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雒陽蘭台秘史  作者: 檀 瑠里
建平元年
2/4

ー2

 ここまで聞こえるようなあの産声であるならば、間違いなく元気な子に違いない、と男は気持ちが浮き立つまま手を打ち鳴らし、己の頬が情けなく緩むのを許した。

 男には産声を上げることなく儚くなった子もいたし、弱々しい産声を上げて今年の春に生まれてきた、この冬が越せないのではと皆で気を揉んでいる男児もいる。

 ーだから、男は産声が生まれた子の生命力を測る上で一定の目安となることを経験として知っていたのである。

「今から行って、生まれた子に会えるだろうか?」

「こちらにお連れいたしましょうか?」

「うむ。…ああ、いや、生まれてすぐの子供を母親から離すのは忍びない。行っても構わなければわたしが行こうと思うのだが」

「お家を盛り立てる男の子をご出産になられたのです。旦那さまがいらっしゃればお喜びになられましょう。清めが済んで寝所にうつられたら知らせるよう伝えて参ります」

「そうか、そうだな」

そわそわと落ち着かない男を残して側仕えの曹が再び音を立てずに出て行ってすぐに、こどもの飛び跳ねるような足音が響いてきた。

「おとうさま!弟が生まれたって!」

「おや、(げん)か。まだ陽も上がっていないのに、目が覚めたのか」

「だって眠れなかったんだもん。それに、今日はトクベツだから仕方ありませんねって、ばあやが」

「子供は寝ることが仕事だ。お前が風邪でもひいて、それを赤子に移すようでは(かな)わんぞ。早く寝床に戻りなさい」

「ばあやがね、『どうせこのまま寝てくださらないんでしょう。なら、赤ちゃんを見てお母様にご挨拶してからなら寝てくれますか』って」

至極真面目な顔で、秘密を父と共用しようとする娘に、男は思わず吹き出した。

乳母(ばあや)は一晩中この娘に手を焼いたに違いない、と心から同情しつつ、笑いを堪えることができず、腹を抱えて笑った。

「そうか、ばあやがいいと言ったんだね。お前は女だから、今から行っても大丈夫だろう。私もついて行きたいところだが、少し待つように言われているのでね、ここでお前が帰ってくるのを待っているから、さあ、ほら。早く弟に会いに行っておいで。そしてどんな子だったか、教えておくれ」

男に促されて、(げん)はまた飛び跳ねるような歩調で母と、新しく生まれた弟のいる室へ向かっていった。


 男が口を濯ぎ、羅襦から着替えて身を整えていると、こころもち項垂れいかにも意気消沈した様子の元が曹に手を引かれて戻ってきた。

「くしゃくしゃで可愛くなかった…。元が思っていた赤ちゃんと、違った。ねえ、父さま、赤いから赤ちゃんっていうってほんと?」

いかにもがっかりした、という口調の娘に男はまたプッと吹き出しそうになった。だが娘を傷つけたくなくて、震える口髭を必死に意志の力でねじ伏せながら、真面目な口調で答えた。

「そうだねえ、そういうことらしい、とは聞いたことがあるなあ」

「わたしも、赤かった?」

これは否定すべきなのか、それともしないほうが良いのか。

元の縋るような目に判断を迷いつつ、男は娘を抱き上げ、その黒い瞳を覗きこみ話しかけた。

「元も生まれたばかりの時は、赤かったと思うよ。でも、父さまにとってはお前が一番初めて生まれた子だったから、なんて可愛いんだと思ったことしか覚えてないなあ。そうか、お前の弟はとっても赤い子だったのかい?」

「うん。アレが弟って、こわい…」

眉を寄せ幼い顔を顰めながら生真面目に答える娘に、男は微笑んだ。

「そんなことはないさ。さあ、もうおやすみ。起きてからゆっくりと赤ちゃんを見に行っておいで。お日様の光の下では、きっと違う風に見えると思うよ」

男は娘を乳母の下に連れて行くよう曹に伝えると、寝所に移ったという女を見舞うために室を後にした。


「これは旦那さま、おめでとうございます。先ほど元さまがお部屋にいらっしゃいましてご対面になられました」

「ああ、弟ができたので嬉しくて仕方ないのだろうな。私のところへきて『赤ちゃんが赤かった』と連発していたよ。もう寝るように言っておいたが、あの子の事だ。きっと腹を空かせていつも通りの時間に起き出してくるだろう」

 男は苦笑を浮かべながら答え、今から会っても良いか、と産婆に尋ねた。もちろんでございます、との返事を得ると、今度は満面の笑みを浮かべた。そして産婆に案内されながら、女が寝んでいる奥の部屋へと足を進めた。

「旦那さま」

(じょう)。ご苦労だった」

 子供を産んだばかりの女は、牀の上で温かそうな綿入りの布団に包まれ、陶器のように輝く肌にまるで薄く紅を掃いたかの如く顔を上気させていた。その愛しい女の少し汗ばんだ頬を優しく撫でながら、男は囁いた。

「元気な男の子だと聞いた。よく産んでくれた」

「旦那さま…」

女は嬉しそうに微笑むと、頬を撫でる男の骨張った手を自らの白いほっそりとした手で包んだ。

「子を抱いても良いか?」

ひっそりと脇に立っていた産婆が、布に(くる)まれた、生まれたばかりの子を男に向けてそっと差し出した。男が子を抱き取ると、まるでその時を待っていたかのように日の出を告げる赤い光が徐々に窓から差し込み、部屋の中を満たし始めたのである。

「これは…」

「なんとめでたい!おめでとうございます、旦那さま。これは瑞兆に、瑞兆にございます。お家を盛り立てていってくれるお子がお生まれになったのでございましょう!」

 産婆は興奮のあまり唾を飛ばして言い切ると、がばり男に向けて平伏した。

「わたしはもう数えきれないほど赤ん坊を取り上げてきましたが、これほど目鼻立ちの整った男子は覚えがありません。そしてこの瑞兆、なんとおめでたいことでしょう」

「そうか。どうだ、私に似ているか?」

男は息子から目を離さずに尋ねた。

「ええ、よく似ていらっしゃる。この額のあたり、そして高いお鼻。まさに龍顔、劉家のお顔ですわ」

産婆は興奮のあまり頬を赤らませ、まるで自分の手柄かのように胸を張った。


 男が浮かれた気分のまま自身の室に戻ると、そこには1人の女が拱手しながら主を出迎えた。

美しく化粧を施した顔をあげた女は、夜も明けたばかりだというのに刺繍が所々施された深衣を乱れなくきちりと着こなしており、艶やかな黒髪も後毛ひとつなく結い上げられていた。

 その女に、男はにこりと微笑んだ。

孟繁(もうはん)様」

「今度の子は、男であった」

 男は自分をじっと見つめている目の前の女に、ゆったりと告げた。威厳を保つために口元を引き締めようとしたが、愛しい女が男児を産んだばかりである。どうしても目尻は下がり、口元が嬉しさに緩み、その口元を隠すはずの髭が揺れてしまう。

「…おめでたく存じます」

 女は筆で一気に描いたような細い目に感情を載せぬまま祝いを述べた後、零すため息を男に気取られぬよう顔を伏せた。そして奥歯をぐッと噛み締め、曲裾深衣の袖の中に隠した手を膝の上で握り締めた。

「私が子を抱き取った時に赤光が部屋に満ちた。瑞兆に違いない。卜者(うらないし)を呼び寄せ占った上で、良い名前をつけようと思う」

「…」

 名をつけるのは三月も後のこと、その時まで生きているかどうかなどわからないのに…?

頭に浮んだ自らの黒い思いを振り払おうとするかのように、女は小さく首を振った。

 どちらにしても、女に決定権など、ない。

生まれた子が女児であったならば同性としてまだしも口を挟む余地はあったかもしれないが、「家」を繁栄させていく男児であるならば、全ては家長の決定がものをいう。

「……旦那さまの御心のままに。」

 良家の、末端ではあるとはいえ皇家に連なる一家の妻として、自らの醜い感情を押し殺して女は淑やかに答えた。

「うむ」

 顔を上げると満足そうに頷く男の()()下がった顔がちらりと見えてしまい、それを直視することに耐えられず再度俯いた。ひと呼吸おき微かに頷いてから意を決するように少し目をあげた時、生まれたばかりの子が元気に泣く声が聞こえ、女は自らの乳が固く張ってきているのを感じた。

 夏に生まれたばかりの我が子の泣き声も聞こえてきた気がして、思わず身じろいだ。

 今日生まれてきた子が、どちらかというとひ弱な我が子と同い年になることに思い至り、気づかれないようにまた小さくため息をついた。

 正月を過ぎれば子は一つ歳をとる。せめて、年を越してから生まれてくれればよかったのに。

頭の隅に(ほとばし)る黒い思いに嘆息しているのを知ってか知らずか、女の耳に男が小さく呟く声が聞こえた。

「そうか、如とは同い年になるのだな」

 女は答えに窮し、突然落ちた沈黙に二人で居心地の悪さを覚えていると、室の外がにわかに騒がしくなりばたばたと慌ただしい足音が行ったりきたりしているのが聞こえてきた。

 女主人の躾が隅々まで行き届いていて、普段ならば必要以上に物音を立てることなどない者たちの慌てふためいた様子が壁越しに伝わってくる。

 よほどのことがおきたに違いない。

勢いよく扉が開けられ、曹がいつもの冷静さをどこかに忘れてきてしまった様子で顔をつき出した。

「旦那さま、(じょう)様が・・・!」

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