仮面が落ちるその瞬間
迷宮――それは言葉の通じない沈黙の世界だと思っていた。
でも違った。
黙っていても、横にいる彼女の呼吸のリズム、ふとした足音の音色、それだけで伝わってくるものがある。
「アオイ、ここに古い魔導文字が刻まれてる」
セリが壁の石板に手をかざす。そこには、薄く光る古代語。
「……対話は壁を越える?」
「どういう意味か分かる?」
「うーん、直訳ならそのままだけど……心を交わせば、隔たりも越えられるって感じ?」
セリが小さく頷いた。
「そう。古代王国が敵対国と和解した時の文書に使われた語彙の一つよ。意味より願いが先に立つ言葉」
「願いが先に立つ……いいな、それ。俺、そういう言葉好きだ」
「あなたらしいわね」
彼女の口元に、ほんの少し微笑が浮かぶ。
――静かに、でも確かに、距離が縮まっていた。
やがて、通路の先にぽっかりと開けた空間が現れた。
崩れた天井から光が差し、中央には石造りの祭壇。その上に、古い木箱が置かれている。
「封印……されてる?」
箱には魔術式の鍵が施されていた。セリが解呪を試みるが、反応しない。
「ここの式は対話型みたい。単語で指示を入力するタイプだね」
俺は前に出て、石板の指示文を読む。
――真なる言葉で開け
「……真なるか」
「言葉に真実が宿るとすれば、それは本音かしら?」
俺は息を整えると、木箱に向かって静かに語りかけた。
「俺はこの世界の人間じゃない。だけど……この世界で、大事な人ができました」
セリが、小さく息を呑む。
「外交でも条約でもなくて、俺は……その人とちゃんと向き合いたいって思ってます」
――カチリ。
魔術式が淡く光を放ち、鍵が外れる音が響いた。
「開いた……!」
「本音って、案外効力あるらしいよ?」
「……バカ。そういうの、ずるいって分かってる?」
でもその目は、怒ってなどいなかった。
その瞬間――
再び轟音。背後から、魔力の波動と共に、天井の岩が崩れる。
「セリ、伏せて!」
俺は反射的に彼女を抱きかかえ、地面に転がり込んだ。
頭上をかすめる瓦礫の音。身体に伝わる彼女の温もりと鼓動。
「っ……アオイ、大丈夫!?」
「俺は平気。セリは……?」
「私は――あ……」
気づけば、彼女の手が俺の服の裾を握っていた。
そして……俺の胸に、頬を押し当てるようにして、小さく囁く。
「……あの時の仮面の人、やっぱり……あなたでしょ?」
――バレた。
だけど、俺は笑うしかなかった。
「うん。正体バレるの、遅かったね」
「ほんとよ……でも、もう少し早く知ってたら、こんなに困らなかったかもしれないわね」
それは、たぶん――
嫌だったじゃなくて、嬉しいのに戸惑ってるっていう言葉。
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迷宮の封印が解かれ、奥の通路がゆっくりと開いていく。
その空間には、光に照らされた小さな庭のような遺跡――そして、帰還用の魔法陣があった。
「やっぱり、ここが正解だったんだな……」
「ええ。でも、それだけじゃないわね」
セリが小さく呟く。視線は俺を見ている。
「アオイ。さっきの言葉、あれは本気?」
「うん……本気だよ」
「外交でも条約でもなく、向き合いたいって」
「言葉って、武器にもなるけど……誰かに届くと、守りにもなるんだって最近わかった」
セリがしばらく黙って、それから目を逸らした。
「……ずるい人ね。そうやって、正しさの顔をして真正面から来られると、私……」
「うん?」
「何でもないわ……でも、あなたの言葉、嫌いじゃない」
照れ隠しなのか、彼女は少しだけ笑って見せた。
その表情は、初めて会ったときの冷たい仮面とはまるで違う――年相応の、普通の女の子の顔だった。
「仮面を取るの、怖くなかった?」
俺がそう尋ねると、セリは少しだけ間を置いて答えた。
「怖くなかったわけじゃない。でも……あなたの前なら、少しだけ素直でもいいかなって、そう思ったの」
魔法陣の光が強くなる。帰還の準備が整ったようだ。
「じゃあ……帰りますか、相棒?」
「ええ、使節ペアとしてね」
あえて外交の顔で返してきたその言葉に、俺は苦笑しながら頷いた。
でも、きっとその笑顔の裏にある気持ちは、もう仮面のものじゃない。
――こうして、迷宮任務は無事終了。
けれど、俺たちの関係は、確実に一歩前に進んでいた。
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帰還後、王宮に報告を終えた俺は、一人の来訪者を迎えることになる。
「よう、アオイ。迷宮帰りの英雄サマじゃん!」
「ジーク……うわ、声デカッ!」
大騒ぎで現れたのは、騎士見習いであり俺の親友――ジーク・アルフォード。
こいつが来るってことは、ろくな話じゃない。
「お前さ、セリ姫と二人きりで迷宮任務とか、何それ、羨ましすぎんだろ!」
「やっぱりそこかよ……」
「で、どうだった? なーんか進展とか、あったり?」
「……どうだろ。進展……してたらいいな、とは思ってる」
その言葉に、ジークは不意に表情を変えた。
「そっか……なら、ちゃんと進めよな」
「え?」
「バカみたいに騒いでる時、お前が黙ってると、ムカつくからさ……想い言えよ」
その真剣な顔に、俺は一瞬言葉を失った。
――想いか。
きっと、これから俺は何度も言葉を使って、伝え続けていくんだろう。
それが、外交官であり、そして……一人の男としての戦いだから。