婚姻外交の影
季節は春から初夏へ。王都フィリアスの空は澄み渡り、城の白壁が陽光に輝いていた。
だが──王宮の空気は、重い。
「……セリスティア様に、正式な婚姻外交の打診が来たと?」
ナヴィス・グレンが低い声で問いかける。
応じたのは、執政庁の書記官。彼は分厚い書簡を抱え、緊張した面持ちで頷いた。
「はい。南部同盟国より、第一王子ユーグ・エル・ヴェルトリア殿下との縁談を──国家間条約の一環として提示されております」
部屋に沈黙が落ちた。
「国の安定と、外交的立場を固めるための政略結婚か……」
ナヴィスの目が細くなる。その背後では、フラン・ミストが明らかに動揺を隠せず、口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 姫様本人の意志はどうなるわけ!? あんたらまた勝手に……!」
「私情を挟むな。これは王国の未来を左右する話だ」
ナヴィスが冷静に言い放つ。けれど、どこか歯切れは悪かった。
そのころ──
アオイは訓練場の片隅で、ジーク・アルフォードから、その知らせを聞かされていた。
「……嘘だろ」
木剣を落としたアオイは、愕然として呟く。
「政略結婚? 今さらそんな話が……」
「今さら、じゃねえよ。元々、王女ってそういう立場なんだよ。お前、わかってたろ?」
ジークの声は、いつになく真剣だった。
「でも、ここまで来たのに……やっと、気持ちが繋がったと思ったのに……!」
「なら、どうするんだよ」
静かな問い。
アオイは拳を握りしめ、空を見上げる。
「──あの人に、俺の言葉を届ける」
決意は固まっていた。
「これは条約じゃない。外交任務でもない……俺自身の想いだ」
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王城の塔の一室。夕暮れの光がステンドグラスを透かし、床に色とりどりの模様を落としていた。
窓辺に立つセリスティアは、その光を背にしながら、静かに文書を見つめていた。
「……婚姻外交。正式にきたわね」
その声に応えるように、背後から静かに足音がした。
「受ける気は、あるのか?」
ナヴィスの問いに、セリは目を細めた。
「論理的には、メリットはあるわ。ヴェルトリアはこの地域での重要な同盟国。王族間の婚姻で結びつきを強めれば、軍事・経済両面での安定が期待できる」
「だが?」
「……私は、私の意志で動きたいのよ。誰かの決定に、ただ従うだけの姫でいたくない」
その言葉に、ナヴィスはふっと小さく笑った。
「それを恋と言うんだ、セリスティア……本当に面倒な現象だな」
セリは微かに笑って、それでもすぐに真剣な表情に戻った。
「アオイが何を想っているのか。知っている。でも……もし彼が、立場に縛られて一歩を踏み出せなかったら──私は、それでも自分の気持ちに従えるかしら」
自嘲気味に呟くセリ。そのとき──
コンコン、と扉が叩かれた。
そして、控えめな声。
「セリ……いや、セリスティア様。少しだけ、時間をもらえますか」
その声に、セリの目が大きく見開かれた。
「アオイ……?」
扉の向こうで、アオイは深く頭を下げていた。言葉はまだ震えていたが、目はまっすぐだった。
「俺は、君の気持ちに応えたい。けど、それ以上に、君が誰かに決められるのを黙って見ていることなんてできない」
セリはそっと立ち上がり、扉に手を添える。
「外交官として? それとも……」
「……アオイ・ミナセとして。たった一人の男としてだよ」
その瞬間、セリの瞳が揺れた。
「なら、私も覚悟を決めるわ──国じゃない、家でもない。私自身の意思として、答えを出す」
ふたりの想いが交差する瞬間が、ゆっくりと、確かに近づいていく。