11. 次なる嫌われ作戦
つい先日春を迎え3年生になったと思ったばかりなのに、早いもので季節はもう夏の終わりを迎えようとしていた。
晩夏とはいえ、まだ日差しが強い日も多く、今日も寮の自室には窓から太陽の光が差し込んでいる。
その光に反射して窓際で揺れるモノがキラキラと虹色に輝く。
フェリクス様から頂いたサンキャッチャーだ。
雫の形をした小さなガラスが連なったそれは、窓際に飾られて眩い光を放っていた。
……婚約破棄を告げられた際にフェリクス様と初めて言葉を交わしてからもう半年くらいが経つのね。
サンキャッチャーを何気なく見つめていると、そんな時間の経過が思い出された。
この半年、幾度となくフェリクス様によって思わぬ出来事に巻き込まれた。
つまりは半年近くフェリクス様に心穏やかな日々を阻害されているということだ。
……次こそは色仕掛け作戦で嫌われてみせるわ!
改めて心に誓い、具体的な策を検討し始める。
だが、やはり私の知見ではこの前の策以上の案が浮かんでこない。
どうしたものかと頭を抱えていると、ふいに部屋の中にいたメイドのエバの姿が視界に入った。
……そうだわ! エバなら何か効果的な色仕掛けを知っているかもしれないわ!
平民は貴族よりも男女関係に奔放だと聞く。
エバはもともと元平民の母の実家が雇っていたメイドだ。
平民の女性が男性に迫る時の色仕掛けにもきっと詳しいだろう。
それになんと言ってもエバは私の祖母世代であり、人生経験が豊富だ。
自分で仕掛けたことはなくとも、見聞きした経験はあるはずだと思った。
「ねえ、エバ。少し教えて欲しいことがあるのだけど」
「お嬢様から質問をしてくるなんて珍しいことですね。なんでしょう?」
「色仕掛けって何をしたらいいのかしら?」
「……お嬢様、今なんとおっしゃいました?」
気が急いて直球すぎたらしい。
エバがピタリと動きを止めて胡乱げな瞳を向けてくる。
私は自分の失敗を悟り、仕切り直すようにコホンと咳払いをすると、言葉を選んで再度エバに問いかけた。
「実はね、私の友人の令嬢が今どうしても振り向かせたい意中の男性がいるらしいの。それで彼に色仕掛けで迫りたいと言って相談を受けたのだけど、私には良い案が浮かばなくて。色仕掛けって具体的に何をしたらいいのかしら?」
今度はどうだろうかとそろりとエバの様子を窺う。
エバは私の言葉を吟味するようにしばし沈黙すると、苦言を呈す時のような苦い顔をした。
「話は分かりました。ただ、あんまり色仕掛けはおすすめしませんけどね。そのご友人を諌めて差し上げた方が良いのではありませんか?」
「そうね、そうかもしれないわ。ただね、友人の意思は固いみたいなのよ。どうしても色仕掛けが必要なんですって。だから私もできる限りの情報を仕入れようと思ったのよ。エバは人生経験も豊富できっと色々知ってるでしょう? 何か教えてくれないかしら?」
断られそうな雰囲気を感じ取り、私は必死にエバの心を動かすべく言葉を重ねる。
その甲斐あってか、エバはやや呆れた表情をしながらも、いくつか具体的な策を授けてくれた。
これはさっそく役に立ちそうだと私はホクホク顔だ。
「――と、こんな感じですかね。ただし、繰り返しますが、やはり色仕掛けはあまりおすすめしませんよ。くれぐれも色仕掛けだけに頼らないようにとお嬢様からご友人にお伝えになった方がよろしいですよ」
「ええ、分かったわ。肝に銘じておくわね。ありがとう」
「言うに及ばずかと思いますけど、今の話を聞いてお嬢様がお試しになるのもお控えくださいね。お嬢様の場合、何もしなくとも異性を惹きつける美貌をお持ちなのですし、色仕掛けなどしたら面倒なことを引き起こすに違いありませんから。お分かりですね?」
「え、ええ。もちろんよ。私は関係ないわ」
……ごめんなさい、エバ。思いっきり私が実行する予定です……。
最後に釘を刺すように向けられた忠告に、私は表面上は笑顔で頷きながは、心の中で謝罪する。
決して悪用するわけではない。
異性を惹きつけるのではなく、嫌われるために実行するのだ。
すべては亡き母の教えである、身の丈に合った平穏を勝ち取るためだと私は自身に言い聞かせた。
◇◇◇
それから数週間後、さっそくエバの教えを実行に移す舞台がやって来た。
なんとその舞台は王城だ。
フェリクス様から打合せがしたいからと王城への招待状を受けたのだ。
政務が忙しいらしくなかなか学園に足を運ぶ暇がないらしい。
そういうことならば下級貴族である私が伺うのが道理というものだろうと素直に応じることにした。
王城の門番で招待状を提示すると、衛兵によってすぐに王太子専用の応接室へと案内された。
学園にある王族専用の部屋とは比較にならないほど広々とした空間だ。
フェリクス様の趣味なのかは分からないが、内装や家具、調度品はすべて白や黒、茶色などの色味で統一されており、全体的に落ち着きのある部屋だった。
衛兵が立ち去ると、入れ替わりで今度は執事がやって来て手早くティーセットを準備して私に紅茶を淹れてくれる。
柑橘系の香りがふわりと広がり、その香り立ちの良さだけで上質な茶葉が使われていることがありありと分かった。
さすが王城で提供される紅茶だと妙に感心してしまう。
飲み物をサーブし終えると、「しばらくこちらでお待ちください」と言い残して執事もその場に私を残して去って行った。
何十人も入れそうな部屋に一人ポツリと取り残された私は、紅茶に口をつけつつ、エバの教えを頭の中で復習する。
……今日こそはフェリクス様の嫌いな女を体現してみせるわ!
並々ならぬやる気を漲らせていると、ちょうどそのタイミングでフェリクス様が執事を伴い応接室に現れた。
「シェイラ、今日は王城まで足を運んでくれてありがとう。こちらから呼び出しておいて、待たせてごめんね。……ニーズ、あとは自分でやるからそのままティーセットは置いておいてくれる? 用事があれば声を掛けるよ」
まっすぐに私の方へ足を向けたフェリクス様は、向かい側の席へ腰掛け、私と視線を合わせる。
一緒にやって来た執事がフェリクス様分の紅茶を淹れ終えるのを見届けると、軽やかな口調で退室を促した。
バタンと扉が閉まり、前回同様、たちまちフェリクス様と私の二人きりという状態が訪れる。
「さて、今日はシェイラがセイゲル語を習得した時の学習プロセスを教えて欲しいんだけど、思い出して来てくれた?」
「はい。私の場合は、まずは基本的な単語を覚えて、次に簡単なセイゲル語の物語を声に出しながら読むようにしました。次第に語彙が増え、セイゲル語の文章にも口が慣れてくるので、自分の言いたいことをつぶやいて練習しました」
「なるほど。僕も似たような感じだったなぁ。であれば、その順番と内容で授業を進めるのが良さそうだね。声に出すという点を必ず授業で徹底してもらおう」
色仕掛けを早々に実行したいところではあるが、本題の協力依頼を疎かにすることは憚られる。
そのため、まずは真面目に今日の打合せ事項について意見を交わした。
フェリクス様はやはり察しがいいというか、飲み込みが早いというか、私の話したことを受けて、すんなりと結論を纏めていく。
……やっぱり有能な方だわ。会話がとても円滑に進むし、話していて気疲れしないのよね。
これで私に関心を向けずにいてくれたら、我が国の将来を担う優秀な王太子様として純粋に尊敬を向けられるのに……と残念でならない。
「――という点も留意が必要だろうね。まあ、こんなところかな。他に何かシェイラの意見はある?」
「いえ、追加することはありません。大丈夫です」
トントン拍子で打合せは進行し、私たちは一通りのことを話し終えた。
フェリクス様は喉を潤すためにティーカップに手を伸ばし、すでに冷めぎみになっていた紅茶に口をつける。
……本題もひと段落した今がチャンスだわ!
機を逃してなるものかと私はさっそく作戦を実行に移すことにした。
ソファーから立ち上がり、向かい側に座るフェリクス様の隣へ滑り込む。
物理的に身体的な距離を詰め、真横からフェリクス様を見つめてにこりと微笑んだ。
「お隣を失礼いたします。向かい合わせだと、フェリクス様との距離が遠くて寂しく思っていたのです。ここですと、フェリクス様のお顔も間近で拝見できて嬉しいですわ」
許可なくいきなり隣に座られるなんて、きっと強引すぎて嫌なはずだ。
ほんの一瞬だけだが、目を瞬いたフェリクス様を見て、反応があったことに私は若干気を良くする。
ここでさらなる追撃だ。
「なんだか暑くありませんか? もうすぐ秋だというのにまだまだ暖かな気候ですよね」
そう言いつつ、私はドレスの上に羽織っていたシフォン素材のボレロをフェリクス様の目の前でゆっくりと脱いでいく。
羽織ものが脱ぎ去られ、胸元や鎖骨、肩などドレスから剥き出しになった素肌が露わになった。
これはエバから教えてもらった方法の一つだ。
目の前で色っぽく脱ぐのが色仕掛けになるらしい。
……果たして色っぽさを私が出せているかは心配なところだけれど、とりあえずフェリクス様の視線は感じるわね。
羽織ものとはいえ、男性の前で脱ぐ姿を見せるなど、まさに色仕掛けそのものだろう。
きっとフェリクス様もはしたなさに呆れて目が点になっているに違いない。
……この調子で次を仕掛けるわよ!
フェリクス様がティーカップをテーブルの上に置いたのを視界に入れ、私は次なる手を繰り出す。
「フェリクス様が召し上がっていた紅茶は私が頂いたものとは違う茶葉なのですよね? そちらの味わいも気になります。一口だけ味見させて頂きますね?」
にっこり笑い掛け、そのままフェリクス様が今しがたまで飲んでいたティーカップを手に取り、そのカップに自身の唇を付ける。
間接的な口づけだ。
これもエバに教えてもらった方法である。
色っぽさは低めだが、少しでも相手の気を惹きたい時に積極的な女性はこうやって仕掛けているらしい。
……人の唇が触れたところに自分も唇をつけるなんて初めての経験だわ。直接的な口づけではないけれど、これはこれで……。
平然とやってのけているものの、実は内心ではとてもソワソワしていた。
大胆なことをしている自覚はあるので、恥ずかしさを必死に押し殺しているのだ。
そんな心情を誤魔化すために、私はフェリクス様の紅茶を一口飲んだ後、お茶請けとしてテーブルに並んでいるスコーンに手を伸ばして口にする。
もぐもぐと咀嚼をしていると、しばらく口をつぐんでいたフェリクス様がふいにふふっと小さな笑いを漏らした。
「僕が飲んでいた方の紅茶の茶葉はどう?」
「お、美味しいです!」
「一口で味見できたの? なんだったらもっと飲んでくれても構わないよ。あ、口移しで飲ましてあげようか?」
「えっ? く、口移し……ですか!? いいえ、結構です……! ま、間に合っております……!!」
断りもなく自分の飲み物に口をつけられてさぞ不快な思いを抱いていると期待していたフェリクス様は、前回同様またしてもなぜか楽しげな雰囲気だ。
にこにこと笑顔のまま、口移しなどという突拍子もないことを言ってくる始末である。
「シェイラ、唇の端にクロテッドクリームが付いてるよ?」
思わぬ発言に動揺している私にさらなる混乱を与えるかのごとく、フェリクス様はそう切り出すと、私の口元へと手を伸ばしてきた。
そして親指でクリームを拭ってくれる。
それだけでも突然唇に触れられたことで急激に心拍数が上がったというのに、さらなる驚きが私を襲う。
なんとフェリクス様は親指に付いたクリームをそのままペロリと舐めとったのだ。
「………!!!」
声にならない声が唇から漏れる。
……い、今の見間違えではないわよね!? フェリクス様は私の口に付いていたクリームをな、舐めた……!?
信じられない行動に目を剥く私をフェリクス様は平然とした様子で目を細めて眺めている。
「指で拭うより直接舌で舐めとった方が良かった?」
あげくには揶揄うようにこんなとんでもない発言を放った。
おかしい。
つい先程まで女の武器を全面に私の方が仕掛けているはずだったのに。
今や翻弄されているのは私の方である。
ここに来てようやく嫌われようと試みていることは、単にフェリクス様を面白がらせているだけなのではないかと薄々感じ始めた私だった。