決別と決意
視察任務を終え、王都への帰還を目前にしたある日。セリスティアはひとり、城の一角にある静かな文書保管室にいた。
目的は──十年前の外交記録。
「……やっぱり、あの話は本当だったのね」
震える手で開いたのは、幼少期のセリに持ち上がっていた政略結婚の協定案。相手は、隣国の若き王太子。そして、その案を提案したのは……当時まだ少年だった、レオニス・ヴァレルだった。
かつてのあの瞳が、今も脳裏に焼き付いている。
知略と忠誠心に満ちた眼差し。それはセリにとって、憧れでもあり、呪縛でもあった。
「あなたは……ずっと、私の道を決めようとしていたのね」
その瞬間、背後から気配がした。
「……君がここに来るとは思っていた」
現れたのは、やはりレオニスだった。
「盗み見たわけではないわ。私は、真実を知る権利がある」
「もちろんだ。だからこそ、開示された文書だ。君の目に触れることも、計算のうちだった」
レオニスはまるで芝居の台詞のように静かに言った。
「姫。僕は個としての君には、何の執着もない。ただ、国家の器としての君には理想を抱いている」
「ならば、私はあなたの理想にはなれないわ」
セリは真正面から告げた。
その声は、静かで──しかし確固としていた。
「私は、誰かの形に嵌められる存在ではない。王女である前に、私は私……そして、私自身の想いで動く」
レオニスはしばし沈黙し、それから苦笑を浮かべた。
「……まさか、君が恋という不確かな情動にここまで動かされるとはね。面白い」
「馬鹿にしてもいい。でも、私はそれを外交の駒とは決して呼ばせない」
青い瞳が、静かに燃えていた。
その夜、セリはひとり、王城の庭に出た。
満月の光が差す中、そっと胸に手を当てて呟く。
「私は、あなたを選ぶ……アオイ。私自身の意思で」
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静かな夜だった。
王都の空に月が浮かび、城の回廊には薄明かりが揺れていた。そんな中、アオイはひとり、書類の整理をしていた。視察の報告書の清書──のはずだったが、どうしても集中できない。
(セリ……元気かな)
視察の帰還後、彼女とは顔を合わせていなかった。
何か考えているのは分かる。けれど、踏み込んでいいのか分からない。
そんなときだった。
扉が、ノックもなく開いた。
「……アオイ」
現れたのは、白いドレスに身を包んだセリスティアだった。
普段の公務服ではない。まるで、ひとりの少女として、そこに立っていた。
「セリ……?」
「話があるの」
その言葉に、アオイはそっとペンを置いた。
二人は静かに視線を交わす。少しの間があって、セリが口を開いた。
「あなたに、言わなきゃいけないことがあるわ……私、ずっと自分を縛ってたの。王女として、国の器として、完璧でいなければって」
その手が、わずかに震えている。
「でも、あなたに出会って……少しずつ変わった。迷って、揺れて、怖くなった。でも、それでも──」
瞳が、まっすぐにアオイを捉える。
「私は、あなたが好き。これは外交じゃない。国の戦略でも、駆け引きでもない。私の……本当の気持ちよ」
その瞬間、アオイの胸が熱くなる。
セリが、自分の言葉で、想いを伝えてくれたことが。
それは、どんな契約書よりも重く、どんな宣言よりも真っ直ぐだった。
「……ありがとう」
アオイは立ち上がり、そっとセリの手を取る。
「俺も、ずっと言いたかった。ずっと本気だった……これからも、隣にいてほしい。王女じゃなくて、セリとして」
ふたりの距離が、すっと近づく。
答えは、もう決まっていた。
「……ええ」
微笑んだセリは、もう完璧な王女ではなかった。
ただひとりの、想いを伝えた少女だった。
その夜、ふたりは確かに、過去と決別し、未来を選んだ。