冷や汗がぶわりと流れる。きっと今鏡を見れば、ユージェニーの顔は真っ青になっていることだろう。
様子のおかしいユージェニーに、ブルーノとマリアが不思議そうな顔を向ける。
「……奥様? どうなさいました?」
答えることができず、部屋に沈黙が落ちる。
気まずい空気の中で、クライヴがふっと鼻で笑った。
「威勢がいいのは口だけですか。急に怖くなったんでしょう? 別に無理にサインすることもありません。どうせ明日には、ここを出ていくとおっしゃるんでしょう」
違う、と反論したいが、まさか本当のことなんて言えない。
顔色を悪くしたまま微動だにしないユージェニーの前から、ブルーノの手によりさっと婚姻契約書が下げられた。
せっかくのチャンスを、台なしにしてしまった。
(また失敗した……! 名前さえ書けば、ひとまず役目を果たすことができたのに!)
かわりに何事もなかったかのように、マリアが食事を運んでくる。
テーブルの上に次々と用意される品々はとても豪華で、落ち込んでいたユージェニーも、一瞬で目を奪われた。
離宮では見たこともないご馳走だった。
「今日は奥様を歓迎するため、気合いを入れて用意したんですよ。どうぞ、お召し上がりください」
ブルーノの声かけを合図に、クライヴは見えているかのように自然な仕草でカトラリーを手にした。
それを確認して、ユージェニーもスプーンを持つ。目の前のスープをすくって口に入れれば、野菜の旨味が口の中いっぱいに広がった。
(おいしい!)
右手にスプーンを持ったまま、並べられたパンを左手でつかんで、かぶりつく。
噛んだ瞬間はぱり、と音がしたけれど、中はふわふわで柔らかい。小麦のいい香りが鼻から抜けた。
スープに浸さないと食べ辛いような、かたいパンではない。パンひとつとっても、離宮の食事とは大違いだ。
次に、大きなステーキが目についた。
スープやパンがこんなにもおいしいのだから、お肉はきっとそれ以上。一体どんな味がするのだろう。
両手が塞がっているので、一旦どこかに置かなければステーキは食べられない。
クライヴがどのようにしているのかと視線を移して、ユージェニーは再び固まった。
クライヴの食事姿は、とても優雅だった。
平民の生まれだなんて、信じられない。美しい所作に、思わず見とれた。ずっと一人きりで食事をしていたから覚えていないけれど、王族ならば、きっとこんな風に食事をするのだろう。
顔を隠すようなフードだけが、少し残念だけれど。
そしてユージェニーは気がついた。
自分の食事姿は、周りからどのように映っていただろうか。王族らしい振る舞いには、とても見えなかったはずだ。
クライヴには見えていなくとも、壁際にはブルーノとマリアが控えている。
醜態を晒した恥ずかしさと後悔が、一気に押し寄せてきた。手が震えて、パンとスプーンを取り落とす。皿に当たり、かしゃんと甲高い金属音が響いた。
「どうしたんですか?」
「……っ! 食欲がなくなったので、部屋に戻るわ」
クライヴの問いに、うまく返事もできない。もっと上手に誤魔化したかったけれど、何も思いつかず、逃げるように立ち上がった。
こんなに美しい所作のクライヴを前に、自分がみっともなく食事を続けるなんて、できそうにない。
「すみません。お口に合いませんでしたか?」
ブルーノが申し訳なさそうに声をかける。
せっかく素晴らしい夕食を用意してくれたブルーノに、ユージェニーの態度が勘違いを招いてしまったようだ。
ユージェニーが否定する前に、クライヴが苛立たしげに深い溜め息をついた。
「王女様。あなたが勝手な人だというのはよくわかりました。俺が何を言ってもあなたには無駄でしょうし、きっと短い付き合いになるでしょう。でもこの屋敷にいる間は、ふたつだけ、守っていただきたいことがあります」
見捨てるような言い草に、胸が苦しくなる。
クライヴの嫌悪の感情が、ひしひしと伝わってきた。
そういった感情を向けらることには慣れている。どんな言い訳も意味がないと知っているユージェニーは、静かに問う。
「…………何かしら」
「ブルーノとマリアを蔑ろにしないでください。二人は使用人という立場ですが、俺にとっては家族のような存在です。王女様には、全く理解できないでしょうけど。……それから」
クライヴの声が一層低くなり、藍白の瞳が鋭く細められた。
ただの陰気な男という空気感が一気に霧散する。ぴりっとした緊張が走り、彼の放つ威圧感に、背筋がぞくりとした。
「地下室には立ち入らないでください。命が惜しければ、絶対に」