聖女様は迷探偵
「聖女よ、どうか世界を救って下さい……!」
それが映画やアニメの中のセリフであればどれだけ良かっただろうか。
茉莉は自分に向けられて言われたその言葉に、くらりと眩暈のようなものを感じた。
昨今ライトノベルやらで流行りの異世界召喚しかも聖女もの。したくないけど参加型で自分がその聖女である、となればまぁ、眩暈の一つや二つしたっておかしくはないだろう。
茉莉に向けてそう言ったのは、海外の映画俳優と言われれば納得するだろうし、ましてやアイドルだと言われたなら絶対信じるであろう美しさを持った青年だった。
平静を保とうとしているが、声はかすかに震え、しかしそれをこちらに悟られないように、としているのだろう。
こちらに対して不信感を与えないように、との配慮なのか柔和な表情を浮かべてはいるが、しかしその瞳には確かな決意が宿っていた。
「……救えと言われましても、荒事は、ちょっと」
これがもっと目の奥に野心を隠しているだとか、いかにしてこちらを利用してやろうか、みたいな相手だったなら茉莉だってもっと別の反応をした。この誘拐犯め! とか言いながら一発とりあえず勢いで殴るくらいはしたと思う。
けれども、そんな感じで目の前の青年を殴るのはちょっと、と茉莉は躊躇ってしまったので。
一先ず正直に思った事を口に出した。
そして茉莉のその言葉に。
「……荒事、あ、いえ、聖女にそのような事をさせるわけではないのです。
申し訳ありません、言葉足らずでした」
きょとんとした表情を浮かべ、それから前置きも何もなしに本題に入ったようなものだったと気付いたのだろう。
謝罪する青年だったが、しかし最初の切羽詰まったような顔よりも、ちょっと焦った時の表情は見た目の年齢よりも少しだけ幼く見えてしまって。
「いえ、おかまいなく……?」
そんな事を言っている場合じゃないだろう、と思いながらも。
茉莉はそう返してしまったのであった。
世界を救え、と大層な事を言われたものの、しかし話をよくよく聞けば長い旅を経てどこぞへ行けだとか、魔王を倒せだとか、そういう事をするわけではないらしく。
この世界には魔物がいるにはいるけれど、それらはこの世界の人間で対処可能。
けれども、魔物を倒した後、そこに仄かに残る瘴気というものに関してはしつこくしぶとく残り続け、それが蓄積されて世界に淀みが溜まり、放置し続けると世界の滅びにつながるのだとか。
瘴気もこの世界の人間で対処できればよかったのだが、そればかりはどうにもならなかった。
浄化できる力を持つ者がたまに生まれるとはいえ、その浄化能力は微々たるもの。
魔物を倒さなければ瘴気は発生しないけれど、しかし倒さなければ増えた魔物は人を襲う。倒さなければ魔物の軍勢となって人々を襲い、そうなれば人が滅亡する可能性が高まる。
大昔から瘴気が存在し続けていたのもあって人間には多少なりとも瘴気耐性があるけれど、放置し続けていいわけではない。
徐々に濃くなる瘴気を放置してしまえば、いつか人が耐え切れなくなるほどに汚染される可能性はあるし、そうでなくとも赤ん坊など生まれたばかりの子供に濃い瘴気は毒でしかない。
神の奇跡により異世界から瘴気に汚染されず、また瘴気を浄化できる力を持った者を呼び寄せる事ができるようになったからこそ、この世界は未だ存続を許されている。
聖女に何とかしてほしいのはあくまでも瘴気だけで、別に危険な場所に赴いて魔物を倒すだとかはしなくても良いとの事。
むしろこの世界に滞在しているだけで瘴気は徐々に薄まっていくので、少しの間ここで生活してくれるだけでいい、と言われてしまえば。
「成程確かに荒事はない」
茉莉は一先ず命の危険はないのだな、と安心したのである。
更によくよく話を聞けば、元の世界に帰る事も可能なのだとか。
それなら、何も問題はない。
突然異世界に連れてこられた時に最悪の可能性を考えたりもしたけれど、帰る事ができるというのであればちょっとした旅行みたいなものだと思ってどんと構えておくことができる。
茉莉に聖女としてのあれこれを教えてくれたのは、世界を救ってほしいと願った青年だった。
着ているものから薄々察していたが、彼はアンソニーと名乗り立場としてはこの国の王子だった。
異世界召喚された話の中で、王子というのは悪役になっているケースもあるけれど、そういうのは基本的にこちらに都合のよさそうな耳障りの良い言葉を並べ立て、いかに利用してやろうか、みたいな感じなので茉莉はそのパターンではなさそうだなと安心した。これが演技だったら色んな意味で人間不信になりそうだけど、その時はその時だろう。
後になってなんで騙されたんだろ、とどう考えたって怪しい部分をスルーして騙された事を後悔するような事になればまだしも、少なくともここまでの時点で茉莉がアンソニーを疑わしいと思えるような部分は何もなかったのだ。
であれば、後々騙されたとなった場合、アンソニーの方が何枚も上手だったと諦めもつく。というか諦めしかない。
ともあれ、別に危険な場所に茉莉が直接行く必要もなく、ただお城の一室でお世話されつつのんびり数日過ごせばいいとなれば、泣いて喚いて元の世界に帰してよぉ! なんて言う必要がない。
時間軸に関してどうなんだろうとアンソニーに聞いてみたが、この秘術を与えてくれた神曰く、召喚した時間軸に帰す事ができるもののようなので、神の言葉に偽りがなければ召喚された直後の時間に戻る事が可能であるとも言われた。
まぁ、アンソニーが直接その目で確認できるものではないので、そこは異世界から聖女召喚する秘術を教え与えた神様を信じるしかない。
そういうわけで茉莉の異世界のんびり生活は幕を開けたわけなのだが。
てっきり、よくある異世界聖女召喚物のように、この世界に聖女を留めておこうとかして、あの手この手でイケメンたちが……なんていう事があったりするのだろうか? なんて茉莉はほんのちょっとだけ想像したりもしたのだが。
そういった事はなかった。
それどころか、アンソニーと会ったのは召喚されて聖女に関する説明をされた日だけで、それ以降一度も顔を見る機会がなかった。
茉莉につけられたメイドに聞けば、どうやら彼は執務をこなしているために、こちらに足を運ぶ余裕はないのだとか。
まぁ王家の人間、それも恐らく将来的に国王になって国を導く立場となれば今から仕事に慣れておかないといけなかったり、そうでなくてもやる事は一杯あるんだろうな……と茉莉は上の人間って大変だにゃあ、と完全に他人事のように思っていた。
忙しいとわかっているのに話し相手になってほしいなんて我侭を言う気はない。
こういうのって、大抵異世界に興味持って向こうから聖女の暮らしている世界はどんななのか? とか質問したりするシーンが少なくとも茉莉の知る創作物ではありがちだが、そういう展開になる事は当分ないだろうなと思うくらいにアンソニーとの接触がない。
あっても詳しい説明なんてできるわけもないから、無い方がむしろ茉莉の精神的には良いくらいだが、しかし自分の知るセオリーが一切適用されていないというのもなんとなく、肩透かしを食らった気分というべきか。
茉莉に許された行動範囲は基本的にお城の中だけなので、外に出る事もない。そのせいで暇を持て余しているというのは否定できなかった。
城下町とか、行ってみたい気持ちはある。
あるけれど、その場合は治安がそれなりに安全とはいえ絶対に安全というわけでもないので、聖女に万一の事があった場合を想定して護衛をつけなければならないし、護衛をつけて出かけるとなればそれはつまり、第三者から護衛付き、となれば身分が尊い者とみなされて、貴族を狙う犯罪に巻き込まれないとも限らない。
できるだけお城の中で大人しくしている事が一番安全なのだと言われてしまえば、茉莉も大人しくするしかなかった。一応中庭に出たりする事は許されているので、気分転換に散歩するくらいの事はできているけれど、そうやって出歩く際にもうっかり迷子になったら困るので、メイドと一緒だ。
何故ならお城の中も中庭も相当な広さなので。
こうやって適当に城の中をふらふらしていたら、アンソニー以外のイケメンとばったり遭遇して……なんていう乙女ゲームみたいな展開も特にはなかった。
茉莉は別にそういう展開をお望みというわけではないが、それにしたって聖女召喚されたのにそれっぽい事が何もないのだ。せめて何か一つくらいそれっぽいイベントがあったっていいではないか、と思ってしまうわけで。
まぁ、下手にイケメンと知り合って恋愛イベントが起きても面倒なので、一緒に行動してくれるメイドさんと話に花を咲かせるくらいで丁度いいと茉莉は思っている。
中庭に咲いている花は、異世界だからなのか茉莉の知らない花もいくつかあったし、こちらの世界の話をメイドさんから教わったり。
刺激的なものはないけれど、数日まったりするくらいであるならこれくらいが丁度いいのだろう。きっと。
そんな風に思っていたのがフラグだったのかはわからない。
けれど、部屋にこもりっぱなしも運動不足になってよろしくないと、今日も今日とてメイドさんと共に中庭散策をしていたところで。
「お前が聖女だな」
なんてとても偉そうな態度と声でもって茉莉に声がかけられたのである。
見れば面は良いけれど、性格はあまりよろしくなさそうな雰囲気の青年がいた。
乙女ゲームで言うのなら攻略対象にいそうな見た目をしているけれど、しかし態度が俺様すぎて茉莉はちっともときめかなかった。俺様キャラは好みではない故に。
そんな男はディオンと名乗った。どうやらアンソニーの弟らしい。
しかし、どうやら仲はそこまでよろしくない模様。
散々兄をこき下ろすような事を言って、言うだけ言って満足したのか颯爽と去っていった。
「なにあれ」
茉莉の口から思わずそんな言葉が出てしまうのも、無理はなかった。
「聖女様、流石にここでは誰が聞いているのかわかりませんので……」
「成程。つまり別の場所で説明してもらえるって事ね」
そう言えばメイドさんはとても困ったような空気を出して――表情には出なかった――とりあえず茉莉に与えられた部屋に戻る事になったのである。
アンソニーは王子としての執務で忙しくこちらに来る事ができないらしい。
だがディオンはそうでもないようで、城のあちこちで見かけるのだとか。
メイドさんの言葉を素直に受け止めるのであれば、つまりアンソニーとのエンカウントはしないけど、ディオンとのエンカウントはこれから先もあり得るという事か。
ついでに言うと、アンソニーは正妃の子だがディオンは側妃の子らしい。
兄弟と言ってもつまりは異母兄弟。
確かに、そこまで似てる感じじゃなかったなぁ、と茉莉は納得した。
どっちかが母親似でもう片方が父親似だと勝手に納得していたのに、どうやらアンソニーもディオンも容姿は母親譲りなのだとか。
王は側妃の事を愛しているらしく、それ故にディオンにも甘いらしい。
成程なぁ、と茉莉は思わず頷いていた。
身分が高い事と、甘やかされているからあれだけ増長したんだな、と思うばかりだ。
アンソニーはこちらに対して腰が低い部分もあったけど、品が良かった。
教育に関して親がどこまで関わっているかはわからないけれど、きっとアンソニーのお母さんである正妃様も気品に満ちた人なのだろう。
そんな風に自然と思い浮かべてしまったが、同じようにディオンの母である側妃の事は思い浮かべたいとは思わなかった。
茉莉もここで既に数日を過ごしている身だ。
茉莉に対して不自由がないようにと色々心配りをしてくれているところから、彼女はアンソニー側の人なのだろう。
正妃と側妃に関してはわからないし、国王も何をどう考えているかはわからないが、メイドさんの態度や反応からほんのり察する事はできる。
それはきっと、茉莉が空気を読む事が何より重要だとされている国出身であるからだと思われた。
空気は吸うものだが、しかし場の雰囲気を察しないと場合によっては八つ当たりの的になったり言いがかりをつけられたりと、色々と面倒な事になったりするものなので。
直接何を言われなくとも、察する必要はどうしたって出てくるのである。
聖女だから、とここにいる人たちは茉莉に丁寧に接してくれているけれど、なんでもかんでも知りたい事を教えてくれるわけでもなかった。
国の中枢に近い位置にいるであろう状態なので、国家機密みたいなものを簡単に教えられてもそれはそれで困るのだが。茉莉としてもどこからどこまで知っていいものなのか、手探りである。
ただ、なんとなく嫌な予感はしていたのだ。
アンソニーは聖女に余計な気苦労をさせないように、とメイドたちを手配していたようだが、しかしそこにディオンがちょくちょく姿を見せるようになった。
彼はアンソニーの事を嫌っているようで、来るたびやれあいつは仕事ができないだの、未だに片付けられていないだのと無能アピールをしてくる。ネガティブキャンペーンと言ってもいい。
これでディオンが自分の仕事をやっていないのであれば、棚に上げて何言ってんだ、となりそうなものだがしかしディオンはきちんと自分に与えられた執務に関しては終わらせてから来ているらしい。
そのせいで茉莉としても文句は言えない。
やる事やらないでこっちに来てるならまだしも、やるべきことを済ませてから来ているとなれば、いくら茉莉が聖女であろうともこの国の王子の一人に対して露骨に文句など言えるはずもない。
今はまだそれなりに不自由なく過ごさせてもらっているが、下手にディオンが敵に回るようになったなら、メイドたちにも嫌がらせの魔の手が伸びるかもしれない。聖女に直接危害を加えようなんて考えてなくても、聖女を困らせるために周囲の人間を巻き込む可能性は十分すぎる程考えられた。
執務を終わらせてはやって来るディオン。
執務が終わらず一向に姿を見せる事のないアンソニー。
そういう点で見れば、ディオンの方が優秀なのかもしれない。
その事実だけを見れば、という一文がつくだろうけれど。
茉莉は知らない。
王子がどんな執務をこなしているのかを。
生憎と茉莉は元の世界でも上流階級と呼ばれるような生まれ育ちではない。どこにでもある一般家庭の範疇である。
なので、上の苦労など知った事ではないけれど。
果たしてアンソニーとディオン。二人に王子に割り当てられたお仕事とやらは、同じくらいなのだろうか?
茉莉付きのメイドさんにそれとなく聞いてみようにも、王子の執務をメイドがどこまで把握できているかは謎である。
仕事の内容が多くてもそこまで労力のないものだとか、少ない案件でも内容が相当難しいとか、執務と一言で言っても中身は間違いなく違うはずだ。
それに正直な話、ディオンがそこまで賢いとは茉莉には思えなかった。
出会ってしまったあの日から、毎日のようにディオンは茉莉のところへやってくる。
そうしてアンソニーの株を下げるような事を言っては去っていく。
まるでアンソニーに好意を抱くのはやめておけと言わんばかりに。
いや、そもそも好意を抱くもなにも、召喚された日以降会ってないので好き嫌い以前の話だ。
けれどもそんな事は関係ないとばかりにディオンはやってきて、アンソニーの評価が落ちるような話題を口にして、そうして去っていく。
「ではな、マリー」
聖女、とは呼ばず名前で呼ぶのは果たしてどういう意味を持っているのか。
だが、少し発音しにくいのか、ディオンは茉莉の事をこの国の住人のような呼び方をする。
その事について、茉莉は特に何も思わなかった。
それよりも気になるのは……
「――ねぇ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
茉莉は自分の世話をしてくれているメイドさんに声をかけた。
他愛ない内容であれば案外気さくに答えてくれるけれど、しかし踏み込んだ内容になると彼女は「申し訳ありません、それについては答えられません」と機械的な物言いをする。
茉莉とて無理に聞き出すのはな……と思ったからこそ踏み込みはしないし、聞いて良い内容かそうでないかは彼女の態度で判断できる。
答えられなくとも、それが答えであるとわかる。
「なんでしょうか、聖女様」
「この国の次の王様って誰なの?」
正妃の子であるアンソニー。
側妃の子であるディオン。
もしかしたら他にも王子様と呼ばれる存在がいるかもしれないが、茉莉が知っているのはこの二人だけだ。
普通に考えるのであれば、正妃の子であるアンソニーが次の王になる……はずだ。
けれども、毎日にようにあいつは仕事ができないだとか、それはもう好き勝手ボロクソに彼の事を言っていくディオンの自信満々っぷりを見ると、もしかして……? と思わないでもない。
単純に自己を客観視できないで、自分が優秀であるという勘違いをしている可能性もあるけれど、もし本当にディオンが優秀であるが故のあの態度であるのだとしたら。
自分の世界にある異世界召喚物のセオリーやらを思い出しながら、茉莉はメイドさんの言葉を待った。
「……つ、ぎの王、でございますか」
おや? と茉莉が思うにはこの反応だけで充分だった。
もしかしてまだ決まっていないのか、と思えるような反応。
だが、メイドさんの声はもっと硬く、何かを堪えるようだった。
「このままいけば、ディオン殿下になるかと……」
自分は優秀ですというのを隠しもせず堂々と自慢気に言う彼が、どうやら次の王となるらしい。
なんだ、あの王子様口先だけじゃなくてちゃんと実力もあるタイプなんだ。
そんな風に思うものの。
メイドさんの反応を見る限り、それはあまり望まれていないように思える。
まぁ、メイドさんはアンソニーが茉莉につけてくれた人なのでアンソニー贔屓というか、そっち側陣営と考えればディオンを認めるというのは精神的に難しい部分があるのかもしれない。
敵対派閥の人間をすんなり認める事ができるか、となると余程敵対関係にある人物が人間的にも優れていて認めるしかない……! とかではないと能力だけ高くてもね……と茉莉だって思うわけで。
単純に血統主義で、側妃の子より正妃の子を持ち上げているだけ、という可能性もあるけれどアンソニーとディオンでは、態度からしてディオンの方がそれっぽい。側妃の子であるディオンが次の王になるというのであれば、血統主義というよりは実力主義と考えるべきか。
異世界召喚。
聖女物。
そういったいくつかの作品を思い浮かべる。
(……もしかして……!)
そうして茉莉はとある結論に至ってしまった。
「ねぇ、もう一つ質問。
それじゃあ、王子が王に即位するのはいつ?」
まだまだ先の話です、と言われれば茉莉の思い浮かべた想像は外れる事になる。
だが――
「聖女様が、ご帰還なされた後ですよ」
どこか泣きそうな顔をして、メイドさんはそう答えたのであった。
「そう、それじゃあ私はその光景を見る事ができないのね」
「えぇ、えぇ、はい。そうですとも……」
泣くのを堪えるように、その声は震えていた。
その日から更に数日が経過した。
聞けば瘴気は大分薄れてきたので、そろそろ聖女の役目も終わるらしい。茉莉としては数日間、文明の利器もない退屈な生活と言えなくもなかったが、まぁ遠い地へ旅行に来てホテルでまったりしているようなものだと思えたので、別段文句はない。
ただ、相変わらずディオンはやって来たし、いつものようにアンソニー下げ自分上げな話をして去って行く。
茉莉の中の考えは、どんどん固まる一方だった。
そうして茉莉が帰る事ができる日というのは、そこから案外早くに訪れた。
聖女として召喚された時、周りには聖女を召喚するための魔法使いみたいな人たちと、それを統括するかのようだったアンソニーだけだったので、てっきりまた召喚された場所にそのまま案内されるのかと思いきや、お城の玉座がある場所へ案内された。謁見、という言葉が浮かぶが、えっ、今!? という気持ちでしかない。
普通、そういうの最初の方じゃない?
余計な混乱を避けるために必要最低限の人としか関わらないようにさせてたって言われたらまぁわからなくもないけれど、でも国王陛下とか王妃様とか、そういうのと会うの最初と最後だけとかそういうやつなんじゃないの!? なんて突っ込みたい気持ちはあったけれど、世界が違えども相手は権力者。下手な事を言って精神的に敵に回るような事になるのは避けたい。
国王と思しき男はどうでもいい。
正妃と側妃と思しき女性を一瞬だけ見て、茉莉はあー、二人ともホントに母親似なんだなぁ、と納得した。
アンソニーの母である正妃はどこか表情が強張っているような気がするが、それをなるべく悟られないようにしている――ように茉莉には見えた。
対するディオンの母である側妃。
こちらは王からの寵愛は自分にある事もあってか、正妃以上に堂々としていた。
ただなんていうか、正妃と見比べるとあまり賢そうな雰囲気ではない。
……まぁ、茉莉の知る悪役令嬢作品だとかにありがちな側妃だとか、そもそも優秀なら正妃いらないよね? って事になるので、きっとお察し案件。正妃の方が王に惚れこんでどうしても、と身分ごり押しで割り込んだ可能性もあるけれど、愛されないのがわかっているのにそれでも妃としての立場が欲しいだけであるのなら、今この場にいる正妃はもっと堂々と――それこそ側妃のように自信を持ってここにいるはずだ。
けれども茉莉の目にはとてもそうは見えなかった。
そんな風に失礼にならないように見ていれば、国王が口を開いた。
曰く、聖女には世話になった。
正直世話になってたのはこっちだよなと思いつつも、余計な茶々はいれない。
これからそなたを元の世界へ帰すが、その前に何か望みはあるか?
そんな風に聞かれて、茉莉は少し考える素振りを見せた。
「それでは、一つだけ。
近々殿下が即位すると聞きました。できればその戴冠式を私も見とうございます」
その言葉に、周囲がざわめいた。
黙って控えていた兵士であろう男たちも、王の側近たちと思しき者たちも。
「私はそれを見届けてから帰りたいと存じます」
言葉遣いこれで合ってるっけ? と思いながらも茉莉は告げる。
「マ、マリー、それは」
「ディオン殿下が毎日のようにやって来ては自分は偉大な王になる、と言っていたので。戴冠式はさぞ素晴らしいものになるのでしょうね。私、そういうの見た事ないからどうしても見てみたくって」
ディオンが焦ったように何かを言おうとしていたが、茉莉はその言葉の先を言わせないようやんわりと微笑みながら言った。
「それとも、私が見てはいけない、異邦人に戴冠式を見せるのは法に反する、などという事があるのでしょうか?
ただ滞在していただけとはいえ、私は聖女として招かれました。瘴気と呼ばれるこの世界にとって害のあるものを浄化するために、留まりました。
瘴気が長く留まるというのなら問題ですが、聖女はちょっと長めに残ってもこの世界にとってそこまでの害にならないのでは?
もしかして、帰す、というのは嘘で帰せないため、これから人知れず始末するつもり……などという事はないでしょう? もしそうなら、歴代の呼ばれた聖女たちは間違いなくこの世界を呪って呪って呪いつくしているでしょうし。
それに、聖女を呼ぶ日も帰す日も、必ずこの日でなければならない、という決まりはないとも聞いています。
だったら、少しくらい滞在期間を延長しても良いのではないでしょうか?」
途中の人知れず始末する、という部分で周囲が一層ざわめく。
もしそんな事をすれば、確かに聖女はこの世界を呪うだろうし、そうでなくとも神の怒りを買う。
昔、聖女を無理にこの世界に留めようとした他の国は聖女に呪われ、神の怒りも買い大変な目に遭ったのだから。
にこにこと微笑みを絶やさぬまま、茉莉は国王を見た。
即位するまで何年も先、というのであれば流石にそこまで聖女を留めておくわけにも……なんて言って帰された可能性は高い。
だが、茉莉付きのメイドに聞けば即位する日は聖女が帰った数日後なのだ。
たった数日。それなら、見てから帰ったって何も問題はないだろう。
どうせ大々的に聖女帰還の儀なんてやるわけじゃないんだから。
茉莉はそっとアンソニーを見た。
彼もまた正妃と同様表情が若干強張っていたが、それでも平静を保とうとしていた。
しかし茉莉の言葉に、今はどこかぽかんとしているようにも見える。
「そんな事許されるわけが――」
「あいわかった! 聖女よ、其方に望みを聞いたのは確かに余である。そしてその望みは叶えるにあたりささやかなもの。故にその望み、叶えようとも!」
側妃が何かを言いかけたところにかぶせるようにして、王が声を上げる。
「陛下!? そんな!」
「聖女帰還の儀はいつでも問題ないが、戴冠の儀については定められた日に行わねばならない。
であれば、王位継承権一位の座にあるアンソニーが次なる王だ」
「え……」
「あれ?」
顔を青ざめて立ち尽くすディオンの、絶望したみたいな「え」という声。
あれ何か思ってた展開と違ってきたぞ、という茉莉の声は直後沸きあがった歓声に搔き消された。
――異世界から聖女を召喚する秘術。
神から与えられたとはいえ、たかが人間が気軽に扱えるわけではない。代償は必要である。
世界の瘴気を消すと言っても、言葉通り世界中というわけではない。
当時の人間たちにとっての世界は、自らが暮らす国であり、それは神からみればとてもちっぽけなものだった。
陸続きであればまだしも、海を越えた先にも別の国があるなんて知らなかった頃の人間たちにとっての世界なんてそんなものだ。
勿論、聖女が長く滞在してくれるのであれば、国から更に他へと浄化の力は広がっていくため、聖女がこの世界を選んで残ってくれるのであればこの世界の人間にとってはまさしく救いとなる。
だが、大抵の聖女は帰還を望んだ。
文字通り別の世界から呼び寄せた聖女を、同じ時間軸、元の場所へ戻すというのは簡単な話ではない。
神の力を借りなければこの世界の人間だけでは到底、何千年かかったってできやしなかっただろう。
そこで神は、国の長たるものの魂を求めた。
国を救うための相手を呼ぶのだ。
呼ぶときと帰す時の儀式を行う王家の者は同じでなくとも構わない。ただ、帰す時には一人、王族の魂は神の国へと旅立つ事となる。
たった一人の犠牲で国が救われるのだ。
王族の務めとするなら、誉なのだろう。
死を恐れ、聖女を留め帰さないようにしようと足掻いた者もいたが、そういった国は聖女の呪いと、神の怒りを買った。結果として折角浄化された国は聖女を召喚する前以上に酷い有様となり、滅びたところもある。滅びを免れた国もあるが、素直に滅びていた方がマシだと思うような事になった国もあった。
聖女を帰すためには、王族の魂を一人分犠牲にしなければならない。
秘術を使うにあたっての神への対価であるらしい。
聖女に残ってもらえれば魂を差し出す必要はないが、しかし多くの聖女は帰還を望む故に。
王家は子を一人だけ、なんてできなくなった。
元々身分の高い者には様々な危険が付きまとう。
兄弟が多くいれば継承争いだって起こりえる。
多くても少なくても争いの元になるのは否定できないが、しかし聖女を召喚するであろう年代には子が少ないと王家の直系が絶える事にもなりかねない。
実際正妃の子はアンソニー一人であるし、故に側妃の子であるディオンが存在した、と茉莉は考えたのだが。
「当時、国内の状況は少々荒れていました。
天候の悪化による作物の不足で食料が足りなくなっていた事で、隣国は支援を申し出た。
条件として隣国の公爵家の娘を我が王――父の側妃にと。
どうやら彼女は父に惚れ、既に母という婚約者がいたにも関わらずそこに割り込む形となったのです。
正妃とならなかったのは、側妃に国の重要な部分を任せたくない、という父なりの抵抗でもありました」
「はぁ……」
謁見の間から離れ、茉莉はアンソニーと正妃である女性とテーブルを挟み向かい合っていた。
「当時の国の力関係では向こうが上だったのもあって、断り切れなかったのです。
断った事で戦争に発展すれば、当時食糧難に陥っていた我が国は間違いなく負ける。大勢の民を人質にとられたようなものです。受け入れるしかなかった」
「大変だったんですね……」
茉莉としてはそれ以外、何を言えただろうか。
瘴気問題ならまだしも、それ以外の問題は聖女に解決させるには荷が重すぎる。
「あちらの公爵家にも隣国の王族の血が入っているのもあって、血筋としては良いのですが……しかし彼女は甘やかされて育ってきたようで、教育面では少々」
「あっ、なんとなく察しました」
創作でその手のやつは見た。
そう言いたかったが、言ったところでな、と茉莉は曖昧に頷いた。
要するに、隣国の権力者の娘であった側妃は甘やかされて育ったために国内で嫁の貰い手がつかなかった。
ついでにこっちの王様に惚れて、この国の弱みに付け込んで貰い手のない娘を押し付ける形で片付けた。
当時は向こうの国のが力関係的に上だった、という言葉からして今は違うのだろう。
でも、甘やかされて育っていた側妃だ。こっちで王と正妃が仲睦まじい様子を見せれば途端に嫉妬にかられて一体どんな凶行に及ぶかわかったものではない。
それ故に、王と正妃は冷め切った関係を演じていたのだとか。
素直に愛し合えない関係って大変だにゃあ、としか茉莉には言えない。
いずれ聖女召喚を行うであろう事はわかっていたので、正妃との間に子を作り、そうして王はしぶしぶ側妃とも子を作った。表面上は側妃を溺愛しているように演じていたといっても、内心ではそんな事もなかったらしく。
本来ならば、ディオンこそを聖女を帰すための対価として神に差し出すつもりであったが、しかし側妃は聖女を帰す日を強引に定めたようなのだ。
できる限りのんびりと聖女には滞在してほしかったが、戴冠式がくれば王位継承権はどうしたってアンソニーが上だ。だからこそ側妃は戴冠式の前に聖女を帰すように仕向け、そこでアンソニーの魂を使うようにしたらしい。
隣国の力関係が昔ほどではなくなったといっても、ここで側妃の意に添わぬ事をすれば何をしでかすかわからない。犠牲が多く出る可能性が非常に高く、王や王妃もどうにかこの状況を打破するため色々と奔走していたらしい。
側妃という形とはいえ嫁にやった娘。
厄介払いの形であろうとも、そんな娘から邪険にされておりますの、なんて言えば隣国からすればつけ入る隙である事は言うまでもない。
王が側妃を溺愛しているように見せているのは、隣国へのパフォーマンスでもあるが、それが崩れてしまえば戦の影がどうしたってちらつくのだ。
権力者の人間関係めんどくせー! とは茉莉の正直な感想である。
ディオンを次の王にするつもりなんて国王にも正妃にもこれっぽっちもなかったが、下手に争いが勃発する可能性を考えるのなら、とアンソニーはこれも王族の務めとばかりに聖女を召喚し、そうして帰す時は自分が犠牲になる事を選んだ。
自己犠牲やば……王子様性別違ったらあんたが聖女様だよ……とは思っても言わない。
ここで下手に聖女を帰すには王族の魂一つを犠牲にします、と聖女に明かすのは悪手であった。
言えば、同情か罪悪感かはわからないが、聖女が留まると言い出すかもしれない。
だがそれは、決して心の底からの望みではないのだ。
帰りたいけれど、自分が帰る事でこの人は死ぬ。
そう思って残り続けたところでいずれ聖女の後悔が世界に対して影を落としかねないし、そんな状況のまま聖女がこちらの世界で命を落とす事になれば。
死ぬ間際の後悔が、呪いに変貌する可能性もある。
故に神からも神託という形で、聖女召喚に関して、聖女に詳しい方法を教える事は禁じられた。実際には、同情を引く形で留めようとすることを禁止、が正しい。
このままではアンソニーは聖女を帰すために死ぬ。
故に、その前に自らに与えられた仕事を片付けて、引継ぎなども万全に整えていた。
下手に茉莉と会う回数を増やして、もし途中で自らの心の弱さから救いを求めるような事になってはならないと、アンソニーは使用人たちに命じて自分は関わらないようにしていた。
これが、アンソニーが全然茉莉と会わない理由であった。
茉莉もまぁ確かに、お前を帰す時に自分が死ぬって思ったらうっかりそれが表に出る可能性あるよなぁ……と思ったので、それなら最初から接点最小限にするわな、と納得できてしまった。
「あの、私てっきりディオン殿下がアンソニー殿下の事を下げて自尊心満たすために来てるのかなって最初は思ってたんですけど」
ディオンからすれば確かにアンソニーが聖女を帰すのなら、次の王は自分だ。どうせアンソニーは死ぬのだから、今のうちに何言ったっていいだろうと思っていた節があってもおかしくはない。
実際そう思っていた可能性はかなりある。
「ただ、その。
自分はあいつに比べてとても優秀なんだ、なんて言ってましたけどでもそれって」
「あぁ、元々彼に王位を継がせるつもりはなかったようなんだ。父上は。
実際執務だって私のを引き継がせたりはしていない。仮に即位したところで、当面は母上が仕事の補佐につくつもりだったし、そこから徐々にお飾りの王として周知させいずれは彼を引きずり落とす……くらいしかできそうになくてね」
「気の長い話だ、と言われそうですが、下手うつと隣国が我が物顔でクビ突っ込んできそうですもんね」
「えぇ、その通りです」
側妃の子が王になる、というのも長い歴史を見ればないわけではない。
しかし、ディオンは隣国の王家の血もうっすらと引いていると言えなくもないのだ。
無関係と言い張るのも難しく、争いを起こさぬようにするにも一発で解決できるような都合のいい話はなかった。
「てっきり、こんな優秀な自分が聖女を留めておけば、瘴気問題はその間解決し続けるも同然! って感じで私に残ってほしいのかな、と思ってました」
「そうなんですか……実際は、もし私に貴方が想いを寄せているような事があるのなら、無能な男に愛想を尽かせるつもりでダメ押ししていただけのようでしたけど」
「アピール下手くそか」
いや、実際茉莉はそう考えていたのだ。
あんな男はやめて自分につけば美味しい思いができるぞ、という意味でのアピールだと思っていたし、もし王になれないアンソニーが臣籍降下するとして、どこぞの身分はあっても不細工で有名な誰も嫁にしたくない面倒な相手を押し付けられたりするのではないか、と思っていたのだ。仮にそうなら、茉莉が残る際アンソニーのために、みたいに言えば――結果としてアンソニーが王になる可能性が高まり、もしそうなればそのお相手にはディオンがスライドするんじゃなかろうか。
そんな風に考えていたのだ。
そういうお話があったような気がして。
実際スライドしたのは死ぬ役目だが。
戴冠式の日を既に決めてあった事で今更その日をずらす事もできない。
次にその儀を行うに相応しい日にずらそうにも、既に決められてしまった日のために準備までしてきたのだ。
側妃が今から何かを言ったところで、最早その予定は覆る事もなかった。
たとえ、その日取りを変える事ができたところで、聖女が残ったままであるのなら王位継承権一位であるアンソニーが王になるし、聖女を帰した後でアンソニーが退位しディオンが即位、なんてあるはずがない。それは間違いなく正妃も王も望んでいないしいくら側妃が何かを言ったところで側妃の望んだ未来にはならないだろう。
聖女を帰す日、聖女は王族が一人死ぬことを知らぬまま本来は帰るのだそう。
まぁそうだろう。自分が帰る事で人が死ぬとなれば、人によっては心を病む。帰った後ももやもやとした気持ちが残り続けて今後の人生に影を落とす事になると言っても過言ではない。
茉莉が戴冠式まで残ると言った事で真実を明かす事になったけれど、茉莉としてはそうなんだぁ……としか言いようがなかった。
側妃が今更足掻こうにも、既に戴冠式の日は間近に控えアンソニーが即位する事が確定した。
となれば、その後茉莉が帰るための対価として神に支払われる王家の魂は、即位する事もなく本来スペアとしての立場であったディオンである。
「これ、もし私がうっかりディオン殿下に恋をするとかになった場合、どうなってたんでしょうか」
「その場合、聖女が留まる原因であり理由なので、彼が王にならずとも死ぬ事はなかったのではないかと。
その場合彼には新たな爵位を授け、聖女と過ごす事になったでしょう」
「成程……」
「もしくは、聖女と共に国を治める、という名分で彼が即位したか。
そのあたりは、陛下の裁量になった事でしょう」
アンソニーの言葉に続いて、王妃がそう続けた。
ディオンのために残ると茉莉が言い出したのであれば、彼は王にそのままなったか、そうでなくとも相応の身分を与えられていた。
茉莉が残る事で彼が死ぬ、という未来を考えなかったのか、という疑問はここで消えた。
ディオンのためではなく、単なる興味本位で滞在を伸ばすと茉莉が言い出すとはディオンも考えていなかったのだろう。
帰るのなら早々に。残るのなら永遠に。
そんな風に考えていたに違いない。
「彼が逃げ出す事はない。そこは安心してくれていい」
アンソニーがそう告げる。
確かに、今までは自分が死ぬことはないと思っていたからこそのあの態度だったのだろう。しかし今、それは覆り、自分こそが死ぬ運命となれば。
逃げ出そうと考えるのも当然だが、王はそれを許さなかった。
そもそも必要のなかった側妃を迎える事になったのは、当時の王家の力不足によるものだけれど、だからといっていつまでも側妃をのさばらせておくわけにもいかないと考えていたのだろう。
本来ならば国王と正妃はもう何人か子を作りたかったが、多く作ればその分聖女召喚の対価として消耗される事になるのは目に見えている。側妃の子よりも正妃の子の方がより正当な血筋だろうとか言われて逃れられる可能性はあった。
アンソニーが死んだ後、ディオンはお飾りの王にしてその後どこかで失脚させて、他の継承権を持つ者へ王位を譲るところまで考えていたらしいので、知らなかったとはいえそれを防いだ茉莉は正妃とアンソニーに深く感謝される事となったのである。
「それじゃあえっと、その側妃はこれからどうなるんでしょうか?」
今まで好き勝手していたらしい側妃が、黙っているとも思えない。
茉莉の疑問はそういう意味では当然のものだった。
それに関して、正妃はあっさりと答えた。
ディオンが聖女を帰すため命を落とす事に関しては、名誉な事とされる。
故に、側妃の立場はそこまで悪くはならないのだが、しかし今までが今までだ。
そのまま子を失い悲しみに暮れる母として、離宮で冥福をしばらく祈るという形で公表し、そのまま幽閉するつもりだと。
まぁ、下手に実家に泣きつかれても面倒だもんな……とは思う。
それに、元々王として即位させたところでその後失脚させるつもりであったディオンには後継者としての教育も受けさせていないようだった。失脚させた場合は、側妃だってもしかしたら命がなかった可能性もある。
立場が弱い国だったからっていつまでもやられっぱなしってわけじゃないもんね、と思いながら、茉莉は戴冠式までの数日を、やはり今までのようにのんびりと過ごすのであった。
違いとしては、その数日の間アンソニーとの交流が増えたくらいか。
――そうしてアンソニーが即位するのを見届けた後。
茉莉は帰る事にした。
王となったアンソニーと、王になれなかったディオン。
ディオンの顔は真っ青で、茉莉を見るなり縋るような目を向けてきた。
「な、なぁ、マリー。考え直してくれないか。
今ならまだ、残ると言ってくれさえすれば」
「いえ帰ります。用も済んだので」
下手に縋られても、茉莉にとってディオンというのは自慢話と人の悪口しか言わない相手だ。
情があるか、と言われても無いとしか言いようがない。
関わった回数は確かにアンソニーよりも多いけれど。
しかし、最初に丁寧で真摯に接してくれたアンソニーと、そうでもなかったディオンとではやはりどうしたって茉莉の中の天秤はアンソニーに傾く。
王に即位したアンソニーにはこれから、妃となるべき相手を選び娶らなければならないのでそれこそ忙しくなるが、そこに茉莉が名乗りを上げるつもりもなかった。お妃様とかとても面倒で大変そう。茉莉の感想としてはそんなところだ。
死に対する恐怖なのか、ディオンは最後まで騒いでいたが、しかし儀式が始まれば眠るようにディオンは意識を失いその場に倒れた。
そうして茉莉の足元に展開されていた魔法陣が光り輝く。
これでこことはおさらばか、と思って儀式を見守っていたアンソニーたちを見れば、彼は仄かに微笑んで頷いた。
「貴方のおかげでこの国は救われ、また私も救われました。感謝します。
あちらの世界でも、お元気で」
「はい。貴方も。これから大変でしょうけれど頑張って下さい」
魔法陣からキラキラとした光があふれ出す。
その光に触れながら、茉莉はあと数秒でこの世界から自分という存在がいなくなる事を感じていた。
王や正妃の感謝の言葉を聞いて、あ、そうだ、と思い出す。
「そうだ、王子様。
私の名前ね、マリーじゃなくて、マツリっていうんですよ。
この先もう会うこともないかもしれないけれど、なんだか騙したみたいな気がするので白状しておきますね」
そう言い終えたのと同時に。
茉莉の姿はパッと消えた。
残されたアンソニーたちは聖女がいなくなり、光が消えた魔法陣を見て呟く。
「祀り……? あぁ、だから神に選ばれた……そういう事か」
大きな勘違いである。
けれども、茉莉だって異世界聖女召喚物作品のあれこれのせいで勘違いしていたのでお互い様だった。
本当の名前を縛ってどうこう、みたいなのもよく見かける展開なので茉莉さんは最初から名前を偽っていました。名前にルビ振らなかったのはわざとです。複数読み方あるやつって紛らわしいですね(◜◡◝)
次回短編予告
婚約者の王子様に近づくのは、転生ヒロインちゃん。
そんな彼女に悪役令嬢をやれと言われたので。
っていう相変わらずよくあるテンプレ。
次回 ご所望なのは悪役令嬢ではなく舞台装置ではないのかしら?
ヒロインちゃん的には同じ意味かもしれないけれど、実際そこには大きな違いがあるものなのです。