信頼の延長線
深夜、静まり返った王宮の中庭。
灯りはほとんど落ち、星明かりだけが、石畳をほんのり照らしていた。
そんな中、アオイは一人、庭のベンチに腰を下ろしていた。
眠れなかった――というより、気持ちの整理がつかなかった。
(あの子、リリカ。言葉に裏があるのかないのか……正直、わからない)
笑顔の下に駆け引きがあるのはわかる。外交見習いとしての技術も確かだ。
けれど、その中にほんの一滴だけ本心が混じっているように感じて、どうにも振り払えなかった。
(セリスティアさんのこと、ちゃんと考えたい。だから……曖昧なままにはできない)
そんな時だった。
「――こんなところで、何をしているの?」
振り向くと、そこには夜の帳に溶けるような青のドレスを纏った、セリスティアの姿があった。
「セ、セリスティアさん……こんな時間に?」
「あなたがここにいると、フランが教えてくれたの……少しだけ、話をしてもいいかしら?」
静かに隣に座った彼女は、いつものように気品を保ちつつ、どこかぎこちない。
アオイは、ほんの少しだけ笑ってうなずいた。
「もちろん」
しばしの沈黙。夜風が、セリスティアの髪を揺らす。
「あなたは、誰にでもあんなふうに信じるって言えるの?」
問いかけは唐突で、けれどまっすぐだった。
アオイは、少しだけ目を細めて答える。
「誰にでも、じゃない……信じたいと思える相手にだけだよ」
「それは……」
「外交って、確かに駆け引きだし、嘘も必要かもしれない。でも――」
アオイはまっすぐ彼女を見た。
「オレは、信頼の先にしか本当の言葉は生まれないって思ってる。だから……恋は外交じゃない。取引でもない。信じたいって気持ちの延長にしか、意味はないんだ」
その言葉に、セリスティアは目を見開いた。
「……あなたは、愚かしいくらいに真っ直ぐね」
「そうかも。でも、そういう愚かさがないと……あなたみたいに、ずっと一人で戦ってきた人には、届かないと思った」
沈黙。
けれどその沈黙の中に、たしかに何かが揺れていた。
セリスティアの指先が、そっと握られる。
「……私は、弱さを見せることが嫌いよ。誰かに心を預けることも、今までほとんどなかった」
「でも、今は?」
問い返すと、セリはほんの少しだけ視線を逸らして――
「……まだ、わからない。けど……あなたの言葉は、私の理屈を少しだけ壊すの……それが、少し悔しい」
それは――彼女なりの肯定だった。
アオイは、満月を見上げながら、微笑む。
(届いてくれ……この気持ちが、いつか彼女の心を変えてくれますように)
夜の中庭――ふたりだけの時間は、想像以上に静かだった。
アオイの言葉は確かに届いていた。
けれど、それをどう扱っていいか、セリスティアにはまだ答えが出せなかった。
(……恋なんて知らない)
幼い頃から、彼女の人生は決まっていた。
外交の看板として育てられ、情緒よりも論理を、感情よりも国益を――そう教えられてきた。
だから。
今、心の奥で灯るこの感情に、名前をつけるのが怖かった。
不意に、アオイが立ち上がる。
「……夜風が少し冷たいね。そろそろ戻った方が――」
その背に、セリスティアが声をかけた。
「あなたは、昔……誰かに裏切られたことは?」
アオイは、驚いたように振り返る。
「うん。あるよ……というか、何度も。信じた人が去っていくのも、信じてもらえないまま終わるのも、正直キツかった」
「なのに、まだ信じたいなんて言えるのね」
セリは、どこか自嘲するように微笑んだ。
「私には、それができなかった。誰かに気持ちを預けたら、その瞬間に戦略じゃなくなる。そう思ってた」
「……それって、すごく寂しいことだと思うよ」
「そうね。でも、その寂しさにも……私は、慣れてしまっていた」
その言葉に、アオイは何も返さなかった。
ただ一歩だけ近づいて、彼女の目をまっすぐ見つめる。
「じゃあさ。これからは、少しずつ慣れてみない?」
「……何に?」
「信じるってことに」
空気が震えた気がした。
セリスティアの瞳に、わずかな光が揺れる。
「……本当にあなたって……馬鹿みたい」
「オレ、バカかもしれないけど……それでも、あなたが好きです」
言葉にしてしまえば、あまりに拙くて、幼くて。
けれどそれは、駆け引きも戦略もない、ただ一人の少年の本気の想いだった。
セリは、しばらくその言葉を噛みしめたあと、そっと立ち上がる。
「今のは、聞かなかったことにするわ」
「えっ……!?」
「今はまだ、聞けない……でも、忘れてはいない」
それだけを言って、彼女は踵を返す。
その背中は、どこか名残惜しそうに、ほんの少しだけ振り返った。
(聞けない。でも、忘れない)
それは、セリスティアなりの最大限の応えだったのかもしれない。
月が、二人の距離を淡く照らしていた。