仮面と舞踏と外交任務
王宮の廊下に、軽やかな足音が響く。
今夜、ルーヴェリア王国では他国使節団を迎えるための「国際舞踏会」が開かれる。
その舞台で、俺――アオイ・ミナセは、人生初の大役を任された。
「舞踏会で使節として立ち回る……って、無理ゲーじゃね?」
控え室の鏡の前で、俺は思わず愚痴をこぼした。
身に纏うのは、黒と銀の刺繍が施された礼装服。装飾は控えめだが、着慣れないせいでやたら落ち着かない。
ナヴィス曰く、「立場上はただの見習いだが、外交の場では国の一部と見なされる」
つまり――ミスは即、国家の恥。ああ、胃が痛い。
「……やめとくなら今のうちよ?」
振り返ると、そこにいたのは――セリスティア・レイ・アールヴァン。
今日も見事なドレス姿で、月明かりのような気品をまとっていた。
「やめないよ。てか、せっかく異世界まで来て見習いになったんだ。尻尾巻いて逃げるとか、一番ダサいでしょ」
「……バカね」
その言葉には、いつものトゲはなかった。
それだけで、ちょっと救われる気がした。
「姫様。仮面を」
「ありがとう、フラン」
フラン・ミストが手渡したのは、銀の仮面。舞踏会は仮面舞踏という形式らしく、参加者全員が顔を隠すルールだという。
俺にも、黒の仮面が渡された。
「……変なルールだな。顔を隠して外交って、逆効果じゃない?」
「逆よ。仮面で素を隠すことで、逆に言葉の価値が上がるの。身分や肩書きに頼らない駆け引きができるわ」
「なるほど……だから、見習いの俺でも出番があるってわけか」
「言語と会話のセンスだけで勝負するなら、あなたは――案外、戦えるかもしれないわね」
それが、彼女なりの期待だと気づく。だから俺は、しっかり応えた。
「じゃあ――期待しといて」
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舞踏会の会場は、まさに異世界ファンタジーそのものだった。
豪奢なシャンデリア、艶やかな衣装、響き合う音楽。そして、仮面に隠された視線の応酬。
(これが……外交の舞台)
セリは既に他国の高官たちと会話を交わしていた。笑顔を浮かべつつ、言葉一つで相手の探りをかわす。――まさにプロの仕事。
そして俺も、フランに連れられ、小規模な輪に入る。相手は隣国ファルネアの副使。
年配だが好奇心旺盛な人物で、話題は言語適応の技術に及んだ。
「なるほど。聞き取り精度はそこまで高くないが、文脈処理に特化しているのか」
「ええ。頭の中で意味に直接変換してる感じです……それが適性らしくて」
「ふむ。確かに、実戦向きの処理だ。君のような通訳は――いや、外交者は貴重だ」
褒められた、というより評価された感覚だった。だから俺は、自然と返す。
「俺自身はまだ未熟です。でも、言葉は世界を変えるって、そう信じてますから」
「……フフ。良い志だな」
仮面越しでも、少し微笑んだように見えた。
(……少しは通じてる)
そんな手応えを感じた直後、視線を感じて振り返ると――
セリが、こっちを見ていた。
仮面に隠れて表情は読めない。けれど、その視線には、明らかな意識が宿っていた。
(……見ててくれたんだ)
胸の奥に、小さな炎が灯る。
それはまだ、名前もつかない想いだった。
音楽が変わる。
やわらかく、優雅な旋律。
会場の空気も一変し、貴族たちが一斉にペアを作り、舞踏を始めた。
(やっぱり……ダンスあるよな)
ぎこちなく立ち尽くす俺に、声がかかった。
「踊りませんか? 仮面の紳士さん」
その声には聞き覚えがあった。
振り返ると、銀の仮面に鮮やかな碧のドレス――セリスティアだった。
もちろん、彼女は俺が、アオイだとは気づいていない。
「……いいんですか? 俺みたいなのと」
「仮面の相手に身分は関係ないわ。今夜だけは、言葉と踊りだけがルールよ」
そう言って、手を差し出す。
その仕草が、たまらなく美しくて――俺は思わず、その手を取っていた。
音楽に合わせてステップを刻む。
緊張していたはずなのに、不思議と身体が軽い。
「あなた、踊り慣れてないわね」
「バレました?」
「ぎこちないけど……不思議と心地いいわ。リズムがまっすぐで、安心する」
言葉のひとつひとつが、彼女の素に近い気がした。
「あなたは、どこの使節なの?」
「異邦から来た――ちょっと不思議な立場の、見習いです」
「……ああ。じゃあ、あの少年ね」
彼女の声が少しだけトーンを落とした。
「言葉の選び方が、彼に似てる。まっすぐで、たまに不器用で……でも、なぜか引っかかる」
「……気になるんですか? その少年が」
「……気になんて、してないわ」
その言葉には、少しだけ揺れがあった。
彼女の手が震えた気がした。
それは――本音に近い証拠。
(もしかして、少しは届いてるのか……?)
「俺は、その人が――その姫が、何を考えてるのか気になります。言葉がすごく鋭くて、でも……どこか、寂しそうだったから」
「寂しい? あの姫が?」
「……違ったら、ごめんなさい。でも、仮面の下の本当の気持ちは、言葉だけじゃ隠しきれないと思ってて」
セリの手が、ピクリと止まる。
「……変な人」
「よく言われます」
「でも、面白い。言葉をそんな風に使う人、初めて見た」
彼女の口調がやわらかくなる。仮面の奥で、きっと笑っていた。
「……ありがとう。仮面の紳士さん」
音楽が終わり、そっと手が離される。
彼女はもう一度、俺を見て言った。
「あなたの言葉、少しだけ……気に入ったわ」
そう言い残し、セリは人混みに紛れていった。
名前も、素顔も明かさずに――でも、心のどこかを確かに交わして。
(……よし)
舞踏会という外交の舞台で、俺は言葉で一歩踏み出せた。
そして、彼女の中にも――ほんの少し、何かが揺らいでくれた気がした。
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夜が更け、控え室に戻ると、ナヴィスが待っていた。
「評価、悪くありませんでしたよ。数名の使節が、あの仮面の若者に興味を持ったと」
「やった……!」
「ただし。あの銀の姫君も、あなたに興味を持った様子です」
「……それ、やばいやつ?」
「ええ。とても、やばいやつです」
ナヴィスが珍しく皮肉を混ぜて言う。
でも俺は、笑っていた。
(どんなにやばくても――あの目を、もう一度見たい)
それが、この異世界での、俺の本当の始まりだった。