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雒陽蘭台秘史  作者: 檀 瑠里
建平元年
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−4

 長楽宮(ちょうらくきゅう)

長安城内、未央宮の東側にあることから「東宮」とも呼称される。

 秦の中興の祖・孝公がその都を咸陽に移すと、まずは皇帝が生活する咸陽宮が建造され、そののち渭水を挟んで南側の土地にも宮殿が建てられ興楽宮と名付けられた。

 咸陽宮と橋で結ばれていたその興楽宮を礎に、高祖5年(前202年)から修復・増築され、高祖7年2月に完成した宮殿が「長楽宮」である。

 

 漢の都が長安と定められてからのち高祖の存命の間、長楽宮は皇帝の居住所であった。未央宮が完成すると皇帝の生活の場はそちらに移ったが、長楽宮には高祖の妻にして皇后、そして第二代皇帝の母として皇太后となった呂氏がそのまま住み続けた。それ以来、長楽宮は代々の皇帝たちの母が余生を過ごす皇太后宮としての役割を果たすようになった。


 その長楽宮内の長信宮と呼ばれる殿舎内、漆塗りの豪奢な調度品が置かれた室の中、絹の帷に包まれた牀の上で一人の貴婦人がその瞼をゆっくりと開いた。


「…たれぞある」

少し掠れた声で呼び掛ければ、帷の外から寝ずの番をしていたらしき女がすぐさま答えた。

「王太皇太后陛下、班が控えております」

 帳の中にいる貴婦人の名は、王政君。

1年前(前7年)の綏和2年に突如崩御し成帝と諡号された、漢第12代皇帝・劉驁の実母であった。

 太皇太后とは平たく言えば2代前の皇帝の正妻、すなわち皇后であった女性のことをいう。王政君は、第11代皇帝、元帝と(おくりな)された劉奭の皇后であった。

 帝位が父から子へ、そして孫へと順調に継承されたならば、太皇太后は現皇帝の祖母にあたることになる。だが、必ずしもその関係が実の祖母と実の孫であるとは限らない。

 血統を維持するために、皇帝には正妻である皇后の他に妾である多くの妃嬪たちがおり、その妃嬪のひとりが産んだ男児が帝位を継ぐこともあったからである。

 皇后がまだ任じられていなかった場合、後継者たる男児を産んだ妃嬪がのちに皇后になることもあったが、皇帝によってはその時の後宮や外戚などの勢力情勢を考慮し、子のない妃嬪をあえて皇后として選ぶことがあった。その場合、帝位継承予定者は血の繋がりのない皇后を「嫡母(ちゃくぼ)」として(とうと)び、その養い子となることで地位を確固なものとしたのである。


 そして順調な帝位継承が行われなかった(あかし)であるかの如く、「孫」に当たるはずの現在の皇帝劉欣と、「祖母」である王太皇太后の間に、血の繋がりは、ない。


「ああ、班、おはよう。・・・少し喉が乾いていて。・・・白湯(さゆ)を」

「畏まりました。こちらに用意してございます」

 目覚めと共に白湯を飲む習慣のある太皇太后のために、班は目覚める時間を見計らい、飲みやすい温度になるように準備をすませていた。

「…ありがとう」

小さい咳払いが聞こえた後、絹でできた重纊(綿入りの布団)が微かに音を立てた。太皇太后が起き上がった気配を確認すると、班は帷の隙間を小さく開いてから白湯の入った(わん)を両手でそっと差し出した。


 王太皇太后は碗を両手で受け取り白湯を音もなく一口啜ってゆっくりと喉を潤すと、ふと思い出したように帳の外へまた声をかけた。

「…前から言っているけれど、倢伃(しょうよ)にまで上がった其方が私の寝ずの番をすることはないのよ。わたくしは息子と良いご縁のあった()に厳しくする趣味は持っていませんからね」

冗談めかした王太皇太后のその言葉に、一睡もしなかった疲れなど微塵も感じていない班は思わず微笑んだ。

「わたくしが、好きでしていることですから。のちほど李平が参りますので、その後に少し寝ませていただきます」

「そうね、そうなさい。後で無理に起きてくる必要はないわ。明日また顔を見せてくれれば結構よ」

「はい。お心遣いありがとうございます」

「其方の爪の垢を煎じて、趙飛燕(ちょうひえん)に飲ませたいものだわ。皇太后を名乗って北宮(ほくきゅう)にいるのかと思うと本当にもう…」

 北宮とは長安城内において未央宮からは北東、長楽宮からは西北に位置する宮殿であり、前皇帝・劉驁の皇后であった趙飛燕が皇太后として賜った宮殿であった。

帳を隔てて、一瞬の重い沈黙が落ちた。それを断ち切るかのように、班はあえて明るく王太皇太后に声をかけた。

「帳を開けてもよろしいですか? 」

「ええ、お願い」

 帳をするすると開けると、髪が少なくなっていることを除けばもう60歳をとうに越しているとはとても思えぬほど若々しい王太皇太后の姿が現れた。

「今日も、良い天気のようね」

「はい。昨夜は月が綺麗に出ておりました。空気も澄んでいたのでしょうか、星々もとてもよく見えて。…その代わりと言ってはなんですけれど、今朝はとても冷え込んでいます。室は温めておりますが、綿入れを用意しておりますのでこちらをお召しください」

「本当ね、いつもよりも随分寒い気がする。…ところで、今日の予定は?」

碗を班に返すと、代わりに差し出された、美しい刺繍が一面に施された絹入れをいそいそと羽織りながら王太皇太后は尋ねた。

「はい、王新都侯がご機嫌伺いにいらっしゃりたいと」

「そう、莽がね。ここへ来るということは、あの子は今日、中黄門へ行くのかしら? 」

「はい、陛下から食事を賜った後こちらへ、とのことでした。」

「莽に10日に1度だけ中黄門に行くことを許すなどと…。前に傅氏との面会を10日に1度だけ許されたことに対する意趣返しのつもりとしか思えないわね。皇帝だというのに本当に大人気ない…」

王太皇太后は小さくため息をつき、それから呟いた。

「莽には、本当に悪いことをしてしまった。大司馬に任命されて1年足らずで職を辞さねばならなくなるなんて…。あれだけ清廉潔白な者なのだから、誰よりも立派にその任にあたったでしょうに。

……まさか、驁がこんなに早く亡くなるなんて思ってもみなかった…あんなに元気だったのに、子も残さずに逝ってしまうなんて、まだ信じられない…」


 後宮に素性のわからない女たちを入れることを許すべきではなかった、と王政君はその時のことを思い出して唇を噛んだ。

 特に、どこの馬の骨とも知れない趙飛燕、趙合徳の姉妹を。

あの姉妹が入宮したことから全ての歯車が狂い出し、そして趙合徳のせいで我が子・驁は死んだ。

そして狂った歯車は今日もまだ狂ったまま、王政君の世界を壊し続けようとしている。


 自分は「皇太后」としてこの長楽宮で孫たちに囲まれながら、元帝陛下の待つ陵へと旅立つはずであったのに。

自分が息子よりも長く生きることになろうとは。

息子の子供を、孫を帝位につけることができなくなろうとは。

 

 あの時の自分は思ってもいなかったのだ。

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