静かなる好奇心
迷宮での任務から戻って数日。
王都の外交庁舎では、日常の業務が戻っていた――ように見えた。
「おーい、アオイー! 昨日の報告書、もう出した?」
背後からの声に振り返ると、案の定、ジークが手を振っていた。相変わらずノリだけは天下一品だ。
「うん、昨日のうちに提出したよ。君の分、まだでしょ?」
「バレたか〜。お前ホント、異世界人とは思えない真面目さだな。もうちょっとサボり方覚えろって」
「いや、サボりを教えるなよ」
そんな軽口を交わしていると、不意に周囲の空気がピリッと引き締まった。
見ると、奥の廊下から現れたのは――セリスティア王女、その人。
目を伏せて書類を読みながら、几帳面な足取りでこちらに近づいてくる。
すれ違うだけで周囲の人間が姿勢を正すあたり、やはり存在感が桁違いだ。
「……あら」
セリの視線が、ふとアオイに留まった。
「例の件、よくまとめてくれたわね。助かったわ」
「あ、うん……ありがとう、ございます」
表向きは丁寧な会話。
だがその瞳には、どこかほんのりとした柔らかさが宿っていた。迷宮で見せた表情を、ほんの少しだけ残しているような――そんな気がした。
「……じゃあ、失礼するわ」
セリは、足音も静かに通り過ぎる。
だが、その瞬間。
「……アオイくん、今ちょっと照れてなかった?」
耳元で囁かれ、アオイは思わずジークの肩を押した。
「べ、別に照れてないってば!」
「うっわー、めっちゃわかりやす。お前、もしかしてけっこうマジなんじゃねーの?」
「うるさい!」
そんなやりとりを横目に、廊下の先で立ち止まっていたセリは、誰にも気づかれないほど小さく――笑った。
一方、王宮内の執務室に戻ったセリは、机に積まれた報告書に目を通しながらも、どうにも集中できずにいた。
(……あの時の言葉、まだ頭に残ってる)
『君が一人でここまで頑張ってきたこと、ちゃんと伝わってる』
『君の味方になりたい』――
(バカみたい。そんな言葉、信じてどうするの)
そう思う反面、彼のまっすぐな瞳が脳裏から離れなかった。
外交官として、王女として――信じることのリスクは理解している。
けれど、一人で立ち続けることの疲労もまた、確かにあった。
――机に置かれた、アオイからの報告書に、自然と指が伸びる。
几帳面な文字。理論と感情のバランス。丁寧な構成。
読み進めるうちに、ふと、彼の考え方そのものに触れているような気がした。
(……なに、これ)
胸の奥が、ぽつんと熱くなる。
彼は自分の気持ちを、言葉にして差し出してきた。
では、自分はどうだろう?
(……少しくらい、知ってみてもいいのかもしれない。彼のこと)
セリスティアの胸に、初めて芽生えた静かな好奇心。
それは、恋に不器用な少女が抱いた、ごくごく小さな始まりだった――
====
その日、アオイはいつもの訓練場ではなく、図書塔の一角にいた。
「へぇ……この国の古語って、意外と構文が柔らかいんだな」
手元の文献をめくりながら、アオイは独り言のように呟く。
今読み込んでいるのは、五十年前の王国憲章草案――外交儀礼の原型が記された貴重な史料だ。
「ほんと、勉強熱心だなぁ。アオイくんって、そういうとこずるいよね?」
声と共に現れたのは、見慣れない少女。
長くゆるやかな金髪に、柔らかな緋色の瞳。上品なドレスの袖をふわりと揺らしながら、にこりと微笑んだ。
「……君は?」
「私はリリカ。隣国からの使節団の見習いで〜す。今日、ちょっとだけ見学に来ただけ。よろしくね?」
その無邪気な笑顔の奥に、アオイはどこか作られた何かを感じた。だが、敵意ではない。
「見習い同士、仲良くしようか。オレはアオイ」
「知ってるよ。だって、セリスティア王女と迷宮で二人っきりになったんでしょ? 結構話題になってるよ?」
「……なんでそういうことばっかり広まるんだか」
「だってロマンチックだもん♪」
リリカはくすくすと笑って、アオイの隣の椅子に座る。
「ねぇアオイくん、王女ってどんな人? やっぱり近寄りがたい?」
「うーん……最初は、そう思った。けど、たぶん彼女って、誰よりも孤独に慣れてるだけだと思う」
不意に、リリカの目が細められる。
「ふぅん……なんだか面白い答え方するんだね」
彼女の指先が、本の端をなぞる。
「じゃあ、アオイくんは――恋って、信じる派?」
唐突な問いかけだった。
だがアオイは、迷わずに言った。
「うん……信じたいと思った相手になら、真正面からぶつかりたい」
「ふふっ、やっぱり。そういう顔してたもん……いいね、そういうの」
リリカは立ち上がると、くるりと踊るように振り返った。
「私、アオイくんのこと、ちょっと気に入っちゃったかも。ねぇ――もう少しだけ、好きになってもいい?」
「な、なんでそうなるんだ!?」
「うふふ、答えはまた今度聞かせてね」
その軽やかな笑顔は、まるで嵐の前触れのようだった。
====
一方その頃。
セリは自室の窓から、塔のほうを静かに眺めていた。
(……あの子、リリカ・ミュレリア)
隣国の使節団に同行してきた、外交見習い。年は少し下だが、巧みな話術と人懐こさで評判を集めている。
(やけに……アオイのところへ通っているわね)
胸の奥が少しだけもやつく。
(……何を気にしてるの、私)
でも、答えはわかっていた。
ほんの少し、彼の言葉が聞きたくなった。
ほんの少し、彼の笑顔を思い出した。
そして今、彼の隣にいるのが――別の誰かだという事実に、思わず視線を逸らしてしまう自分がいる。
セリスティア・レイ・アールヴァン。
王国第一王女。完璧であることを求められた彼女が、心に抱えた小さな感情。
それが恋と呼ばれるものだと、彼女はまだ知らない。